国殤(こくしょう)

松井暁彦

文字の大きさ
上 下
35 / 39
七章 珠玉の疵

しおりを挟む
 蘄は包囲三里の小さな城郭であった。熊啓は愚かにも、王を僭称し、包囲三里の小城を本拠とした。

 黒華こっかが寄越した情報では、五万の義勇兵が合流を果たしたようだ。想定より数は多かったものの、所詮は烏合うごうの衆に過ぎない。中にはまともに武器を持ったことのない農民なども含まれている。
 
 熊啓は兵を城外に出さず、籠城の構えを見せている。抑圧された民の蹶起をあてにしているのか。だとすれば、余りも愚かではないか。

「よほど昌平君は追い詰められているようだな」
 二十万を率いる王翦は、小城に亀のように籠る敵を見遣り言った。
 
 地方の蜂起は、将校達に潰させてはいる。完全に潰しきるのは不可能にしても、熊啓率いる本隊との合流を阻めればいい。現状、成果は出ているといえる。

「重畳」
 王翦はごちる。手を伸ばせば届く距離に、完璧な幕引きがある。

「どのように攻めるおつもりで?」
 隣に馬を並べた、李信が訊いた。

「糧道もなく、孤城に過ぎない。ならば答えは一つしかあるまい」
 王翦は得意の鼻をうごめかせた。

「敵が立ち枯れるのを待つ」

「その通りだ」
 満足げに唸る王翦に対して、李信は眉を顰めている。

「昌平君は何かを待っているのではないでしょうか?」

「何かを待っている?」
 
 王翦は李信に苛立ちを募らせた。この所、豪快奔放であった、李信が嫌に神経質になっている。項燕の一撃で性根まで断たれたのか。王翦が無知な若者を諫めることがあっても、膂力頼みの浅薄な若者が、千軍万馬の己を諫めることなどあってはならないのである。

「その何かとは?」

 王翦は剣呑な空気を漂わせた。何処かで役に立つと思い、従軍させた李信も、今や眼の前を飛び回る蠅の如く目障りだ。
 
 李信は何かを言いかけたが、王翦の顔色を一瞥し、口を閉ざした。

「もう口を挟むな」
 王翦は冷たく突き放すように告げた。
 
 きな臭さを感じる。それは筆舌で語ることは難しく、肌で感じるものだった。全身に痛痒が走っている。王翦の采配には穴はない。だが、戦は生き物だと、己は知っている。戦に絶対などなく、戦は水の如く、無限にかたちを変える。

 数多の死線を潜り抜けてきた王翦が知らぬはずのない事実である。だが、項燕に対する不断の執着が、宿敵の死によって終焉を迎え、緊迫感が弛緩しているように見える。現に王翦には眼の前の敵に対する、侮りが窺える。李信が知る、王翦は必要以上に用心深く慎重であった。
 
 しかし、今はどうだろうか。何処か浮ついた所があり、老獪さが失われている。大将の士気というものは、末端の兵に至るまで伝播する。項燕と戦う以前の兵士達は、鋭気を養っていたこともあって、士気が漲っていたが、今は散漫である。
 
 李信はこの上ない危機感を覚えていた。しかし、諫めた所で、王翦は耳を貸すまい。
 
 長嘆息と共に、故郷から遥か東に離れた空を見上げる。戦雲が漲っている。巨きな雲気が、竜を象っているように思える。

「黒き竜は生きているのか」

 天に向けた問いかけは、虚しく雲と共に流されて行った。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

朱元璋

片山洋一
歴史・時代
明を建国した太祖洪武帝・朱元璋と、その妻・馬皇后の物語。 紅巾の乱から始まる動乱の中、朱元璋と馬皇后・鈴陶の波乱に満ちた物語。全二十話。

鄧禹

橘誠治
歴史・時代
再掲になります。 約二千年前、古代中国初の長期統一王朝・前漢を簒奪して誕生した新帝国。 だが新も短命に終わると、群雄割拠の乱世に突入。 挫折と成功を繰り返しながら後漢帝国を建国する光武帝・劉秀の若き軍師・鄧禹の物語。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 歴史小説家では宮城谷昌光さんや司馬遼太郎さんが好きです。 歴史上の人物のことを知るにはやっぱり物語がある方が覚えやすい。 上記のお二人の他にもいろんな作家さんや、大和和紀さんの「あさきゆめみし」に代表される漫画家さんにぼくもたくさんお世話になりました。 ぼくは特に古代中国史が好きなので題材はそこに求めることが多いですが、その恩返しの気持ちも込めて、自分もいろんな人に、あまり詳しく知られていない歴史上の人物について物語を通して伝えてゆきたい。 そんな風に思いながら書いています。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

蘭癖高家

八島唯
歴史・時代
 一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。  遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。  時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。  大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを―― ※挿絵はAI作成です。

楽毅 大鵬伝

松井暁彦
歴史・時代
舞台は中国戦国時代の最中。 誰よりも高い志を抱き、民衆を愛し、泰平の世の為、戦い続けた男がいる。 名は楽毅《がくき》。 祖国である、中山国を少年時代に、趙によって奪われ、 在野の士となった彼は、燕の昭王《しょうおう》と出逢い、武才を開花させる。 山東の強国、斉を圧倒的な軍略で滅亡寸前まで追い込み、 六か国合従軍の総帥として、斉を攻める楽毅。 そして、母国を守ろうと奔走する、田単《でんたん》の二人の視点から描いた英雄譚。 複雑な群像劇、中国戦国史が好きな方はぜひ! イラスト提供 祥子様

後悔と快感の中で

なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私 快感に溺れてしまってる私 なつきの体験談かも知れないです もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう もっと後悔して もっと溺れてしまうかも ※感想を聞かせてもらえたらうれしいです

処理中です...