国殤(こくしょう)

松井暁彦

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六章 竜影

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「父上!父上!」
 懐かしい声が耳奥を撫ぜる。

「じいじ!」
(籍の声か。何故―)
 
 刹那、意識が覚醒した。
 瞼を開く。射し込む光が痛い。起き上がろうとするも、全身が激しく痛む。
 続いて声を発しようとするが、口の中は感じたことがないほどに乾いていた。

「おい。籍!水を」
 項梁こうりょうの狼狽する影が、朦朧とする視界で揺らめく。

「うん!」
 
 瓢の口先が、乱暴に口に突っ込まれる。水が注がれ、項燕は喉を必死に動かし、懸命に躰の内側へと流し込む。
 水が絶えかけた命に力を齎す。乾きが癒えていくと、次は強烈な飢えを感じた。

「肉を」
 
 項伯こうはくが慌てて、項燕の口に固形物を運ぶ。頭だけを動かし、固形物に食らいついた。小さく切り分けられた兎の肉だった。

「もっとだ」

 串に刺さった肉の塊を、項伯の手からぶん奪る。上半身を起こせるだけの力は蘇っていた。飢えが満たされるまで、一心不乱に肉を食らった。
 
 一息ついた頃には、五羽分の肉を食らい尽くしていた。

「じいじ」
 涙で瞳を潤わせた、項籍が這い寄ってくる。

「おいで」
 と枯れた声で告げると、孫の項籍は仰臥する、祖父に抱きつきわんわんと泣いた。
 
 項籍の艶のある髪を指で梳かすように撫ぜる。

「父上」
 二人の息子が、枕許に座する。彼等の瞳にも、また涙が湛えられている。

「此処は?」

「父上は会稽まで戻ってこられたのです」
 項伯が涙声で言う。

「誰がわしを此処まで」

「麾下の者です。楚軍は壊滅しましたが、父上の麾下五百騎だけは三百騎を残し、瀕死であった父上と共に、会稽に帰ってきたのです」

「そうか。よくあの場から、わしを救いあげたものだ」

 恐らく麾下の者達だけが、己を救い出す為、奮戦していたのであろう。何の役にも立たなかった老い耄れを助ける為に、忠義に篤い二百の麾下が死んだのだ。一筋の涙が頬を流れていく。気息を整え、再び上半身を起こす。至る所が痛む。幾つもの斬痕を受け、肌が見えないほどに血を吸って乾いた繃帯が巻かれている。

「わしは生きているのだな」
 繃帯の上から傷に触れ、小さく呟いた。

「はい」
 息子二人は同時に答え、限界であったのか、涙を溢れさせた。

「すまなかった」

 項燕は息子二人を抱き寄せた。二人は父の胸で、声を殺して、涙を流す。
 二人が存分に泣き枯れるまで、項燕は謝り続けた。

(あれは夢寐だむびだったのか)
 
 項燕は庵から見える焚火を見て、荒廃した大地で無限に拡がる野火を思い出した。

「じいじ」

 項籍は、胸に漆黒の鞘の飛簾ひれんを抱いて、覚束ない足取りで歩み寄ってくる。

「籍よ。何故、わしの剣を」

「じいじの剣が話しかけてくる」
 と言って、抱えた剣を床の隣へそっと置いた。

「話しかけてくる?」

「うん」
 項籍は力強く頷いた。時に幼い子供というのは、大人が理解できない妙なことを言い出したりする。

「飛簾はお前に、何と語り掛けてくる?」

「戦え。じいじにそう言っている」

 突如、己の魂魄を犠牲に虚無に散った、春申君の姿が脳裏に浮かび上がった。

 項燕は痛みを忘れ、弾かれたように、傍らに置かれた、飛簾を鞘から抜き放った。
 
 抜いた刹那、刃がいつものように曇りのない煌めきを見せた。
 
 安堵した瞬間。刃が粒子となって、朽ちていく。銀砂の如く煌めく粒子が、庵の中を吹き抜ける風に運ばれ、会稽山の新緑の中へと消えて行った。
 
 項燕は暫しの間、刃を失くした飛簾を眺め続けていた。今、眼の前で起きた光景に当惑しながらも、項籍は静かに刃のない飛簾を、祖父と共に眺め続けていた。

「籍。梁と伯を呼んで来てくれぬか?」

「どうして?」

 幼い孫の稚けない顔に、濃い不安の影が過る。

「わしはまだ戦わなくてはならん。果たすべき役目が、まだわしには残されている」
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