白狼 白起伝

松井暁彦

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面影

 八

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 翼が朽ちていく。そして、思い出す。

(ああ。そうだ。もう俺は人としての生など送ることはできない。人でなしの俺には、剣としての道しか残されていない。それを武王は分かっていた)

「よせ。俺に愛など必要ない。たとえ紅野こうやに屍を晒すことになろうとも、俺はただ戦場で、剣を振るい続けることしかできない。それが唯一、俺に許された生き方だ」

「とても悲しい生き方です。お母さまはきっとあの世で悲しんでおられます」
 柚蘭のすすり泣く声が、纏わりついてくる。

「亡者が生者を偲ぶことなどありはしない」

「母の愛は死の境界も、超えるのです。今の私なら、それが分かります」

「俺に母の愛など分かると思うか。両親の顔すら思い出すことのできない、この俺に」
 白起は自嘲気味に口吻こうふんを歪めた。


「お前と魏冄の子ならば、俺のような出来損ないには育つまい。今や魏冄は、秦の宰相だ。男なら嗣子ししとして、何一つ不自由なく育ててやることができる。お前も正妻に据えられるはずだ」

 柚蘭の眸に、蒼い哀しみが拡がった。白起には不意に見せた、彼女の哀愁が理解できなかった。彼女は魏冄の子を孕み、これから子と共に、宰相の妻として、何不自由な日常が保障される。彼女が掴もうとしている、栄華は世の女ならば、万人が羨むものであろう。

「将軍」
 柚蘭は涙を拭い、花顔かがんを綻ばせ、愛おしそうに、首飾りに指先で触れる。

「母とは子の幸せの為ならば、己の全てを捨てる覚悟があるのですよ」
 言った柚蘭は、義渠の公女らしく、毅然としていた。
 白起の胸に疑念が渦巻いた。幸福の絶頂にあるともいえる、彼女が吐くような言葉ではなかった。

「さようなら。将軍」
 彼女は屈託のない笑みを浮かべ言った。

 茫洋とした虚しさが去来した。だが、これでいい。彼女に触れたとしても、亡くしたものはもう戻ってこない。人として、欠落した己に、道を選ぶ権利はないのだ。

「ああ。達者でな」
 踵を返す。沓の音に混じって、彼女が嗚咽を堪える音が、中庭を通り抜ける風に乗って運ばれてくる。何故、彼女は涙を流すのだろうか。柚蘭が愛しているのは、魏冄なのだ。己など、彼女の罪の象徴でしかない。彼女が触れた腕は、今も尚、火照りを宿している。白起はそっと腕に宿る、火照りに触れた。


 その数日後。柚蘭は魏冄の元から消えた。

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