白狼 白起伝

松井暁彦

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双璧

 八

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 公孫衍は四日目の暁を迎える頃には、勝利を確信していた。夢寐むびの中では、戦捷せんしょうに湧く魏の都大梁だいりょうに華々しく凱旋する己の姿があった。
 
 最早、秦軍に勝ち目はない。というより、当初から秦軍に勝ち目などなかった。此方は二倍の兵力を有し、伊闕は韓・魏共に馴染み深い土地である。更には周室の威光を奉じての合従軍である。鋭気も端から充分に高まっていた。
秦軍は三日目の時点で、一万近くの損害を出している。対して韓軍は四千と半分を満たず、後方に控える魏軍は五百も満たない。
 
 公孫衍は晴れやかな気持ちで、三里先に布陣する秦軍を見遣る。窪地に布陣した、秦軍の陣営だけに濃い霧がかかっている。まるで、秦の若き将軍白起の暗澹あんたんたる心地を自然が体現しているようだ。

「白起ね」
 公孫衍は小さく繰り返す。韓の将軍暴鳶は、三日間に亘って執拗に秦軍の奇々怪々とした様子を訴えてきた。

「何かおかしいのです。まるで手応えを感じない。赤子の肌を貫くような感覚で陣形が容易く崩れていくのです」
 所詮、白起は若く経験の浅い軍人である。ましてや、十万の大軍を率いての戦の経験などあるはずもない。
 
 昨年、白起は三万の軍勢を率いて、韓の新城を陥したようだが、実力の云々の話ではなく、ただ運が味方としか思えない。三日間、彼の戦を肌で感じた印象はー。凡愚である。

「私は秦を攻めた合従軍戦の折にたった五百騎で戦場を搔き乱す、白起の姿を目の当たりにしています。あの戦は、彗星の如く現れた白起の働きが敗因といっても過言ではありません」
 気持ち半分で聞き流す公孫衍に、苛立ちを募らせながらも暴鳶は語尾を強め何度も進言した。それでもただの偶然が重なったとしか思えなかった。確かに白起には天祐てんゆうがあったのだろう。だが、それも此処までだ。
 
 公孫衍は従者を呼びつけ具足を纏った。幕舎を出て、兵士の顔を順順に眺める。温存した甲斐はあったようだ。鋭気は充分。今日で戦は終わる。
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