白狼 白起伝

松井暁彦

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孟嘗君

 二

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「不満か?」
 楚王を守る数千にものぼる隊列を見送りながら、馬を並べる白起に問うた。
 今や白起は王の近習から外れ、魏冄の子飼いの兵になっている。兵といっても、彼に爵位や官位などある訳もない。それでも彼には全幅の信頼を置いている。
 
 出逢いこそ最悪であったが、今は魏冄の弟のようなものだった。相変わらず儒学などは、毛嫌いしているが、兵法に至っては写筆された、『呉子ごし』や『孫子そんし』全編に亘って諳んじることが出来るようになっている。また時折り、合間を見つけて自主的に史書などにも目を通している。

「何の為の和平か、俺には分からない」
 変声期を終え、白起の声は完全に大人のものへと変わっていた。

「韓との戦で宜陽ぎようを抜き首級六万を奪ったが、此方の国力も大いに削がれた。国庫の三分の一を遣い尽くし、今や民は重税に喘いでいる」
 白起は魏冄を一瞥し、「知るか」と不満げに鼻を鳴らした。

「いいか。白起。戦には莫大な矢銭やせん(軍費)が必要だ。考えなしに攻めれば良いって話ではない。例え戦に勝ち、領土を拡大さしめても、宣撫せんぶには時が必要だ。手に入れた地が利を挙げるまでに、早くとも一年はかかる」

「関係ない」

「そうはいうが、お前も国の動きと仕組みを学ばなくてはならん」

「何の為に?」
 見もせずに白起は言った。

「今の世の中、舌先だけの胡乱うろんな輩が多い。遊説家ゆうぜいか共は君に利を説き、巧みに口先で人をー。時には国そのものを操る。先王が嫌っておられた、張儀など典型的な例だ。奴等は利を寄越すこともあるが、奴等には信念というものがない。翩々へんぺんと仕えるべく主を変える、信用ならない輩だ。これから先の時代を拓いていくのなら、武だけでなく智も鍛えなくてはならん」

「だったら、そんな輩一掃してやればいい」
 魏冄は微苦笑し、溜息を吐いた。

「お前の地頭は悪くない。もう読み書きもできる。お前はもう暴虎馮河ぼうこひょうがの勇ではない。智勇兼備の神将となれ」
 白起は無表情のままだった。河南地方の乾いた風が頬を撫ぜ、彼の白髪を揺らした。

「神将ね」
 小さく呟いたのを、魏冄は聞き逃さなかった。
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