白狼 白起伝

松井暁彦

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双璧

 五

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 夜。幕舎内に灯した、燭台の炎が微かに揺れた。

きょうか」
 幕舎の幕は開いていない。今や戦線を退き、諜報部隊の長として影の主となった摎には、
音も気配もなく、幕舎に侵入することなど容易い。摎は目深に被った、黒の頭巾を脱ぎ去り、胡床に座する白起の前に膝をつく。 
 
 摎という男は、生来蒲柳ほりゅうを窺わせる華奢な男だった。だが、今の彼の顔は頬が角ばり、太い眉で武骨な印象を受ける。今や彼の本当の顔はない。情況に応じて、顔や身分を容易に変える。正に百面相である。

「訊かせろ」
 白起に敵地に潜む、常に危険に晒される彼等に労いの気持ちはない。白起は摎を含めた、総勢五百人にものぼる影の軍団を黒狗くろいぬと呼ぶ。黒狗達が仕えるのは、白起であって白起ではない。彼もまた武王に救われた孤児達なのだ。彼等が仕えているのは、今も昔もただ一人。武王に名と宿願を託された白起を通して、彼等は未だ武王に忠誠を誓っている。危険を顧みず、間者として敵の懐に飛び込むのも、白起が上官として強要しているものではなく、彼自身の選択によるものである。

「合従軍の総大将は魏の公孫衍こうそんえんという男です」続けろと顎で促す。

「弁士としての色が強い男です。雄弁な男で、魏王からの信用は厚いかと」
 白起は冷笑を浮かべる。

「舌先三寸の弁士が、軍人の真似事とは。笑わせる」
 秦では功績が何よりも重んじられる。商鞅の変法により、功績無きものは列候であっても、爵位を剥奪される。故に秦では声望に頼らず、白起のように力と才覚のみでのし上がった猛者が多い。

「また自尊心、猜疑心が強い男であります。何より、同盟国である韓のことすら信用に置けぬ様子」

「そういう男は自らの兵の損失を忌避するだろうな」

「ええ。事実、公孫衍は韓軍を先鋒に立たせようとしています」

「韓軍は魏軍よりは練度が高い。武器も良いものが揃っているからな。あわよくば、己は功績だけを掠め取ろうとしているのだろう。韓軍も発起国が故に、魏に対して強く出ることはできないだろうな」

「我々が手を下さす前より、既に不和の波が立っています」

「互いに疑心暗鬼か。だとすれば、押してやれば崩れるのも早いな」
 白起の眼が妖しく光る。

「お前は韓に公孫衍の目論見を誇張し流言しろ。結果、韓は魏に対して疑念を抱き、連携を嫌がる」

「御意」

「俺は公孫衍の目論見に、少しの間付き合ってやるとする」
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