白狼 白起伝

松井暁彦

文字の大きさ
上 下
112 / 336
双璧

 五

しおりを挟む
 夜。幕舎内に灯した、燭台の炎が微かに揺れた。

きょうか」
 幕舎の幕は開いていない。今や戦線を退き、諜報部隊の長として影の主となった摎には、
音も気配もなく、幕舎に侵入することなど容易い。摎は目深に被った、黒の頭巾を脱ぎ去り、胡床に座する白起の前に膝をつく。 
 
 摎という男は、生来蒲柳ほりゅうを窺わせる華奢な男だった。だが、今の彼の顔は頬が角ばり、太い眉で武骨な印象を受ける。今や彼の本当の顔はない。情況に応じて、顔や身分を容易に変える。正に百面相である。

「訊かせろ」
 白起に敵地に潜む、常に危険に晒される彼等に労いの気持ちはない。白起は摎を含めた、総勢五百人にものぼる影の軍団を黒狗くろいぬと呼ぶ。黒狗達が仕えるのは、白起であって白起ではない。彼もまた武王に救われた孤児達なのだ。彼等が仕えているのは、今も昔もただ一人。武王に名と宿願を託された白起を通して、彼等は未だ武王に忠誠を誓っている。危険を顧みず、間者として敵の懐に飛び込むのも、白起が上官として強要しているものではなく、彼自身の選択によるものである。

「合従軍の総大将は魏の公孫衍こうそんえんという男です」続けろと顎で促す。

「弁士としての色が強い男です。雄弁な男で、魏王からの信用は厚いかと」
 白起は冷笑を浮かべる。

「舌先三寸の弁士が、軍人の真似事とは。笑わせる」
 秦では功績が何よりも重んじられる。商鞅の変法により、功績無きものは列候であっても、爵位を剥奪される。故に秦では声望に頼らず、白起のように力と才覚のみでのし上がった猛者が多い。

「また自尊心、猜疑心が強い男であります。何より、同盟国である韓のことすら信用に置けぬ様子」

「そういう男は自らの兵の損失を忌避するだろうな」

「ええ。事実、公孫衍は韓軍を先鋒に立たせようとしています」

「韓軍は魏軍よりは練度が高い。武器も良いものが揃っているからな。あわよくば、己は功績だけを掠め取ろうとしているのだろう。韓軍も発起国が故に、魏に対して強く出ることはできないだろうな」

「我々が手を下さす前より、既に不和の波が立っています」

「互いに疑心暗鬼か。だとすれば、押してやれば崩れるのも早いな」
 白起の眼が妖しく光る。

「お前は韓に公孫衍の目論見を誇張し流言しろ。結果、韓は魏に対して疑念を抱き、連携を嫌がる」

「御意」

「俺は公孫衍の目論見に、少しの間付き合ってやるとする」
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦
歴史・時代
時は戦国時代。 舞台は北朔の国、燕。 燕は極北の国故に、他の国から野蛮人の国として誹りを受け続け、南東に位置する大国、斉からは朝貢を幾度なく要求され、屈辱に耐えながら国土を守り続けていた。 だが、嫡流から外れた庶子の一人でありながら、燕を大国へと変えた英雄王がいる。 姓名は姫平《きへい》。後の昭王《しょうおう》である。 燕国に伝わりし王の徴《しるし》と呼ばれる、宝剣【護国の剣】に選ばれた姫平は、国内に騒擾を齎し、王位を簒奪した奸臣子之《しし》から王位と国を奪り戻し、やがて宿敵である斉へと軍勢へ差し向け、無二の一戦に挑む。 史記に於いて語られることのなかった英雄王の前半生を描いた物語である。

本能のままに

揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください! ※更新は不定期になると思います。

if 大坂夏の陣

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話になりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

浅井長政は織田信長に忠誠を誓う

ピコサイクス
歴史・時代
1570年5月24日、織田信長は朝倉義景を攻めるため越後に侵攻した。その時浅井長政は婚姻関係の織田家か古くから関係ある朝倉家どちらの味方をするか迷っていた。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

鈍亀の軌跡

高鉢 健太
歴史・時代
日本の潜水艦の歴史を変えた軌跡をたどるお話。

不屈の葵

ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む! これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。 幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。 本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。 家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。 今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。 家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。 笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。 戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。 愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目! 歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』 ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

大日本帝国、アラスカを購入して無双する

雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。 大日本帝国VS全世界、ここに開幕! ※架空の日本史・世界史です。 ※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。 ※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。

処理中です...