白狼 白起伝

松井暁彦

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双璧

 三

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 眩暈めまいを覚えた。

(俺はどうすればいい)

  跡継ぎのいない魏冄のことを想えば、柚蘭が子を孕んでいるという真実を告げるべきであろうがー。だが、躊躇している自分がいる。柚蘭は富、権力、魏冄への愛ー。本当の意味で、全てを投げうって、子を昏い政争に巻き込むまいと、失踪を決意した。

「おい。どうした!白起」
 思惟の渦が、己をのみこみ、魏冄の声が遠くなっていく。


(何故、俺には伝えた。黙っていれば良かった)

 聡い柚蘭ならば、魏冄がいの一番に、己に柚蘭の消息を問うことは分かっていただろうに。


(まさかー)

 分かっていた上でー。

(俺に伝えのか)

 何故だ。己を試そうというのか。

(いいや、違う。あの女は、俺に子を託したのだ)

 父親である魏冄が危殆に瀕した時、魏冄の与力とさせるかー。それとも、柚蘭が望んだように、闘争とは関わりのない、平穏な生活を送らせるかー。

 白起は唇を噛み締めた。錆の臭気が口腔内に拡がる。

(業の深い女だ)

 白起は思惟の渦を払い、決然と魏冄の眼を見た。

「もうあの女に執着するな。柚蘭はお前の前から消えた。お前が執念を燃やすべきは、天下であって女ではない」
 動揺は消え、魏冄の眼の前には、いつもの憎たらしいほどの冷静沈着な白起がいた。


「ああー。そうだな」
 魏冄は苦笑を浮かべ、悄然とした眼差しで、床几に広げた地図を見遣った。その眼は記憶の中にいる、柚蘭を見つめていた。



 
 
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