白狼 白起伝

松井暁彦

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序章

 四

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 爪先から旋毛つむじにかけて悪寒が貫いた。少年から漲る白い神気が五感を刺す。

「なりません!若様!」
 制止の言葉を振りほどき、嬴蕩は哄笑こうしょうしたまま少年と馳せ違った。白刃が交錯。
 
 血飛沫。嬴蕩は脇腹を浅く、斬りつけられ落馬した。猛然と少年が、追撃を加えようと、馬肚を締め上げた。
 
 魏冄は馬肚を蹴り、剣を煌めかせた。生半可な一撃ではない。だが、少年はあろうことか、馬の背に平然と立ち、跳躍で一閃を躱した。そして、涼しい顔で再び馬の背に跨る。

(化け物か。この餓鬼)
 馬首を返す、少年と視線が交錯。異様であった。無を体現したようなかんばせ。銀砂をまいたような銀色の双眸は、幽鬼ゆうきを想起させるほどにくらい。

 しかし、相反して、総身からはしろがねの武威が放たれている。一合で理解できた。この少年は、人として不完全なのだと。だが、不完全でありながらも、少年は天から天賦の才を下賜された。
 
 無感動な眼を向けて、再び少年は馬を駆った。馳せ違う。手応えがない。血の臭気がした。剣を握った右腕を深く斬りつけられている。滴る血で柄が滑る。さも当然という顔で、少年は指呼しこの間で剣を回した。来る。

「おらぁ」
 少年が乗る馬の横腹に、嬴蕩が肩からぶつかる。彼が内包する、凄まじい膂力で馬の躰が吹き飛ぶ。宙で少年の顔色が僅かに変わったのを見逃さなかった。
 
 猫のように、しなやかな身のこなしで宙がえりし地に降り立つ。嬴蕩は跳躍し、少年へと襲い掛かる。逃げようと背後に飛び去る少年を太子蕩の長い腕は逃さなかった。

「捕まえたぞ」
 にんまりと笑い、掴んだ腕を引き、稚い色を残した少年の顔に渾身の頭突きを食らわせた。

「うっ」と苦悶の声と共に、崩れ落ちた少年は、鼻血を流し、白目を剥いて、気絶していた。
 軍袍の裾を引きちぎり、負傷した右腕の止血を終えると、剣を握りしめたまま、苦しそうに喘ぐ、太子蕩の元へ。

「始末しますか?」
 幾ら蛮族の子とて、子供を殺すのは寝覚めが悪い。眉間を顰め、剣尖を少年の胸へ向ける。

「まぁ。待て」
 嬴蕩が手で制する。

「お前、どう思う?」と尋ねた嬴蕩は、土気色の顔に嬉色を滲ませていた。

(若様の悪い癖がまた始まったか)内心、辟易としながらも彼と同様に、義渠の少年に並々ならない才覚を感じた己がいたのも事実である。

「天賦の才ですな」

「ああ。俺はこやつを連れて帰るぞ」
 嬴蕩は相好を崩した。。今にも欣喜雀躍きんきじゃくやくしそうな勢いだ。

「おい。猛説もうせつ烏獲うかく。この餓鬼を運べ」
 巌のような男が二人歩み寄って、憚ることなく顔を顰めた。

「兄貴。正気かい?この餓鬼、義渠だぜ」

「いいからささっと運べ」

「へいへい」
 二人は不承不承ふしょうぶしょうと、少年を運ぶ。

「良い拾い物をしたよ。偵察に来て正解だったぜ」
 くつくつと無邪気な笑みを浮かべた、不承不承の顔は病臥にある、恵文王の顔に瓜二つであった。

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