白狼 白起伝

松井暁彦

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孟嘗君

 九

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 秦王嬴稷は上機嫌だった。彼は居室で女を左右に侍らせ、小馬鹿にするように白起に問う。

「おい、白い悪魔。お前は斉の孟嘗君という男を知っているか?」

「いえ」
 愛想の欠片もなく返す。嬴稷は白起が、外の世界に疎いと思っている。事実、白起は外の世界に疎い。だが馬鹿ではない。今や魏冄の元で教養を身に付け、並の学士に劣らないほどの知識を有している。

「叔父上は知っているな?」
 嬴稷の視線が魏冄に移る。眼が自然と嬴稷の醜い躰を捉える。酒池肉林に溺れた躰は、独座から肉が溢れ出している。まだ二十代中盤と若い王だが、容貌からは十歳は年を食っているように見える。

「存じております。大王様」
「斉の威王の後胤こういんでありながら、乞食や罪人に至るまで対等に接し労わると訊く。故に孟嘗君は国外にまで賢人として名を馳せ、囲う国士の数は千を超え、今や斉の宮廷に匹敵するほどの力を持つという」
 嬴稷は満足気に唸ると左右の女に口吸いをした。

「孤も孟嘗君のように一人の男として、勇名を馳せたいものじゃ」
 白起が憫笑びんしょうを湛えている。

「孤は孟嘗君を秦に招き、教えを乞いたいと思うておる」
 この所、王は己の意見を積極的に発するようになった。政務は相変わらず、放擲したままであるが、時たま理解不能な我が儘を通すようになった。元々、態度だけは尊大な王だが、近頃余計に拍車がかかっている。
 傀儡ならば、傀儡らしく構えていてくれればいいものを、嬴稷は名君への色気を出し始めている。もちろん、彼に名君としての器はない。

「左様でございますか」
 抑揚のない声で返す。

「しかしながら、我が国と斉との仲は芳しいものではありませぬ。ましてや、孟嘗君は王族の身。また斉王田地でんち(後の湣王びんおう)は一際猜疑心さいぎしんが強いと聞きます」
 嬴稷の表情が明らかに不機嫌になる。ころころと機嫌が移り変わる様は、まるで小児のようである。

「ただでは来ぬと申すのだな」

「はい」

「では、其れに見合う者を斉へ送るとしよう」

「なっ」開いた口が塞がらない。敵国へ送る。即ち、人質を意味するのである。

「弟を斉へ遣わせる」

「ですが‼」

「くどいぞ、叔父上。孤は母上とお主の壟断ろうだんを許しておるのだぞ。本来、王以外の者が政務を取り仕切るなどあってはならぬことぞ。だが、孤は寛大な故に見逃してやっている。寛大な王が所望しておるのだ。何としても孟嘗君を秦に連れて来い」
 有無も言わせない勢いで嬴稷は捲し立てた。

(何が壟断を許しているだ。己が政務を放擲しているのではないか。酒と女に溺れ、豚のように肥えるばかりが能のぼんくらが何を言うか)内心で激しく毒づく。

「良いな。叔父上」
 溜飲を無理矢理に下げる。

「御意に」

「では、孤は後宮へと向かう故、手配を頼むぞ」
 嬴稷は大股で退出し、居室で白起と二人になる。

「糞が‼」
 その場で蹈鞴たたらを踏んだ。

「珍しく憤っているな」
 白起の我関せずを体現したような、涼しい顔が怒りを助長させる。

「あいつは大馬鹿者だ。容易に人質を敵国に送り込むとは。要らぬ色気ばかり出しおって‼」

「で、どうするんだ?」

「機嫌を損ねられると厄介だ。この所突拍子もない愚行が目に付くからな」
 嬴稷の馬鹿さ加減は、想像の斜め上を行っていた。傀儡が徐々にであるが、意志を持ち始めている。
 姉の宣太后への手は打っている。太后となれば、贅に関するものでいえば、殆どが思うままといっても過言ではない。姉には奢侈しゃしを尽くした贈物を十日に一度は届けている。また長安にも離宮を拵えてやった。
 
 姉の欲望の大分を占めているのは、畢竟ひっきょう―富である。足止めとして、莫大な費用が必要となるが、それで大人しくしてくれるならそれでいいと割り切っている。国を二分するよりははるかにましなのだ。

「厄介なことになった」
 あの不出来の甥のことだ。仮に孟嘗君との会見が叶ったとして、予想しない愚行を起さなければいいが。彼の誤った行動、判断一つで大戦に突入することも有り得る。

「王の弟君の所へ向かおう」
 魏冄は背を丸め、暗澹あんたんたる心地で白起に告げた。
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