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その名は起
二
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寝殿にある、王の居室の扉の前で白は控えていた。
「俺の使用人の姿があったな」
名は忘れたが、屋敷で奴隷として働かせていた少年の姿が十騎の中にあった。明らかに放つ気配が変わっていた。数か月前まで奴隷の身であった、少年は古将のような泰然とした気配を纏っていた。
「王齕だ」
相変わらず、愛想のない餓鬼だった。それでも器量は良く、教えたことは一文字も逃すことなく完璧に自分のものとしてみせた。
「大王は俺が兵士を選べと仰せになった」
「そうか。馬の乗り方と剣の遣い方もお前が教えたのか?」
「そうだ」
「弓は?」
「教えた」
「奴隷の餓鬼に、あれほどの才覚があったとはな」
「あれは才覚ではない。血の研鑽による賜物だ。死ぬ寸前まで幾度も追い詰めてやった」
淡々と告げているが、白は言の通りに王齕を苛め抜いたのだろう。
「お入り下さい。大王様がお待ちです。」
近習に促され、扉の中へ。
白を残して入室すると、嬴蕩は露台に出て咸陽の城郭を睥睨していた。既に咸陽は寥々たる夜の闇に覆われている。
「おう。待っていたぞ」
魏冄の気配を察すると、金の瓶子を片手にした嬴蕩は、床几の前に座るように促す。
「失礼します」
手を叩き酒肴を命じると、二人では食え切れないほどの贅を尽くした料理が床几に並ぶ。
「まぁ食え」
嬴蕩は珍しく酒をそれなりに呷っている。酔眼朦朧としているが、彼が上機嫌なことは分かる。
「お前の姉上には、親しみを覚えるよ」
勿論、皮肉であるが、嬴蕩からは寸毫の悪意も感じない。
「今日は十人だ」
嬉々として語る嬴蕩を前に、魏冄は萎縮した。何も返す言葉などない。実の姉が、王の暗殺を画策し、ましてや実行に移している。死罪に値する愚行であるが、嬴蕩は姉との闇の遊戯を愉しむかのように、魏冄を責めたことは一度もない。
「刺客の首は、白が揃えて持ってきた。まぁ、安心しな。白が側に控える限り、俺は死なん」
酒を呷るごとに赭顔は、更に赤みを増していく。
「なんとお詫びすれば良いのか。私の首で間に合うのであれば、大王様に献上致します」
「やめろ。俺はお前と兄弟のように育った。胴から離れたお前の首など欲しくはない。
お前の姉上も子を思っての行動だ。好きにやらせてやれ」
「しかしー」
「お前の姉上を挑発させて、内憂を深めたくはない。今は国内で争っている場合ではないのだ」
普段より闊達であるが、虚ろであった眼に鋭さが戻っていく。顎先で箸の進みは悪いと促されるが、食う気にはなれない。
「食わぬなら、白にくれてやる」
「お待ちください。大王様」
閉じた扉の先に、視線をやった王を手で制止する。
「何だ?」
「白のことですが」
嬴蕩は箸を投げると、手で豚の肉を掴み食らった。
「話せ」
「あやつは恐ろしいほどに聡明であり、戦においては天賦の才を発揮することでしょう。私は、大王様が白を拾われる前に、北の荒野で白き狼を目の当たりにしました」
「お前が見た、白狼が白であると?」
「断言は出来ませぬ。しかし、私は夢寐に見るのです。血に染まった荒野で、歩く美しき白き狼の姿を」
「ふむ。お前は白を夢寐に見た白き狼と重ねている。では、訊こう。お前は夢寐を如何に捉える?」
魏冄は黙した。不確かな事象を王に告げてよいものなのか。
「俺達の前に白が現れたことと、お前が見る夢の内容は偶然ではないと?」
「…はい」
暫くの沈黙が流れる。嬴蕩は眉根を顰め、舐めるように酒を飲む。
「で、お前は白から不吉なものを感じるのか?」
夢の中は鬼哭啾啾たる様相に支配されていた。だが、白狼は超然とした様子で、死屍累々を踏み締めて歩いて行った。感情の起伏が皆無の白。そして、地を埋め尽くすほどの屍に、微塵の関心も抱かない白狼。この異なる生物には、明らかな類似点がある。
「分かりません。ただ、私には白という少年がはかり切れないのです」
嬴蕩の嘆息が漏れる。
「確かに白は不思議な子よ。無感情でいながら、人を惹きつける魔性の魅力がある。俺はこう思うな。お前が見る夢と白との出逢いは偶然ではない。必然だったのだと。奴は俺に語ったよ。己が振るう剣に意味を持つのも悪くはないとな」
「白がそのようなことを?」
意外だった。白が己の意志を口にするなど、一度たりとも無かった。
「白は心が欠落しておる。果たして、先天性なものなのか、後天性なものなのか。奴の生い立ちを知らぬ、俺には分からん。だがな、天は奴から心を奪った変わりに力を与えた。正に蚩尤が如き強さよ。俺はな、奴を己が剣として遣う。ただの剣ではないぞ。天下統一への道を斬り拓く、金剛の劔よ」
嬴蕩は酒を一気に呷り哄笑した。
「魏冄。何故か王である、俺の元に霊験は現れなかった。お前の元に、白狼という霊験が現れたことに、何か意味があるのかもしれん」
白とお前は不思議な縁で結ばれているのかもしれんな。と重ねて告げると、再び大口を開けて笑った。
「私と白が縁で」
王の言葉を反芻する。何故、王ではなく、己の眼の前に白狼は現れたのだろうか。この疑念こそに、真実が隠されている気がした。
「俺の使用人の姿があったな」
名は忘れたが、屋敷で奴隷として働かせていた少年の姿が十騎の中にあった。明らかに放つ気配が変わっていた。数か月前まで奴隷の身であった、少年は古将のような泰然とした気配を纏っていた。
「王齕だ」
相変わらず、愛想のない餓鬼だった。それでも器量は良く、教えたことは一文字も逃すことなく完璧に自分のものとしてみせた。
「大王は俺が兵士を選べと仰せになった」
「そうか。馬の乗り方と剣の遣い方もお前が教えたのか?」
「そうだ」
「弓は?」
「教えた」
「奴隷の餓鬼に、あれほどの才覚があったとはな」
「あれは才覚ではない。血の研鑽による賜物だ。死ぬ寸前まで幾度も追い詰めてやった」
淡々と告げているが、白は言の通りに王齕を苛め抜いたのだろう。
「お入り下さい。大王様がお待ちです。」
近習に促され、扉の中へ。
白を残して入室すると、嬴蕩は露台に出て咸陽の城郭を睥睨していた。既に咸陽は寥々たる夜の闇に覆われている。
「おう。待っていたぞ」
魏冄の気配を察すると、金の瓶子を片手にした嬴蕩は、床几の前に座るように促す。
「失礼します」
手を叩き酒肴を命じると、二人では食え切れないほどの贅を尽くした料理が床几に並ぶ。
「まぁ食え」
嬴蕩は珍しく酒をそれなりに呷っている。酔眼朦朧としているが、彼が上機嫌なことは分かる。
「お前の姉上には、親しみを覚えるよ」
勿論、皮肉であるが、嬴蕩からは寸毫の悪意も感じない。
「今日は十人だ」
嬉々として語る嬴蕩を前に、魏冄は萎縮した。何も返す言葉などない。実の姉が、王の暗殺を画策し、ましてや実行に移している。死罪に値する愚行であるが、嬴蕩は姉との闇の遊戯を愉しむかのように、魏冄を責めたことは一度もない。
「刺客の首は、白が揃えて持ってきた。まぁ、安心しな。白が側に控える限り、俺は死なん」
酒を呷るごとに赭顔は、更に赤みを増していく。
「なんとお詫びすれば良いのか。私の首で間に合うのであれば、大王様に献上致します」
「やめろ。俺はお前と兄弟のように育った。胴から離れたお前の首など欲しくはない。
お前の姉上も子を思っての行動だ。好きにやらせてやれ」
「しかしー」
「お前の姉上を挑発させて、内憂を深めたくはない。今は国内で争っている場合ではないのだ」
普段より闊達であるが、虚ろであった眼に鋭さが戻っていく。顎先で箸の進みは悪いと促されるが、食う気にはなれない。
「食わぬなら、白にくれてやる」
「お待ちください。大王様」
閉じた扉の先に、視線をやった王を手で制止する。
「何だ?」
「白のことですが」
嬴蕩は箸を投げると、手で豚の肉を掴み食らった。
「話せ」
「あやつは恐ろしいほどに聡明であり、戦においては天賦の才を発揮することでしょう。私は、大王様が白を拾われる前に、北の荒野で白き狼を目の当たりにしました」
「お前が見た、白狼が白であると?」
「断言は出来ませぬ。しかし、私は夢寐に見るのです。血に染まった荒野で、歩く美しき白き狼の姿を」
「ふむ。お前は白を夢寐に見た白き狼と重ねている。では、訊こう。お前は夢寐を如何に捉える?」
魏冄は黙した。不確かな事象を王に告げてよいものなのか。
「俺達の前に白が現れたことと、お前が見る夢の内容は偶然ではないと?」
「…はい」
暫くの沈黙が流れる。嬴蕩は眉根を顰め、舐めるように酒を飲む。
「で、お前は白から不吉なものを感じるのか?」
夢の中は鬼哭啾啾たる様相に支配されていた。だが、白狼は超然とした様子で、死屍累々を踏み締めて歩いて行った。感情の起伏が皆無の白。そして、地を埋め尽くすほどの屍に、微塵の関心も抱かない白狼。この異なる生物には、明らかな類似点がある。
「分かりません。ただ、私には白という少年がはかり切れないのです」
嬴蕩の嘆息が漏れる。
「確かに白は不思議な子よ。無感情でいながら、人を惹きつける魔性の魅力がある。俺はこう思うな。お前が見る夢と白との出逢いは偶然ではない。必然だったのだと。奴は俺に語ったよ。己が振るう剣に意味を持つのも悪くはないとな」
「白がそのようなことを?」
意外だった。白が己の意志を口にするなど、一度たりとも無かった。
「白は心が欠落しておる。果たして、先天性なものなのか、後天性なものなのか。奴の生い立ちを知らぬ、俺には分からん。だがな、天は奴から心を奪った変わりに力を与えた。正に蚩尤が如き強さよ。俺はな、奴を己が剣として遣う。ただの剣ではないぞ。天下統一への道を斬り拓く、金剛の劔よ」
嬴蕩は酒を一気に呷り哄笑した。
「魏冄。何故か王である、俺の元に霊験は現れなかった。お前の元に、白狼という霊験が現れたことに、何か意味があるのかもしれん」
白とお前は不思議な縁で結ばれているのかもしれんな。と重ねて告げると、再び大口を開けて笑った。
「私と白が縁で」
王の言葉を反芻する。何故、王ではなく、己の眼の前に白狼は現れたのだろうか。この疑念こそに、真実が隠されている気がした。
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