国殤(こくしょう)

松井暁彦

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五章 陥穽

十一

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 秦兵が津波のように、統率を失った楚軍に襲い掛かる。阿鼻叫喚の中、楚兵達は成す術もなく、腹背から次々と討ち斃されていく。

「これを戦とは呼べませんね」
 李信が感情を抑えた声でぼそりと呟いた。

 王翦は答えず、ただ一方的に討たれていく楚兵の姿を馬上で眺めていた。
 李信の言った通り、最早、現状は戦の態など成していなかった。楚軍は左右司馬二人を失い、王翦が仕掛けた陥穽により、同士討ちを始めた。
 
 父の遺言に憑りつかれ、義に篤い朱方は比較的操り易かった。黒華の手引きで、三人の楚兵を金子で買収し、偽の書簡を持たせ、搦め手に回された朱方に捕捉させた。

「李信よ、刮目せよ。之がわしという男の戦だ」

 李信は答えない。

「汚いと思うか」

「将軍は俺を、項燕を討つ隠し剣と仰せになりました」
 李信の本質は、項燕に似ている。己の戦は、勇猛果敢なものとは言えない。陰鬱で姦猾な戦だ。だが、己にとって戦とはこういうものだった。
 
 李信・項燕は個の武に恵まれている。しかし、己はそうではない。武勇に恵まれなかったからこそ、戦場で生き残る為に、他の道を模索しなくてはならなかった。
 
 秦兵が蝟集する場所がある。ちょうど中軍に位置する場所である。恐らくあの場所に項燕がいる。

「隠し剣を遣うまでもなかった。以前の項燕のままならば、わしの策謀など容易く看破できたはずだ。だが、奴は戦場を一度離れたことで、軍神から見放された」
 
 鳶色の具足を纏った、王翦直属の麾下がいる。その数、騎兵一万に歩兵が三万。地方から寄せ集めた雑魚とは違う。秦軍の中でも、極限まで鍛え抜かれた精鋭達である。

「あそこに項燕の首がある。奪れ」
 王翦は無感動な眼で、指揮刀を振り下ろす。

 弾かれるように四万の麾下が動いた。項燕の首を求めて群れる、小高い山のようになった兵士達の群れに突っ込んでいく。
 
 瞬間。凄まじい咆哮が平野に轟いた。山が二つに割れる。雷霆が地から空へと這い上がり、鑿空さくくうした。
 
 雨を降らし続ける厚い雲に穴が開き、一条の光が戦場に射した。光の中心に、隻腕の男が立っていた。

「黒き竜だ」
 李信が言った。

 総身に血を浴びた老いた男に、巨大な黒竜の姿が重なる。

「死を間際に蘇ったか」
 
 王翦は快哉を上げた。宿敵がかつての姿で立ちはだかっている。

(そうではなくてはならない。真の姿の貴様を斃してこそ、この勝利に意義がある)
 蘇った黒き竜の気にあてられた、兵士達は時が止まったかのように動かない。

「竜の首を奪れ!」
 王翦の渾身の檄が、彼等の硬直を解いた。
 
 裂帛の咆哮と共に、項燕が迎い討つ。
 
 緩慢に時が進んでいく。血の華がほうぼうで咲き乱れる。

 黒い斬撃を放つ、項燕は赤い渦の中で舞っている。項燕が死にゆく様は、まるで芸術のように美しかった。
 
 王翦は快楽の絶頂にあった。今、宿敵は死力を振り絞り、燦然と輝いている。彼の残された力を引き出したのも、己である。そして、黒き竜は、己の掌で踊らされるがまま死んでいく。
 
 昂奮で鼻息を荒くし、頬を紅潮させる王翦。

 李信は異常者を見るような眼つきで見ていたが、どうでも良かった。己が何処かたかが外れている人間であることなど、とうに理解している。
 
 項燕は一刻ほど、喧噪の輪の中で、剣を振るい続けていた。だが、彼が眼前の敵を薙ぎ払うよりも、手柄を求め殺到する兵の勢いの方が強い。彼の周囲には、万を超える兵が蝟集している。項燕の首級をあげれば、十年は食っていけるだけの恩賞が用意されている。
 
 漸次、喧噪が小さくなっていく。絶えず響き渡っていた、竜の咆哮も熄んでいた。

「終わったか」

 昂奮が冷めていく。そして、項燕に勝ったのだという、筆舌に尽くしがたい幸福感が総身を満たす。
 
 李信は険しい表情で、喧噪が絶えた空間を睨んでいる。彼にとっては、不如意な顛末なのだろう。王翦は満腔の笑みを浮かべ、そしらぬ様子で、項燕の首級を届けるように麾下に命じた。

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