白狼 白起伝

松井暁彦

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銀の誓い

 十二

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 書見の間。
 戸が静かに開いた。音もなく、燭台に灯した炎だけが揺らいだ。

「旦那様」
 凝る闇の中で、二つの影が蠢いた。馴染みのある声だった。

「お前はー」
 燭台の陰影に、かつての使用人の顔を浮かび上がる。

王齕おうこつだったか」
 悦びを噛みしめるのが見えた。

「左様で御座います。旦那様」
 眼を眇めると彼の傍らには、線の細い蒼白い肌をした少年が控えていた。

「お初に御目にかかります。きょうと申します」

「要件は?わざわざ人目を忍んで、俺の元を訪ねてきたのだ」

「手短にお話致します。恵文后けいぶんこうが怪しげな動きを見せております」
 言ったのは摎だった。

「怪しげ動き?」
 恵文后は、先々王恵文王の后にあたる。だとすれば、答えは容易に導き出される。

「何故、お前達がそれを?」

「摎は隊長の命で、孤児を間者として四方に放っております」

「白起が命じたのか!?」
 驚愕した。まさか、白起が自身の手の者を遣って、水面下で孤児達を間者として育成していたとは。

「隊長は先王が残された孤児達に、行き場を与えようと考えておられました」

「戒王を真似たのだな」
 面白い。前衛的な思考は嬴蕩から白起に受け継がれていた。くつくつと嗤いが込み上げてくる。

「魏冄様には、孤児達に相応の対価を払うようにと」
 摎は言い淀むが、紅唇は微かに綻んでいた。

「白起め。生意気な。お前が影の主か?」
 一瞬、摎は戸惑いを見せたが、直ぐに「私が影の主です」と告げた。
 心の芯は、姉の執拗な先手に冷えかけていた。だが、今は芯に火が灯されようとしている。

「魏冄様。私達は隊長。そして、隊長を召し抱えて頂いた、先王に心から感謝しております。
先王は子供等の奴隷制度を嫌っておられた」
 並んで膝をつく、二人の少年の眼に光るものが湛えられている。

「ああ。先王は身よりのない子供等に優しかった。あの御方も幼少期からずっと、政の道具として寂しい日々を過ごしておられた」

「私達、孤児等は白起隊長。そして魏冄殿に先王の魂が受け継がれたのだと思い定めております」
 湛えられた光が、闇に溶け込んでいく。

「ならば、お前達は俺の耳目じもくとなれ。戒王の間者の先を行き、確実な情報を寄越せば、莫大な報酬を与えよう」
 飾りであったとしても、今や王の外戚なのだ。財はある。

「御意」
 隙間風が吹いた。燭台の灯が揺れる。二人の姿は、何時しか夜陰に熔け込み消えていた。
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