白狼 白起伝

松井暁彦

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合従軍戦

 十六

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 無数の白刃を潜り抜け、白起は戦場を駆け回っていた。堰を切ったように、門から自軍が飛び出し、吶喊して蝟集いしゅうする合従軍に襲い掛かる。指揮官を悉く失った、合従軍は乱れた。中には背を見せ、逃走を試みる者もいるが、徹底して討ち果たしていく。

 流れは完全に此方へと向いた。今、押し返さなければ勝機はない。左翼で魏の旗が、駆け回っている。魏冄の騎馬隊も、よく鍛えられている。ふっと笑み、馬を駆り一千小隊の横腹に食い込む。撓む鉄の壁。白起の剣―。銀牙ぎんがが銀の一閃で盾ごと敵を斬り伏せる。
 
 通常、剣は人を斬ると、血を脂で切れ味が落ちていくものであるが、銀牙は違う。人の血を啜るほどに、その切れ味は増す。まるで血の味を覚えた狼の如く。

「食い破れ」
 肉薄。敵が星散する。背から両断する。追い立てる。その時、背筋を嫌なものが撫ぜた。

「来る」
 直感で理解する。強弓を射返した男が来る。
 前方。左右別れ、強い気配。共に五百程度。戦塵を斬り払い、猛虎のように向かってくる。
 舌を打ち、混戦の中から離脱する。右の楽の旗、目掛けて反転。二隊を同時に、相手するのはまずい。大きく孤を描き、楽の旗を掲げた騎馬隊の横腹に突っ込んだ。だが、感触は浅い。いなされた。

(くそ。巧い)
 僅かな離散。瞬く間に集約。正面からぶつかる。
 白き槍纓そうえいが螺旋を描く。迫る若い男。槍が龍の指のように伸びてくる。

(速い)
 肉眼で捉えられる、限り限りの速さ。穂先は白起の頬を掠めた。間違いない。これまで戦ってきた相手の誰より強い。

(正面からやり合うのは拙い)
 
 馬の肚を蹴った。離脱。縦に伸びる天狼隊。疾風の如く駆ける。追いすがってくる。
 左からもう一隊。廉の旗。挟まれる。更に加速。だが遅れることなく、追いすがってくる。
 三隊は複雑に絡み合う。頭を擡げる、大蛇のように。三人が並ぶ。颶風を浴び、睨み合う。大男が矛を振り上げた。矛先にとてつもない、力が集約されるのが分かる。

「首は貰うぞ。白起」
 炎の斬撃。全身が粟立つ。

「くっ」
 横に大きく薙ぎ払われた、一撃は白起の首の位置を的確にとらえていた。上半身を反る。
 太腿の筋力だけで、鞍と同じ高さまで躰を横に反らす。空を仰いだ。通過する斬撃。反ったまま、大男の視線が交錯する。態勢を戻すことなく、大男に剣を突き出す。顔色が変わる。突き出した剣は、浅く大男の腿を貫いた。

「器用な奴め」
 唾棄し大男が僅かに離れる。右から槍の男が来る。間断のない突き。槍は刹那の間さえ、白起に与えない。攻防の火花が絶えず、咲き乱れる。
 
 麾下達に救援の隙を与えないほど、彼等の麾下達の練度は高い。確実に王齕達の足止めをしている。大男が再び並ぶ。白刃の嵐。全身が鉛のように重い。大男の一撃を受ける度、脳の芯が震える。

「ちっ」
 槍を受けきれず、白起の横腹を浅く貫いた。血が滴る。だが、防御の手を止める訳にはいかない。刹那の遅れが、死に直結する。
 
 死―。これまで常に身近に感じていたものだ。死という概念に対して、今も恐怖など微塵もない。そのはずだ。だがー。ふと乱刃を浴びる最中、脳裏に過ったのは、武王の姿。彼は志半ばに倒れ、魏冄と白起に夢を託し逝った。もしここで、俺が死ねばー。
 
 俺と魏冄の元に別れ宿った、武王の志は虚空へ消える。俺は知っている。幾ら偉大な人物であろうと、その志を受け継ぐ者がいなければ、名も無く死んで行った者達の無数の死と何ら変わらない。
 
 魏冄だけでは武王の宿願は果たせない。彼は人だ。人ならではの甘さがある。其れを武王は分かっていた。だからこそ、獣である己にも夢を託した。忘却させてはいけない。王から託された者として。彼の死を無数の死と等しいものにしてはいけない。胸に闘志が渦巻く。その瞬間、眼の前の景色が豁然かつぜんと開いた。

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