白狼 白起伝

松井暁彦

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序章

 三

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「おい、魏冄。お出ましだ」
 しわぶき声が響いた。嬴蕩は握る剣の切っ先で、視界の先に視える盛り上がった双丘を指した。丘の上に敵影。その数、約三十。彼我の差は二里。全てが騎兵で、此方の出方を窺っているようである。

「勉強させてもらうとしようか」
 嬴蕩が後続の総勢五十人の兵士に向かって声を張り上げる。

「野郎共、戦支度だ‼」
 義渠の戦士と違って、此方は嬴湯と魏冄を除いては徒である。
 
 当時、遊牧民族の戦闘形式である胡服騎射こふくきしゃは、軍隊の戦い方において主流ではなかった。むしろ、胡服騎射は忌み嫌われていたといっても過言ではない。中原から派生した文明人達にとって、馬は自ら駆るものではなく、兵車を御させるものであった。
 また、牧畜、掠奪を生業とし、文字を持たない遊牧民は、漢字圏の民族から蔑みの対象であった。故に胡服騎射そのものが、蛮行と視られていたのである。
 
 だが、嬴蕩と貴族魏冄には、古来からの風習や固定概念への固執は微塵もなかった。両者には、時の流れを読む、先見の明と柔軟な思考が備わっていた。
 
 五十人の屈強な子弟達が得物を抜き放つ。彼等は、皆嬴蕩自身が選び抜いた剛力を自慢とする力士達である。
 五十人全員が、背丈八尺(180cm以上)以上あり、四肢は熊のように逞しい。斧鉞ふえつが童の玩具のようである。
 
 嬴蕩は子弟達の躰から迸る、気炎を肌で感じ惨忍な笑みを浮かべた。豊かな黒髪が闘気を帯びて、りゅうの狭間で煌めく。彼自身も上背は八尺を越え、馬上からでも威風堂々とした相貌は、懼れを知らない義渠でさえ、戦慄を覚えるだろう。
 
 力士達は吶喊とっかんした。その咆哮は千軍万馬せんぐんまんばに匹敵する。三十の騎馬隊が、砂塵を巻き上げ駆けて来る。

「構え‼」
 力士達が円を組む。その中央に嬴蕩と魏冄が。距離が近くになるにつれて、義渠が短弓を構え放った。盾が陣を囲む。矢は盾に阻まれて届かない。次に二人を守る、堅牢な肉の壁が撓んだ。義渠とのぶつかり合い。

「馬の脚と止めろ‼」
 乱戦となった。それでも力士達は応戦し、嬴蕩の指示通りに馬の脚を潰している。騎馬民族の専売特許は、馬の機動力を生かした野戦にある。しかし、馬の脚を潰し乱戦に持ち込んでやれば、歩兵の方が圧倒的に有利になる。
 
 肉の壁は方陣に肉薄した、敵を逃がさない。次々に蛮人達が討たれていく。奇跡的に活路を見出し、包囲網から脱出した者達は、躊躇いもなく背を見せて遁走とんそうしていく。
 

 嬴蕩が舌を打った。蛮族は戦場からの逃走において、恥も外聞も持ち合わせない。勝てないと踏めば、仲間を見捨て颯爽と退散していく。
 
 しかし、その思い切りの良さに、彼等の強さの源が存在するのも一つの事実だった。戦闘によって巻き上がった砂塵は、血を含んでいる。二十を超える屍が転がる、一帯にはなまぐさい匂いが立ち込めている。

「待て!こら!この卑怯者どもめ」
 憤怒した腥が、包囲網から抜け出した。

「若様」
 慌てて魏冄は馬を駆った。

 五騎ほど、敵の背は捉えている。五騎が走行したまま、何かを言い争っているのが聞こえた。そして、一騎が反転。馬を駆っているのは、面妖な白髪の男。いや、少年か。
 
 不意に先ほど、幻影として捉えた白き狼と白髪の少年が重なった。鞍のない馬に跨った少年が、手綱から手を離し、両腰の二刀を抜き放った。

 


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