国殤(こくしょう)

松井暁彦

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四章 変革

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 淮水に拠る形で、楚の都の寿春じゅしゅんは築かれている。淮水を境に南を淮南わいなんと呼び、北を淮北わいほくと呼ぶ。寿春は淮南にあり、淮水より約八十里ほど離れた位置にある。

 淮水より北に離れること二十里の平野に、続々と兵士が集っている。今は六万ほどで後数日もすれば、十万を越えるほどの兵士が各地から馳せ参じてくる。当然、項燕率いる楚軍が敗れれば、秦軍は大河を越え、寿春に襲い掛かる。
 
 秦軍は函谷関を抜けて、洛陽らくようを越え、既に旧韓領の陽翟ようてきに入った。六十万の兵を揃えている。一ヶ月もすれば、秦の大軍勢は、楚の旧都である陳に陣を張るだろう。大戦の気配が蕭々しょうしょうと吹く風に運ばれてやって来る。

  軍営を四頭立ての馬車が駆け抜ける音が聞こえ、眼を向けると、従者に手を引かれて馬車から降りる、汗明の姿があった。項燕は迎えに出ると、彼を大幕舎の中に招じ入れた。

「やはり無駄であったか」
 汗明は汗に濡れた前髪を払い、苦笑を浮かべた。

「斉に送った使者との連絡が途絶えました」

「そうか」
 斉の救援をあてにしていた訳ではない。斉は孟嘗君もうしょうくんが存命であった頃のような勢いはなく、今では斉王は傀儡となり外戚が権力を握っている。外戚は秦と水面下で繋がり、不戦を誓い、秦に諸国が次々に併呑されても、山東の地で亀のように籠って動かない。

「面目ない限りで」
 常に悠揚と構えている、汗明にしては珍しく潮垂れている。彼は舌峰を武器に身を立ててきた弁士である。本来、面目躍如の機会を得るはずの外国との交渉で、成果を得られなかったことが悔しいのだろう。

「口惜しいが現今の斉には孟嘗君や、滅亡の危機から斉を救い立て直した田単でんたんのような傑物はおらん」
 斉の湣王びんおうの代で、燕の英雄楽毅がくきが盟主となり、約された六か国連合軍によって、斉は滅亡の危機に瀕している。七十余城存在した城邑は、極東の地、きょ即墨そくぼくの二城を除いて、悉く陥落した。
 
 だが、当時、市掾しえん(小役人)に過ぎなかった田単が彗星の如く現れ、敗残兵を指揮して、瞬く間に戦況をひっくり返した。田単は燕軍を破った後、斉の宰相として残破した斉を立て直してみせた。爾来、救世主田単を最後に、斉は傑物を輩出していない。
 
 湣王の父の宣王びんおう、祖父の威王いおうの代には、国籍問わず賢のある学者を招聘し、都臨淄りんしは百家争鳴の地となり、戦国七雄一栄えていた。しかし、今は外国人を寄せ付けない封鎖的な国になっている。というのも、斉王の権勢に寄生する外戚や佞臣共が秦の狗と成り下がり、国交を断絶しているからである。

「項燕殿には、厳しい戦を強いることになりますな」

「普段、酒々落々しゃしゃらくらくとしておられる汗明殿が、しみったれた顔をされていては調子が狂うのう。もとより、厳しい戦となることは承知の上」
 項燕は腰の曲がった翁の気を安らげようと破顔一笑してみせた。

「今、わしの麾下にある兵力で何とかするしかない。幾ら嘆いた所で兵が増える訳でもないからのう」

「項燕殿」
 汗明は目尻に涙を浮かべた。

「泣くな、汗明殿。湿っぽいのは好きではない」

「いや。春申君の私塾に通っておられた頃の若き項燕殿を不意に思い出してしまいました」
 汗明は掌で頬に濡らす涙を拭った。

「あの頃のわしは、世間知らずの生意気な小僧に過ぎなかった。よく春申君や荀況殿にお叱りを受けたものよ」
 瞼を閉じれば、鮮明に思い出せる。

 青年時代の蒼き記憶を。
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