白狼 白起伝

松井暁彦

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合従軍戦

 二

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 同年、冬。楚王が自ら秦に入朝した。楚は未だ、南に長大な領土を有している。だが、代償として国境を接する国は多い。敗戦続きでおおいに弱体化した、楚に強秦とやりあえるだけの力はない。故の和平交渉である。しかし、楚との盟約は裏切りによって、幾度も反故にされている過去がある。疑心暗鬼の秦王嬴稷は、宣太后の入れ智慧により、老いた楚王を捕え幽閉した。完全なる独断専行である。

「何故、楚王の身柄を抑留したのですか!?」
 朝議の場で、魏冄は嚇怒かくどした。黄金の絹の衣に冕冠べんかんを纏いし、嬴稷は鼻の穴をほじり出す勢いの腑抜けた面で玉座に座していた。

「決まっておる。楚は幾度も孤との盟約を反故にしておる。かの国は、斉に攻められた折り助けやった恩義も忘れ、国境を侵したではないか。楚王は信頼するに値しない男だ」
 反駁はんばくの余地なしといわんばかり、嬴稷の酔眼はそっぽを向いた。この時、王の拘留に焦った、楚の重臣達は太子熊横ゆうおう(後の傾襄王けいじょうおう)を大童おおわらわで、王に即位させた。
 
 新たに楚王となった横の気質を魏冄は知悉していた。彼は幼少期から青年期まで、人質として秦で過ごしている。しかし、秦の大夫を刺殺し、罪を懼れ祖国へと逃げ帰った。控えめに言っても不出来な若者であった。
 
「楚王を拘束したことで、楚人の反秦の気運は高まります。今、我等には敵が多いのです。同じく孟嘗君もうしょうくんを獄に落したことで、斉が秦へ抱く憎しみは火焔の如く。そして、今や諸国全てが我等の漢中を含めた広大な領土を虎視眈々と狙っています。
楚王の抑留が、諸国に攻め入る絶好の機会を与えることになったのですよ。既に孟嘗君は趙を経由し、斉へと帰し、秦との戦に備えて軍備を整えていると聞きます。斉だけではありません。此度の一件を機に、諸国は声高々と秦の非道を叫び、軍を差し向けるのです」
 
 決して脅しではなかった。西方の蛮夷と罵り続けられた秦は、今や先に王号を唱えた大国達の存在を脅かすほどの急成長を遂げている。諸侯からすれば、眼の前をうるさく飛び回っていた蠅が、飛竜へと変貌するとは予想もしていなかったに違いない。そして、度重なる秦王の横暴。秦を潰す口実は有り余る。
 
 魏冄の懸命の訴えで、初めてことの重大さを認識したのか、嬴稷の顔色が見る見る内に合蒼ざめていく。

「中華そのものを敵に回す、覚悟はおかりか?」

「それはー」
 朝議に場に、参席する文官達も深く息を呑んでいる。

「もう時既に遅しです」
 怒りの眼を嬴稷に向ける。

「な、なんとかせよ。上将軍魏冄。孤と咸陽を守るのが、お主の責務ではないか!」

(この糞餓鬼が‼)
 拳は憤怒で震えていた。喉に詰まった、固いものぐっと飲み込む。

「守ってみせますよ。貴方に言われなくとも」
 魏冄はまなじりを吊り上がらせ、射殺せんばかりに鋭い視線を向け退出した。
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