白狼 白起伝

松井暁彦

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銀の誓い

 五

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 「大王様。姉上」
 玉座に手をかける女がいた。瀟洒なばかりの趣味が悪い、刺繍が施された装束を纏い、なまめかしい手つきで手招きをする。以前、会ったことがある、魏冄と似ても似つかない姉だ。軽く会釈すると、魏冄は白起に進み出るように促した。
 
 くつの音が、静謐せいひつの空間に虚しく反響する。視線は玉座の少年を見据えたままだ。

(其処はお前の場所じゃない)
 階の前で、魏冄は膝を折った。

「白起。先王がお隠れになり、新たに秦王として即位された嬴稷えいしょく様だ」
 嬴稷は幼い頃より、燕に人質として、出されていたが、秦と盟約を結ぶ、趙の武霊王ぶれいおうの働きかけで、燕より帰還した。

「王だと。お前が?」
 白起は膝を折らず傲然と玉座に座する、嬴稷を烈火の眼で睨み付けた。

「この卑しい餓鬼め‼今、なんと申した‼(王の自称)は正当なる秦の王であるぞ‼」
 嬴稷は怫然と立ち上がり、その場で蹈鞴を踏んだ。

「俺は本当の王を知っている。そしてー」
 視線を魏冄の姉―。羋月びげつ(太后となり、今は宣太后せんたいこうと呼ばれている)へ薙いだ。

「あんたが大王を殺した」
 宣太后はくつくつと笑いながら、懐から扇を取り出した。

「やめた方がいい。坊やに妾は殺せない」

「試してみるか」
 剣を抜き放つ。零の間。首元にあたる、ひやりとした感覚。

「動くな。小僧」
 生温かい息が耳先に触れる。そして背後から覆い被さるように襲ってくる、腥い臭気。
 同じ臭いがする。この俺と。

「お前が武王ぶおう(嬴蕩のおくりな)狼なら、俺は宣太后と王を守る虎といったところか」
 低い酒灼けを起こした声。発音に妙な訛りがある。

「その子を離せ。戒王かいおう
 魏冄を一瞥し、静かに戒王と呼ばれた男は刃を収めた。難なく背後を取られたことに、強い苛立ちを感じた。反射的に佩剣に手を伸ばす。掴んだのは空。何時の間に。戒王と呼ばれた男が、刃を露わにした剣を回して弄んでいる。

「返せ。俺の剣だ」
 戒王が剣を回す度に、正殿を支える黄金の柱の光を受けて、刃が浩々と光る。舞うように戒王は剣を振り、空を斬る。刃が空を斬る音が、哭いているように聞こえる。

「良い剣だ。韓で鍛えられ、嬴氏に子々孫々と受け継がれているだけのことはある」

「何故、それを」

「俺は咸陽で起こる、あらゆる事象を知悉している」
 戒王は身を翻し、剣尖を白起へと向けた。

「つまらない嘘だ」

「本当にそう思うか?」
 得意の鼻をうごめかせ、剣を投げた。

「名を付けてやることだ。名剣には名が必要だ」
 柄を掴み鞘に収める。もう取られまいと、柄をしっかりと握り込む。

「名は力となるぞ。起―。お前は武王に名を与えられた。人も剣も真名を与えられて初めて形となる」

「与太話はそこまでにして」
 宣太后が扇を掌で打った。美しく着飾っているが所詮は年増だ。苛立ちで柳眉りゅうびが逆立ち、眼許には隠しようのない濃い皺が刻まれている。
 
 戒王は余裕のある笑みを浮かべ、軽く会釈すると一歩下がった。
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