国殤(こくしょう)

松井暁彦

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五章 陥穽

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 開戦の鼓鐸の音が、墨を暈したような鈍色の空に吸い込まれていく。大粒の雨が昨晩から降り続き、地はぬかるみ、鬱々と戦場へ向かう兵士達の足をとる。
 
 戎衣を鳴らし、颯爽と馬の背に項燕は騎乗する。馬を並べる、熊烈に目配せを送ると、彼は自身の持ち場へと馬首を向けた。
 
 その時である。北の方角から馬蹄の響きが轟いた。彼我の差は二里。大粒の雨が簾のようになって、視界を遮っている。

 熊烈が動きを止め、前方を睨んだ。

(討って出てきたか)
 
 それにしては、馬蹄の音は小さく纏まりがある。せいぜい一万から二万程度である。
 項燕は手を挙げ、麾下達に迎撃態勢に入るように命じた。馬蹄の音が近づいてくる。凝視すると、雨の中で翻る楚の旗を認めた。すぐに先頭で馬を駆けさせる、朱方の姿が確認できた。

「朱方だと。何故?」

 朱方は秦の兵站線を断たせる為、二万騎を与え、搦め手に回している。

「尋常ではない速度で駆けてきます。何か不測の事態があったのでしょうか」
 熊烈は再び、項燕の隣に馬を並べた。

 二万騎は大楯を構える、第一陣の前で静止する。朱方が下馬するのが見える。

 項燕と熊烈は下馬し、従者に馬の手綱を渡す。朱方を迎える為、整然と隊列を組む、歩兵達の脇を進んでいく 朱方の顔が視認できる位置まで二人は近づいた。泥に塗れた朱方は瞳孔を開き、乱暴に歩兵を押しのける。

「朱方殿。何故、項燕将軍の指示なく帰陣された?何か不測の事態でー」
 朱方の手が腰の佩剣に伸びた。

「熊烈‼さがれ!」
 項燕は泥濘を蹴った。同時に剣を抜き放つ。しかし、利き腕より反応が僅かに遅れた。

 時として半呼吸である。 熊烈の後頭部から剣尖が突き出した。

「熊烈!!!!!」

 顔を貫かれた熊烈は、剣が抜かれると、糸が切れた操り人形のように、泥濘に躰を埋めた。

「この裏切り者共め!」
 朱方の眼は、狂気に染まっていた。

 項燕は愛刀の飛簾を一閃させた。風神の意を冠した絶剣は、朱方が突き出した剣を、両断した。馳せ違う時には、朱方の両腕は肘から下がなく、鮮血を噴き出していた。

「う、腕がー」
 膝から崩れ行く朱方は、血の涙を流し、項燕を黒い殺意の籠った眼で睨みつける。

「裏切り者が!者共!この老い耄れを捕えよ!こいつと熊烈は、秦と裏で繋がり、保身の為、国を売り渡そうとしている!」
 半狂乱で朱方は、項燕を血が溢れる両肘で指した。
 
 一部始終を目の当りにしていた、周囲の兵士達に激しい動揺が走る。狼狽はさざ波のように、伝播していく。

「売国奴の首を奪れ!」

 瞬間。朱方の麾下として与えていた二万の騎兵が、一陣に突っ込んだ。隊列が撓む。

「何をしている!今すぐ売国奴の首をー」

 白刃が走り、朱方の首が舞った。鈍い音を立て、朱方の首が地に落ちた時には、混乱は収拾がつかないほどの有様になっていた。
 
 楚兵同士が白刃を交わし、悲鳴と怒号が混ざり合い、混迷を極めている。

「裏切り者め」

 一騎が矛を突き出し、項燕に向かって、凄まじい速さで駆けてくる。項燕は無残に、顔を貫かれた、熊烈の遺骸を見下ろしている。

「死ね!裏切り者」

 白刃が間近に迫る。

「黙れ」
 
 項燕は眦を吊り上がらせ、肚の底から湧き上がってくる、灼熱の忿怒を騎兵に放った。
 
 紅蓮の武威が、馬の戦意を挫いた。失速。
 
 鞍上で狼狽する兵士の矛先が揺れる。地上の項燕と馬上の兵士が擦れ違う。淡い剣光が煌めく。血の華が空を裂くように走った。兵士の首が舞い、主を失くした馬は、勢いよく泥濘に倒れ込む。

「すまぬ、熊烈。わしは初めから王翦の掌で躍らせていたようだ」
 
 北の方角で軍旅斧鉞ぐんりょふえつが擦れ合う音が反響する。
 項燕はやむことのない雨を全身で感じた。辺りの喧噪が間遠になっていく。

「秦が来たぞ」

 悲鳴が上がり、楚兵達が背を向けて逃げていく。

  もう何もかもどうでもよかった。己は完膚なくまでに、王翦に打ちのめされた。かつては軍神に寵愛されていた。だからこそ、姑息な欺瞞などは、肌の間隔で察知することができた。だが、戦場を放棄し、軍神に見放された今、己に天祐はない。

(此処が死地か)

 惨めな死に際である。

(あのまま会稽かいけいの地に留まっているべきだったかな)
 項燕は灰色の空を仰ぎ、薄く笑った。

 年甲斐もなく熊啓が放つ情熱に感化され、己の魂を削り、陋習に囚われた楚を解放しようと藻掻く姿に魅入られた。あの男が築いた国ならば、息子や孫の未来を預けてもいい。そう思ったからこそ、捨てた戦場へ戻ることを決意した。
 
 項燕は顔に張り付いた水滴を払い、刻一刻と迫る、死への行進に敢然と向き合った。

(許せ。熊啓。世を捨てた老骨に、最早、成せることなど何一つなかった)

 蜘蛛の子を散らしたように逃げる兵士達の流れに逆らって、項燕は一人、歩みを進めていく。

 林立する秦の黒色の旌旗。その狭間で翩翻と翻るは、鳶色の王の旗。
 この首はくれてやる。だがー。

「最期くらいは存分に暴れさせろ。王翦!」
 
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