白狼 白起伝

松井暁彦

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序章

 一

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 波状を成す赤銅色の大地に、白き狼の姿を魏冄ぎぜんは認めた。場違いにもほどがある、孤狼ころうの出現に眼を疑う。

 馬首を並べる秦の太子、嬴蕩えいとうが、魏冄が大地に露出した岩石の上を注視しているのを見遣って声を掛ける。

義渠ぎきょ(オルドス地方に盤踞ばんきょする遊牧民族)の斥候か?」
 倣って湯も眼を眇め注視するが、彼の視線の先には何もない。同時に魏冄の視界からも、白き狼は消えていた。
 
 この痩せた大地に狼とは。しかも群れでなく、たったの一匹。本来、狼とは群れで行動し狩りをするものだ。
瞼を閉じ、超然と佇む白狼の姿を脳裏に浮かべる。穢れなき純白の体毛。現世離れした神々しさが横溢おういつしていた。漲る神気は天へと昇り、鈍色の空にかかる雲烟うんえんと一体となっていた。

 無窮の戦乱が続く、この血腥い戦国の世に似つかわしくない、純粋な美しさが白狼にはあった。
 あの白き狼は、幻影だったのだろう。それも、無窮の戦乱に辟易へきえきとしている己の心が映し出したものに違いない。魏冄は視線を南へと薙いだ。赤気が蠢く陽炎の先に秦がある。
 
 秦を仇とし、諸国を渡り歩き、六国合従を成立させた遊説家蘇秦ゆうぜいかそしんは、かつて秦の大地をこう評した。

「秦は四塞の国(四方を自然の要塞が囲む国)で、山に覆われ、渭水いすいが巡り、東には関・河があり、西に漢中、南にしょく、北にだいがあり天府の地である。此処に拠るならば、天下を併呑し、帝号を唱えることができるだろう」と。
 
 秦の孝公こうこうに仕えた法家商鞅しょうおうの変法により、信賞必罰を徹底し、法治国家としての基盤を造り上げた、秦の国力は大幅に増強された。

 また、秦の最大の関所である、函谷関かんこくより以西に存在していた巴蜀を併呑し、広大な天嶮たる領土を手に入れた。当時の人々が関中の地をこう評した。

「関中は肥沃千里なり」
 渭水の恵みを十全に賜った関中の地は、秦のみならず鎬を削る諸国が喉から手が出るほど欲しい大地である。
 
 中興の祖ともいえる、秦の孝公が卒すると、太子駟たいししが立った。之が後の恵文王けいぶんおうである。

 恵文王は縦横家じゅうおうか張儀ちょうぎを重用し、合従がっしょう(南北の国で連合し、秦にあたろうとする外交策)を画策し諸国を先導する、蘇秦にあたらせた。蘇秦が締結させた、六国合従により、秦は数十年の間、東へ侵攻、併呑に向けての動きを封じられることになったからである。

 蘇秦の死後、縦横家の張儀は疾風の勢いで諸国を巡り、連衡れんこう(東西の方角で秦と盟約を結ばせる策)を成功させ、秦を有利な立場へと導いた。権謀術数と圧倒的な軍事力によって、秦は更に雄飛することとなる。周宗室の威信を顧みないともとれる、秦の短期間による大いなる飛躍は、周を取り巻く諸国を戦々恐々とさせた。

 

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