白狼 白起伝

松井暁彦

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合従軍戦

 二十二

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 田文は廉頗の巨体を支え、意識を失った、彼の耳元で「ご苦労」と囁いた。
 
 従者を呼びつけ、廉頗を軍医の元へ運ばせる。
 一拍を置いて、

「さきのはどういう意味ですか?」
 平原君は怒りを含んだ声で問うた。
 
 白濁した双眸が、何を探るように絶えず微動する。袖がはためき、田文は静かに指を差した。
 喧騒。鉄器がぶつかり合う、鈍い音。平原君は音のする方を見遣った。魏の旗と秦の黒旗。秦軍が一気呵成に、本陣の壁を食い破ってきている。その勢いは、最早留まることはない。

「我等の敗けだ」
 孟嘗君は、ぽつりと漏らした。

「何を申されるのです!数では我等が未だ圧倒している。今から押し返すことなど容易いはず」
 平原君は縋るようだった。

「いいえ。我等の敗けだ。大軍とは言えど、所詮は寄せ集めの軍。練度も疎らで、決して士気は高いとは言えない。勢いに乗った秦軍を押し返せるだけの力はない」

「そんな馬鹿な。我々は五十万を超える大軍を有しているというのに」

「数で戦をする時代は終わりを告げたのだ。それを秦が証明した。いやー、違うな。白起という一人の少年が証明してみせた。早々に退陣されよ、平原君。我等はここで踏み止まる。面子にかけて痛み分け程度にはもっていくさ」
 平原君は烈火のように燃える、眼で孟嘗君を睨むと。無理矢理に溜飲りゅういんを下げるように唾を嚥下えんげした。

「ご武運を。孟嘗君」
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