白狼 白起伝

松井暁彦

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反撃

 二

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 翌日。正殿の王の執務室に魏冄が現れた。王が執務室で、政務を執り行うのは、実に十日ぶりのことだった。
 魏冄の眸が勁い光を放っていた。王の傍らに控える白起を認めると、しっかりと頷いて見せた。遅れて宣太后が入室する。強烈な香気が、彼女から漂って来る。

「母上‼」
 嬴稷えいしょくは五刻もの間、ずっと手に持っていた竹簡を放り投げ、母親を迎えた。
 熱い抱擁を済ませると、空咳をして魏冄に艶のある顔で向き直った。

「久しいな。叔父上」

「はっ!大王様もご壮健そうで何よりで御座います」
 魏冄は溌剌としている。

「姉上も、相変わらず麗しゅう御座います」
 魏冄から溢れ出る余裕を感じ、嬴稷の傍らに並んだ、宣太后は怪訝な表情を浮かべた。

「今日は随分と機嫌が良さそうね」
 太く笑みを刷く。

「何か良い報せでもあったのかしら」
 細い指が、嬴稷の肩に優しく触れた。

「むしろその逆です。姉上」
 情夫である、戒王かいおう咸陽かんように潜ませた小鳥達を遣い、都のあらゆる事象を把握しているといっていた。確かに彼は、多くの間者を内に抱えているのだろう。
 先王と白起の関係。それに愛刀の由来までも彼等は知悉していた。だが、漏れがないかといえば、必ずしもそうではない。例え天であったとしても、世で起こるあらゆる事象を知悉することはできない。

「訊かせてもらいましょう」

「その前に一つ条件があります」
 宣太后の柳眉りゅうびが微動する。

「条件?」

「情報の提供に悖る条件です」
 暫く眉根を顰めながら、思考すると「いいでしょう」と答えた。

公子荘こうしそうの邸宅に、続々と鉄器が運び込まれております」
 公子壮は恵文后けいぶんこうの実子であり、先王嬴蕩の同父同母の兄にあたる。先王の遺勅。そして、宣太后の強い影響力で、勃発した後継者争いに敗れている。

「何故、お前がそのことを?」
 やはり、戒王はこの情報を掴んでいないようだった。公子壮の館には、孤児の奴隷達が既に使用人として潜んでいた。 公子壮は荷台に藁を被せ、時を掛けて武器を商人に邸宅に運び込ませているようだった。先王の遺した孤児達は、今や先王の遺志と継いだ白起と密接に繋がっている。戒王の間者とて、警戒する公子の邸宅に簡単に潜る込むことはできない。
 
 魏冄は答えず、首を竦めあえて流した。

「決起の日は近いでしょう。公子は、己が正当な王位な継承者と声高々と宣言するでしょうな」
 悔しそうに歯嚙みする、宣太后を仰いだ。

「兵力は?」

「一万は越えるでしょう。公子壮を正当な王位継承者と考える者も多くいます」

「は、母上」
 嬴稷は引き攣りを起こしたかのように、丸みを帯び始めている躰を震わせている。

「大臣・諸侯・他の公子。挙げれば切りがないほどに、公子壮と繋がっています」

「今すぐ、公子壮の館に兵を向かせなさい!」
 宣太后は金切り声で叫んだ。

「なりませぬ。姉上。大袈裟に事を起こしては、奴等は腰を据えて抗う姿勢を見せます。となれば、咸陽は血に染まる。国内に騒擾そうじょうを齎せば、虎視眈々と此方を窺う諸侯、之を好機と合従し攻め込んできますぞ」

「では、妾にどうせよと申すのだ!?」
 震え母親の腕に縋りつく、嬴稷の頭を撫ぜながら、宣太后は蹈鞴を踏んだ。闇の女王に、明らに動揺が走っている。魏冄の眼が不敵に光っているのを見逃さなかった。

「私にお任せ下さい。国内に内憂を齎す、不遜な輩を静かに撃ち払ってみせましょう」

「それは真か。叔父上」
 嬴稷が爛々と眸を輝かせた。

「ええ。私は嘘を申しません」

「お前は、大袈裟に事は起こしてはならぬと申したな」

「はい。確かに」
 宣太后に迷いが見える。此処で魏冄に手柄を挙げさせれば、我が子の叔父に対する信任が厚くなる。
 同様に魏冄側に追従しようと目論む、有力者達も出てくるはずだ。彼女にとっては、決断の為所であった。決断の一つで、追い風が向かい風に変わることもあるのだ。

「どのように公子壮を撃ち払うというのだ。一万の兵力を有するまでの影響力が奴にはあるのだろ」

「白起を我が麾下に加えたいのです」
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