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双璧
十一
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宮廷内は白起が齎した戦捷と共に戦慄した。
「二十四万を斬首だと」
臣下の誰かが、恐怖の上に言葉を乗せた。朝議の場だった。誰もが一度、歓喜の余り振り上げた拳を愕然と下ろした。
「宰相。これはあまりにも」
玉座の嬴稷は、蒼白い顔を傍らに宰相にぎこちなく向けた。結果、白起は周を戴いた韓・魏を破り、伊闕を陥落させている。燦然たる功績だった。
それでも、白起が投降兵に行った、現実味を欠いた凄惨な顛末が勝利の感覚を鈍らせている。今や白起の後見人といっても相応しい、魏冄ですら二十四万という人間を虫けらの如く屠った、白起の異常性に恐怖を覚えていた。
白起は崇拝と畏怖が綯交ぜになった民衆の視線を浴びながら、咸陽へと堂々と凱旋した。魏冄は帰還間もない、白起を早々に相府へと召喚した。
「左更(爵位)白起。伊闕より帰還致しました」
執務室の扉が開いたと同時に、魏冄は事の顛末の仔細を白起に問い詰めようとした。
だが、白起の姿が眼に飛び込んできたと同時に言葉は出ず息を呑んだ。明らかに白起が纏う気が変わっていた。かねてより超常的な気配を漂わせていたが、何処か荒々しいものも含まれており、同じ人として親しみは覚えることはできた。しかし今はー。超常的な気配は更に清廉され、人として其処にあるべきものが削ぎ落されている。皮が剥けた。いや、そんな生易しいものではない。薄くでも纏っていた人の皮が、削ぎ落され、天が遣わした化け物が真の正体を現した。
彼ならやってのける。例え二十四万だろうが。百万、千万だろうが。目的の為なら、寸毫の悪意も罪悪もなく人を屠る。
「何があった?」
「叱責を受けると思っていたが」
凛と構える白起は冷えた笑みを浮かべた。慄然とする。これほど心が宿らない笑みはない。
「言いたいことは山ほどある。だが話を聞こう」
「魏の総大将公孫衍は奇妙なことをいった」
「奇妙なこと」
「ああ。階を視たと」
「どういう意味だ?」
「天へと伸びる階だ。死を間際に狂った男の戯言かと思ったが、よくよく考えた。奴はもしかすると理想郷への入り口を見たのかもしれない」
白起はつまらない冗談を交える男ではない。
「虐殺の果ての天下などない。いいか。お前が行ったことは虐殺以外のなにものではない。むしろ、俺は天下が遠ざかったと思っている。魏はお前の非道を未来永劫と忘れることはないだろう。更に言えば、伊闕の一件でお前の名は天下へと轟いた。それも史上最悪の梟雄として」
白起はただ張り付けただけのような笑みを浮かべたままである。
「武王は俺に語った。例え万斛の血が流れようとも、未来永劫と続く理想郷の為に戦うと」
「今回の一件で、秦の立場は更に複雑なものとなった。諸国はお前の非道を理由に、合従を画策するかもしれん」
「向かって来るならば叩き潰せばいい」
「簡単に言ってくれるな」
「あんたは大きな計算違いをしている。俺達の寿命は無限ではない。有限だ。だからこそ、俺達の命がある内に、武王の宿願を果たさなくてはならない。後世に託すなど悠長なことを言っていられない。
秦王の後胤に、武王のような前衛的な思想を持つ英雄王が現れるとは限らない。もしかすると、次の代で秦は滅ぶかもしれない。俺達は乱世の中、常に危険な橋を渡っている。ならば一人でも多く敵を滅ぼすことが天下の近道になる」
確かに白起の言は理に適っている。どれほど人道から外れた行いをしようが、白起は誰よりも天下統一を切望している。その真っ直ぐな気持ちだけは本物だ。
魏冄は言葉に窮した。最早、何が正しいことなのか。武王の宿願を掲げる以上、血が流れるのは必定。だが、二十万もの兵士の首を躊躇なく、白起が刎ねさせたと訊いた時、躰が凍った。己が甘いのか。宿願への道はー。即ち屍の道。もしや白起だけがその道の険しさを理解していたのかもしれない。だが、どれほど敵を殺し続ければ、道は拓けるのだろうか。無制限にのしかかる業に、己は人として耐えることができるのだろうか。
「その為に俺がいる」
白起は魏冄の迷いを見透かしたように言った。
「業は俺が」
「どれほどの血が流れると思っている。とてもお前一人では背負いきれない」
「其れが俺の役目だ」
返す言葉がなかった。怖じ気づいたのだ。自分の双肩に何百万という怨念を背負こむことに。
「俺は所詮、走狗に過ぎん。だが、あんたは武王の頭脳であり、この国の頭脳でもある。互いに与えられた役目が違う。あんたは宰相として、己の使命を全うすればいい」
背を向けた白起の双肩。一瞬、己の眼を疑った。黒い瘴気が渦巻いていた。彼は文字通り、業を背負い込んでいた。そしてー。これから先、更にその業は深くなるのだろう。きっと彼の逞しいとは言えない、小さな躰を覆いつくほどに。その時―。白起はー。
「二十四万を斬首だと」
臣下の誰かが、恐怖の上に言葉を乗せた。朝議の場だった。誰もが一度、歓喜の余り振り上げた拳を愕然と下ろした。
「宰相。これはあまりにも」
玉座の嬴稷は、蒼白い顔を傍らに宰相にぎこちなく向けた。結果、白起は周を戴いた韓・魏を破り、伊闕を陥落させている。燦然たる功績だった。
それでも、白起が投降兵に行った、現実味を欠いた凄惨な顛末が勝利の感覚を鈍らせている。今や白起の後見人といっても相応しい、魏冄ですら二十四万という人間を虫けらの如く屠った、白起の異常性に恐怖を覚えていた。
白起は崇拝と畏怖が綯交ぜになった民衆の視線を浴びながら、咸陽へと堂々と凱旋した。魏冄は帰還間もない、白起を早々に相府へと召喚した。
「左更(爵位)白起。伊闕より帰還致しました」
執務室の扉が開いたと同時に、魏冄は事の顛末の仔細を白起に問い詰めようとした。
だが、白起の姿が眼に飛び込んできたと同時に言葉は出ず息を呑んだ。明らかに白起が纏う気が変わっていた。かねてより超常的な気配を漂わせていたが、何処か荒々しいものも含まれており、同じ人として親しみは覚えることはできた。しかし今はー。超常的な気配は更に清廉され、人として其処にあるべきものが削ぎ落されている。皮が剥けた。いや、そんな生易しいものではない。薄くでも纏っていた人の皮が、削ぎ落され、天が遣わした化け物が真の正体を現した。
彼ならやってのける。例え二十四万だろうが。百万、千万だろうが。目的の為なら、寸毫の悪意も罪悪もなく人を屠る。
「何があった?」
「叱責を受けると思っていたが」
凛と構える白起は冷えた笑みを浮かべた。慄然とする。これほど心が宿らない笑みはない。
「言いたいことは山ほどある。だが話を聞こう」
「魏の総大将公孫衍は奇妙なことをいった」
「奇妙なこと」
「ああ。階を視たと」
「どういう意味だ?」
「天へと伸びる階だ。死を間際に狂った男の戯言かと思ったが、よくよく考えた。奴はもしかすると理想郷への入り口を見たのかもしれない」
白起はつまらない冗談を交える男ではない。
「虐殺の果ての天下などない。いいか。お前が行ったことは虐殺以外のなにものではない。むしろ、俺は天下が遠ざかったと思っている。魏はお前の非道を未来永劫と忘れることはないだろう。更に言えば、伊闕の一件でお前の名は天下へと轟いた。それも史上最悪の梟雄として」
白起はただ張り付けただけのような笑みを浮かべたままである。
「武王は俺に語った。例え万斛の血が流れようとも、未来永劫と続く理想郷の為に戦うと」
「今回の一件で、秦の立場は更に複雑なものとなった。諸国はお前の非道を理由に、合従を画策するかもしれん」
「向かって来るならば叩き潰せばいい」
「簡単に言ってくれるな」
「あんたは大きな計算違いをしている。俺達の寿命は無限ではない。有限だ。だからこそ、俺達の命がある内に、武王の宿願を果たさなくてはならない。後世に託すなど悠長なことを言っていられない。
秦王の後胤に、武王のような前衛的な思想を持つ英雄王が現れるとは限らない。もしかすると、次の代で秦は滅ぶかもしれない。俺達は乱世の中、常に危険な橋を渡っている。ならば一人でも多く敵を滅ぼすことが天下の近道になる」
確かに白起の言は理に適っている。どれほど人道から外れた行いをしようが、白起は誰よりも天下統一を切望している。その真っ直ぐな気持ちだけは本物だ。
魏冄は言葉に窮した。最早、何が正しいことなのか。武王の宿願を掲げる以上、血が流れるのは必定。だが、二十万もの兵士の首を躊躇なく、白起が刎ねさせたと訊いた時、躰が凍った。己が甘いのか。宿願への道はー。即ち屍の道。もしや白起だけがその道の険しさを理解していたのかもしれない。だが、どれほど敵を殺し続ければ、道は拓けるのだろうか。無制限にのしかかる業に、己は人として耐えることができるのだろうか。
「その為に俺がいる」
白起は魏冄の迷いを見透かしたように言った。
「業は俺が」
「どれほどの血が流れると思っている。とてもお前一人では背負いきれない」
「其れが俺の役目だ」
返す言葉がなかった。怖じ気づいたのだ。自分の双肩に何百万という怨念を背負こむことに。
「俺は所詮、走狗に過ぎん。だが、あんたは武王の頭脳であり、この国の頭脳でもある。互いに与えられた役目が違う。あんたは宰相として、己の使命を全うすればいい」
背を向けた白起の双肩。一瞬、己の眼を疑った。黒い瘴気が渦巻いていた。彼は文字通り、業を背負い込んでいた。そしてー。これから先、更にその業は深くなるのだろう。きっと彼の逞しいとは言えない、小さな躰を覆いつくほどに。その時―。白起はー。
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