白狼 白起伝

松井暁彦

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 その名は起

 五

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 突然、背後に白が視線を薙いだ。うなじに針が差し込まれるような痛みが走る。馬首を反らした。陽炎に混ざり合う砂塵。近付いてくる。

「迎撃準備‼」
 太鼓が鳴る。軍旅斧鉞ぐんりょふえつが擦れ合い、鈍い音を立てる。

「白。大王様を」
 眼の動きで頷いて見せ、力士達と少年へ王の車駕を囲む。周囲には儀仗兵も控えているが、所詮恰好だけのもので、はなから戦力として換算していない。

「草寇か?」
 小窓が開き、南を睨む魏冄に嬴蕩が訊いた。

「分かりません。ですが、肌を刺すような殺気を感じます」
 狭間を揺蕩っていた、意識は今や、覚醒している。眼を眇める。空際に林立する、黒きりゅう
 
 数は二百。いや三百程度か。大半が徒で、戦時のように重厚な具足を身に付けている。
 見るからに物々しい一団は、指呼しこの間だけで停止した。率いている男の顔に、見覚えがあった。魏冄は先頭に馬をやり、指揮官の男と対峙した。

「何事か説明してもらおうか。呂礼りょれい殿」
 兎唇いくちのでっぷりと肥え太った醜い小男は、豆のように小さな眼に賤しき黒い光を湛えている。呂礼という名の文官は、先代からの重臣であり、近頃は魏冄の姉である羋月びげつ(別名八子はっし。八子は婦官の爵位)と密接に繋がっていた。大仰に首を竦めてみせる呂礼に憤りを覚えながらも、重ねて問う。

「姉上の差し金だな」
 黒幕は既に判明している。だが、姉上が何を望もうと、無為に終わる。

「二百で我等を討とうというのか。笑止千万だな。我等には精兵三千がいる」
 くつくつと呂礼が、不敵に微笑んだ。
 脳裏にある、疑念が過る。姉上は馬鹿ではない。魏冄が知る姉は明晰で狡猾。そして、何より周到だ。

「まさかー」
 心の臓が震えた。三千の精兵。百の儀仗兵までもが、王の車駕に矛先を向けた。

(図られたか)気付いた時にはもう遅い。
 私兵を除く全ての兵が、姉が擁する派閥に取り込まれていた。

「顔が蒼いですぞ。魏冄殿」
 笑みを刷くことによって、縦に裂けた呂礼の唇が歪に歪む。

「何をしているのか分かっているのか。お前達が矛を向けるは、秦国の正当なる王ぞ‼」
 圧倒的な軍力の差の前に、反駁など無意味だと理解している。それでも、抗わずにおれない。

「違う。お主が担ぎ上げているのは、宗室に弓を引き、国内に騒擾そうじょうを齎そうとする天下の謀叛人である」

「貴様‼王に向かって、謀叛人とは‼」
 怒りに任せて剣を抜き放つ。呂礼の背後に構える、二百の歩兵が槍を突き出す。
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