28 / 39
五章 陥穽
十一
しおりを挟む
秦兵が津波のように、統率を失った楚軍に襲い掛かる。阿鼻叫喚の中、楚兵達は成す術もなく、腹背から次々と討ち斃されていく。
「これを戦とは呼べませんね」
李信が感情を抑えた声でぼそりと呟いた。
王翦は答えず、ただ一方的に討たれていく楚兵の姿を馬上で眺めていた。
李信の言った通り、最早、現状は戦の態など成していなかった。楚軍は左右司馬二人を失い、王翦が仕掛けた陥穽により、同士討ちを始めた。
父の遺言に憑りつかれ、義に篤い朱方は比較的操り易かった。黒華の手引きで、三人の楚兵を金子で買収し、偽の書簡を持たせ、搦め手に回された朱方に捕捉させた。
「李信よ、刮目せよ。之がわしという男の戦だ」
李信は答えない。
「汚いと思うか」
「将軍は俺を、項燕を討つ隠し剣と仰せになりました」
李信の本質は、項燕に似ている。己の戦は、勇猛果敢なものとは言えない。陰鬱で姦猾な戦だ。だが、己にとって戦とはこういうものだった。
李信・項燕は個の武に恵まれている。しかし、己はそうではない。武勇に恵まれなかったからこそ、戦場で生き残る為に、他の道を模索しなくてはならなかった。
秦兵が蝟集する場所がある。ちょうど中軍に位置する場所である。恐らくあの場所に項燕がいる。
「隠し剣を遣うまでもなかった。以前の項燕のままならば、わしの策謀など容易く看破できたはずだ。だが、奴は戦場を一度離れたことで、軍神から見放された」
鳶色の具足を纏った、王翦直属の麾下がいる。その数、騎兵一万に歩兵が三万。地方から寄せ集めた雑魚とは違う。秦軍の中でも、極限まで鍛え抜かれた精鋭達である。
「あそこに項燕の首がある。奪れ」
王翦は無感動な眼で、指揮刀を振り下ろす。
弾かれるように四万の麾下が動いた。項燕の首を求めて群れる、小高い山のようになった兵士達の群れに突っ込んでいく。
瞬間。凄まじい咆哮が平野に轟いた。山が二つに割れる。雷霆が地から空へと這い上がり、鑿空した。
雨を降らし続ける厚い雲に穴が開き、一条の光が戦場に射した。光の中心に、隻腕の男が立っていた。
「黒き竜だ」
李信が言った。
総身に血を浴びた老いた男に、巨大な黒竜の姿が重なる。
「死を間際に蘇ったか」
王翦は快哉を上げた。宿敵がかつての姿で立ちはだかっている。
(そうではなくてはならない。真の姿の貴様を斃してこそ、この勝利に意義がある)
蘇った黒き竜の気にあてられた、兵士達は時が止まったかのように動かない。
「竜の首を奪れ!」
王翦の渾身の檄が、彼等の硬直を解いた。
裂帛の咆哮と共に、項燕が迎い討つ。
緩慢に時が進んでいく。血の華がほうぼうで咲き乱れる。
黒い斬撃を放つ、項燕は赤い渦の中で舞っている。項燕が死にゆく様は、まるで芸術のように美しかった。
王翦は快楽の絶頂にあった。今、宿敵は死力を振り絞り、燦然と輝いている。彼の残された力を引き出したのも、己である。そして、黒き竜は、己の掌で踊らされるがまま死んでいく。
昂奮で鼻息を荒くし、頬を紅潮させる王翦。
李信は異常者を見るような眼つきで見ていたが、どうでも良かった。己が何処かたかが外れている人間であることなど、とうに理解している。
項燕は一刻ほど、喧噪の輪の中で、剣を振るい続けていた。だが、彼が眼前の敵を薙ぎ払うよりも、手柄を求め殺到する兵の勢いの方が強い。彼の周囲には、万を超える兵が蝟集している。項燕の首級をあげれば、十年は食っていけるだけの恩賞が用意されている。
漸次、喧噪が小さくなっていく。絶えず響き渡っていた、竜の咆哮も熄んでいた。
「終わったか」
昂奮が冷めていく。そして、項燕に勝ったのだという、筆舌に尽くしがたい幸福感が総身を満たす。
李信は険しい表情で、喧噪が絶えた空間を睨んでいる。彼にとっては、不如意な顛末なのだろう。王翦は満腔の笑みを浮かべ、そしらぬ様子で、項燕の首級を届けるように麾下に命じた。
「これを戦とは呼べませんね」
李信が感情を抑えた声でぼそりと呟いた。
王翦は答えず、ただ一方的に討たれていく楚兵の姿を馬上で眺めていた。
李信の言った通り、最早、現状は戦の態など成していなかった。楚軍は左右司馬二人を失い、王翦が仕掛けた陥穽により、同士討ちを始めた。
父の遺言に憑りつかれ、義に篤い朱方は比較的操り易かった。黒華の手引きで、三人の楚兵を金子で買収し、偽の書簡を持たせ、搦め手に回された朱方に捕捉させた。
「李信よ、刮目せよ。之がわしという男の戦だ」
李信は答えない。
「汚いと思うか」
「将軍は俺を、項燕を討つ隠し剣と仰せになりました」
李信の本質は、項燕に似ている。己の戦は、勇猛果敢なものとは言えない。陰鬱で姦猾な戦だ。だが、己にとって戦とはこういうものだった。
李信・項燕は個の武に恵まれている。しかし、己はそうではない。武勇に恵まれなかったからこそ、戦場で生き残る為に、他の道を模索しなくてはならなかった。
秦兵が蝟集する場所がある。ちょうど中軍に位置する場所である。恐らくあの場所に項燕がいる。
「隠し剣を遣うまでもなかった。以前の項燕のままならば、わしの策謀など容易く看破できたはずだ。だが、奴は戦場を一度離れたことで、軍神から見放された」
鳶色の具足を纏った、王翦直属の麾下がいる。その数、騎兵一万に歩兵が三万。地方から寄せ集めた雑魚とは違う。秦軍の中でも、極限まで鍛え抜かれた精鋭達である。
「あそこに項燕の首がある。奪れ」
王翦は無感動な眼で、指揮刀を振り下ろす。
弾かれるように四万の麾下が動いた。項燕の首を求めて群れる、小高い山のようになった兵士達の群れに突っ込んでいく。
瞬間。凄まじい咆哮が平野に轟いた。山が二つに割れる。雷霆が地から空へと這い上がり、鑿空した。
雨を降らし続ける厚い雲に穴が開き、一条の光が戦場に射した。光の中心に、隻腕の男が立っていた。
「黒き竜だ」
李信が言った。
総身に血を浴びた老いた男に、巨大な黒竜の姿が重なる。
「死を間際に蘇ったか」
王翦は快哉を上げた。宿敵がかつての姿で立ちはだかっている。
(そうではなくてはならない。真の姿の貴様を斃してこそ、この勝利に意義がある)
蘇った黒き竜の気にあてられた、兵士達は時が止まったかのように動かない。
「竜の首を奪れ!」
王翦の渾身の檄が、彼等の硬直を解いた。
裂帛の咆哮と共に、項燕が迎い討つ。
緩慢に時が進んでいく。血の華がほうぼうで咲き乱れる。
黒い斬撃を放つ、項燕は赤い渦の中で舞っている。項燕が死にゆく様は、まるで芸術のように美しかった。
王翦は快楽の絶頂にあった。今、宿敵は死力を振り絞り、燦然と輝いている。彼の残された力を引き出したのも、己である。そして、黒き竜は、己の掌で踊らされるがまま死んでいく。
昂奮で鼻息を荒くし、頬を紅潮させる王翦。
李信は異常者を見るような眼つきで見ていたが、どうでも良かった。己が何処かたかが外れている人間であることなど、とうに理解している。
項燕は一刻ほど、喧噪の輪の中で、剣を振るい続けていた。だが、彼が眼前の敵を薙ぎ払うよりも、手柄を求め殺到する兵の勢いの方が強い。彼の周囲には、万を超える兵が蝟集している。項燕の首級をあげれば、十年は食っていけるだけの恩賞が用意されている。
漸次、喧噪が小さくなっていく。絶えず響き渡っていた、竜の咆哮も熄んでいた。
「終わったか」
昂奮が冷めていく。そして、項燕に勝ったのだという、筆舌に尽くしがたい幸福感が総身を満たす。
李信は険しい表情で、喧噪が絶えた空間を睨んでいる。彼にとっては、不如意な顛末なのだろう。王翦は満腔の笑みを浮かべ、そしらぬ様子で、項燕の首級を届けるように麾下に命じた。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
Battle of Black Gate 〜上野戦争、その激戦〜
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
慶応四年。上野の山に立てこもる彰義隊に対し、新政府の司令官・大村益次郎は、ついに宣戦布告した。降りしきる雨の中、新政府軍は午前七時より攻撃開始。そして――その最も激しい戦闘が予想される上野の山――寛永寺の正門、黒門口の攻撃を任されたのは、薩摩藩兵であり、率いるは西郷吉之助(西郷隆盛)、中村半次郎(桐野利秋)である。
後世、己の像が立つことになる山王台からの砲撃をかいくぐり、西郷は、そして半次郎は――薩摩はどう攻めるのか。
そして――戦いの中、黒門へ斬り込む半次郎は、幕末の狼の生き残りと対峙する。
【登場人物】
中村半次郎:薩摩藩兵の将校、のちの桐野利秋
西郷吉之助:薩摩藩兵の指揮官、のちの西郷隆盛
篠原国幹:薩摩藩兵の将校、半次郎の副将
川路利良:薩摩藩兵の将校、半次郎の副官、のちの大警視(警視総監)
海江田信義:東海道先鋒総督参謀
大村益次郎:軍務官監判事、江戸府判事
江藤新平:軍監、佐賀藩兵を率いる
原田左之助:壬生浪(新撰組)の十番組隊長、槍の名手
信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~
佐倉伸哉
歴史・時代
その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。
父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。
稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。
明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。
◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』『カクヨム(https://kakuyomu.jp/works/16818093085367901420)』でも同時掲載しています◇
満月に飛んだ曾お祖父ちゃんの零式艦上戦闘機 ~時を越えて~
星野 未来
歴史・時代
曾お祖父ちゃんの祖国、日本へやってきた「サクラ」だったが、日常に疲れビルの屋上から飛び降りて自殺しようとしていた。ふと、見上げると綺麗な満月が見える。
そして、父と祖父から伝え聞いた、あの曽祖父の『零戦』の話。太平洋戦争時に起きた奇跡の物語が今、始まる。
あの満月の夜にブーゲンビルで「タマラ」が見た曽祖父の『零式艦上戦闘機』。それは、「タマラ」と「サクラ」を、国と時代を超えて結びつけた。
「サクラ」はそのまま、ビルから飛び降りて、曽祖父の元へ旅立つのか?
「自殺と戦争」、「日本とブーゲンビル」、「満月と零戦」……。
時間、場所、人種、国籍、歴史、時代が遠く離れた点と点が繋がる時、
一つの命が救われる…。あなたの手で…。
国と時代を超えた、切なくも希望に満ちた歴史ファンタジー。
あの曽祖父の操縦する『零戦(ゼロ戦)』が、ひ孫「サクラ」の人生を救う……。
白狼 白起伝
松井暁彦
歴史・時代
時は戦国時代。
秦・魏・韓・趙・斉・楚・燕の七国が幾星霜の戦乱を乗り越え、大国と化し、互いに喰らう混沌の世。
一条の光も地上に降り注がない戦乱の世に、一人の勇者が生まれ落ちる。
彼の名は白起《はくき》。後に趙との大戦ー。長平の戦いで二十四万もの人間を生き埋めにし、中国史上、非道の限りを尽くした称される男である。
しかし、天下の極悪人、白起には知られざる一面が隠されている。彼は秦の将として、誰よりも泰平の世を渇望した。史実では語られなかった、魔将白起の物語が紡がれる。
イラスト提供 mist様
【ショートショート】雨のおはなし
樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
青春
◆こちらは声劇、朗読用台本になりますが普通に読んで頂ける作品になっています。
声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。
⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠
・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します)
・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。
その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる