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三章 陰火
二
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払暁の光線が、寝室に差し込む。まんじりもせず迎えた朝。王翦は具足を鳴らし、牀から起き上がる。全身の筋を伸ばす。筋は音を立ててほぐれていく。呻くほどの痛みが総身に走る。無理もない。齢六十五歳を越え、躰の至る所にガタが来ている。この時代ででは大往生である。
躰を伸ばしていると、館の外の方で、馬車が駆ける音が聞こえた。それもかなりの数と推測できる。耳を澄ませる。すると馬蹄の響きは、館の前で止まった。
(このような時間に客人か)
隠棲した今、息子の王賁以外に、王翦を訪ねるものなどいなかった。門前雀羅とは良く言ったもので、軍人時代には、王翦に阿諛追従する文官共がひっきりなしに門を叩いたものだが。
廊下を走る、下男の慌ただしい足音が響く。
「旦那様!」
勢いよく寝室に入った、下男は土気色の顔を向けた。
「何があった?」
ただならぬ気配を感じる。
「それがー」
下男は慄きながら、早朝の来訪者の名を告げた。
王翦は瞠目し、暫しの間、自失した。だが、老齢にして、研がれた刀のように鋭い思考の持ち主である王翦は、
「承知した。鄭重におもてなしせよ」
と泰然と告げ、他の下男に武冠(武官の冠)を持ってくるように命じた。
装いを改めた王翦は、客間の下座で座し、客人を静かに待っていた。
戸が開き、「王翦将軍」と己を呼ばわる、凛とした声が響いた。
(相変わらずこの御方の声はよく透る)
王翦は跪拝し、深く面を下げた。客人が上座に座す。
「面を上げてくれ。王翦将軍」
君主に対して、許しがなければ、臣下は直視も直言もできない。
王翦はゆっくりと面を上げ、秦王こと嬴政を双眼で捉えた。
「お久しゅうございます。大王様」
秦王政は鋭い眼許に、穏やかな皺を刻んだ。
「息災であったか。王翦」
「はい。この通りでございます」
王翦は相好を崩し、服の袖をはためかせた。
王翦はつらつらと壮年期の秦王の姿を眺めた。風姿には明晰の光が満ちている。
豊かな耳翼は、彼が口許を弛める度に震える。
王翦は秦王政の父、荘襄王の容貌も知っているが、まるで似ていない。荘襄王は柔和な顔立ちの男であった。蒲柳をうかがわせ、君主というより、詩人や楽人に近い気配を纏っていた。
秦王政の母である太后と私通していた、呂不韋が彼の実父というのは、真なのかもしれない。三十半ばに達した秦王政の容貌は、相邦として辣腕を振るっていた、壮年期の呂不韋と瓜二つであった。
だが、瞳の奥に宿る猜疑の影は、遥かに嬴政の方が濃く禍々しい。幾星霜と続く戦乱を憎み、純粋に万民の幸せを願い天下統一を宿願に掲げた、純朴であった頃の王の姿は、今はない。
何が純粋であった少年王を変えたのか。恐らく彼を、猜疑心に憑りつかれた怪物に変えたのは人であろう。弟の成蟜、母である太后の反乱。そして、太后と情夫である嫪毐の謀反には、実父と噂される、呂不韋も関与していた。つまり、嬴政は身内に裏切り続けられてきた。戦乱の世に、骨肉相食む情況は、珍しいことではない。
しかし、肉親の裏切りが、確実に、嬴政の何かを変えた。人の醜悪さを知ったのか。君主とは孤独なものなのだろう。一度は軍人の極みに至った己であるが、君主の孤独は理解できない。
ともあれ純朴であった少年王の転化を残念に思っていない訳ではない。だが、時間と経験は普遍のもので、必ず人に変化を与える。過去の経験値が、今の嬴政を創り上げ、少なからず軍人として仕えた己も、彼の積み重ねた経験値の中にあるのだと思うと、こんなものだと割り切ることができる。これから若き秦王が如何に変化してゆくか。老いさき短い己の知る所ではない。
「御光臨頂き感佩の至りでございます。して、来意を御尋ねしても」
王翦は猜疑心の塊である、秦王政に柔和な笑みを浮かべ尋ねた。
秦王政の眼許から感情が引いていく。長嘆息の後、彼はおもむろに床に額を擦りつけた。
これには、海千山千の王翦も驚いた。
「大王様!何を!」
慌てて膝行で、頭を垂れる、秦王政の躰を支えた。
「孤はそなたに謝罪しなくてはならない」
面を上げた秦王政の苦い表情からは、焦燥と怒りが窺えた。
「謝罪とは?」
「荊の討伐を任せた李信と蒙恬が敗けた」
荊とは楚のことをさす。
秦王政が婉曲に楚の名称を避けたのは、父王である荘襄王の諱が子楚であるからである。
(なるほど。やはりか)
この時点で、秦王政が秘める心算を看破した。
「それはー。俄かに信じ難い話ですな。李信、蒙恬両将軍は共に勇猛果敢で、私の知る所、斜陽にある楚に彼等を撃ち破るほどの将校がいるとは思えませんが」
事実、項燕が退役してからというもの、楚には柱石といえる軍人は一人もいない。
元来、楚は公室や貴族の力が強い、旧態依然とした国である。長大な領土を有していながらも、新興の国である秦に、大きく差をつけられたのは、旧来の陋習に囚われ、時代の変遷に合わせて、時流の波に乗ることができなかったことにある。
その点、秦では公室、貴族が力を持つ、封建制度の撤廃を推し進め、法による統治を国是とし、外国人を排斥せず登用し、実力主義による論功行賞を確立させた。秦では功績なきものに、禄を食ませることはしない。極論、奴隷でも手柄を上げれば、極官へと登り詰めることができるのである。秦の強さの根底は、封建制の撤廃を推進したことにあるといっても過言ではない。
王翦自身も生え抜きの軍人であり、実力と積み重ねた功績のみで、大将軍にまで登った。李信、蒙恬の両名も同様で、まだ若いが幾度も死線を潜り抜けてきた、千軍万馬の将である。項燕以外の楚の将を思い起こしてみるが、李信、蒙恬を撃ち破れるほどの将の名は上がってこない。
「昌平君、昌文君が叛旗を翻した」
秦王政は苦虫を噛み潰したような顔で言った。眇めた巨眼の奥では、憤怒の烈火が灯っている。
「何と」
隠棲してからというもの、世の情勢をあえて耳に入らないようにしている。宿敵が戦場を去ってから、全てがどうでもよくなったのだ。
両名は共に、長く王を丞相として輔け、彼自身全幅の信頼を置いていたことは、傍目からでも感じていた。だが、両名とも、楚の公子である。祖国の危急が、叛心の萌芽を芽吹かせたのか。これで李信と蒙恬が敗れた理由も明瞭になってきた。恐らく昌平君、昌文君の軍に背後を衝かれたのであろう。
「孤は出陣前に、そなたと李信に問うたな。荊を攻め奪るのにどれほどの兵力が必要かと」
「ええ」
「そなたは、六十万は必要だと答えた。対して李信は二十万で充分だと言ってのけた」
李信は直近の功があった。僅か数千の兵を率いて、秦王政に荊軻という刺客を差し向けた、燕の太子丹を易水で破り、捕縛することに成功している。
当時の問答の様子を回顧する。
「王翦も耄碌したものだ。老いは人を脆弱に変えるな。それに比べ、李信には果敢さと気概が溢れておる」
王翦は秦王政の心ない発言に、大いに気色ばんだのを覚えている。
王翦が六十万と明確な数字を出したのは、老いでも弱腰になった訳でもない。この問答が成された時は、項燕の所在も曖昧模糊としていたし、幾ら斜陽の国であっても、楚には長大な領土があり、練度は低くとも六十万を超える兵卒がいる。王翦からすれば李信の言は、秦王政に阿る為だけの血気に逸った主張と言えた。
李信は時得顔に軽侮を添えた眼で、鼻白む王翦を見遣った。慷慨し理路整然と、李信の主張に反駁するも、秦王政は李信に楚討伐の任を託した。後に王翦は項燕の退役を知り、自身も軍から退くことを決意した。
「孤が間違っていた。結果、二十万の軍勢は覆滅。昌文君は戦死したが、昌平君は三日三晩遁走する、秦軍を追い、七人の将校を殺した」
秦王政が腰に巻く、佩玉が乾いた音を立てる。
握りしめられた拳からは、血が滴っている。
李信の自信に満ちた表情が、恐怖に歪んだ様を想像すると、胸をすくものがある。しかし、それだけのことだ。たとえ、秦王政自ら出向き、謝意を述べられたとしても、もう一度戦場に立とうとは思わない。
「大王様。私は一度、戦場を離れてしまったのです。隠棲の地で安逸を貪るだけの老骨に、一軍を率いることはできませぬ」
「天下統一は目前に迫っている。だが、宿願を南の荊が阻んでいる。孤は宿願を成就させる為にも、一刻も早く荊を滅ぼしたい。憎き荊を伐てるのは、無限の軍略を有する、王翦将軍―。そなたしかいない」
秦王政は怨顔を向け、強く王翦の皺だらけの手を握った。だが、心に揺らぎはない。
「この老い耄れに、大王様の扶翼が務まるとは、到底思えませぬ」
王翦はするりと、秦王政の桎梏から逃れた。
瞬間、秦王政からたちのぼる不敵な気配を感じた。
「王翦将軍。一つ言い忘れていたことがある」
先ほどまで沈んでいた、秦王政の口調には力が蘇っている。
「はて、何でしょう」
「李信、蒙恬を破ったのは、昌平君一人の力ではない」
「それはつまりー」
「昌平君の動きに呼応した男がいる」
王翦は瞠目し、生唾を呑んだ。心臓が早鐘を打っている。
「王翦将軍―。項燕が戦場に戻ってきた」
曲がった背筋が自然に伸び、総身の細胞が快哉を上げた。
「これでも戦場に戻らぬか?次の戦必ず項燕は出てくるぞ」
胸の奥に不要なものとしまいこんだ闘志が蜷局を巻いて、四肢の先にまで沁みわたっていく。
「大王様も意地の悪いことをなされる」
秦王政は破顔し、唇の隙間から鋭利な犬歯を覗かせた。
「将軍。すでに軍人の眼に戻っているぞ」
躰を伸ばしていると、館の外の方で、馬車が駆ける音が聞こえた。それもかなりの数と推測できる。耳を澄ませる。すると馬蹄の響きは、館の前で止まった。
(このような時間に客人か)
隠棲した今、息子の王賁以外に、王翦を訪ねるものなどいなかった。門前雀羅とは良く言ったもので、軍人時代には、王翦に阿諛追従する文官共がひっきりなしに門を叩いたものだが。
廊下を走る、下男の慌ただしい足音が響く。
「旦那様!」
勢いよく寝室に入った、下男は土気色の顔を向けた。
「何があった?」
ただならぬ気配を感じる。
「それがー」
下男は慄きながら、早朝の来訪者の名を告げた。
王翦は瞠目し、暫しの間、自失した。だが、老齢にして、研がれた刀のように鋭い思考の持ち主である王翦は、
「承知した。鄭重におもてなしせよ」
と泰然と告げ、他の下男に武冠(武官の冠)を持ってくるように命じた。
装いを改めた王翦は、客間の下座で座し、客人を静かに待っていた。
戸が開き、「王翦将軍」と己を呼ばわる、凛とした声が響いた。
(相変わらずこの御方の声はよく透る)
王翦は跪拝し、深く面を下げた。客人が上座に座す。
「面を上げてくれ。王翦将軍」
君主に対して、許しがなければ、臣下は直視も直言もできない。
王翦はゆっくりと面を上げ、秦王こと嬴政を双眼で捉えた。
「お久しゅうございます。大王様」
秦王政は鋭い眼許に、穏やかな皺を刻んだ。
「息災であったか。王翦」
「はい。この通りでございます」
王翦は相好を崩し、服の袖をはためかせた。
王翦はつらつらと壮年期の秦王の姿を眺めた。風姿には明晰の光が満ちている。
豊かな耳翼は、彼が口許を弛める度に震える。
王翦は秦王政の父、荘襄王の容貌も知っているが、まるで似ていない。荘襄王は柔和な顔立ちの男であった。蒲柳をうかがわせ、君主というより、詩人や楽人に近い気配を纏っていた。
秦王政の母である太后と私通していた、呂不韋が彼の実父というのは、真なのかもしれない。三十半ばに達した秦王政の容貌は、相邦として辣腕を振るっていた、壮年期の呂不韋と瓜二つであった。
だが、瞳の奥に宿る猜疑の影は、遥かに嬴政の方が濃く禍々しい。幾星霜と続く戦乱を憎み、純粋に万民の幸せを願い天下統一を宿願に掲げた、純朴であった頃の王の姿は、今はない。
何が純粋であった少年王を変えたのか。恐らく彼を、猜疑心に憑りつかれた怪物に変えたのは人であろう。弟の成蟜、母である太后の反乱。そして、太后と情夫である嫪毐の謀反には、実父と噂される、呂不韋も関与していた。つまり、嬴政は身内に裏切り続けられてきた。戦乱の世に、骨肉相食む情況は、珍しいことではない。
しかし、肉親の裏切りが、確実に、嬴政の何かを変えた。人の醜悪さを知ったのか。君主とは孤独なものなのだろう。一度は軍人の極みに至った己であるが、君主の孤独は理解できない。
ともあれ純朴であった少年王の転化を残念に思っていない訳ではない。だが、時間と経験は普遍のもので、必ず人に変化を与える。過去の経験値が、今の嬴政を創り上げ、少なからず軍人として仕えた己も、彼の積み重ねた経験値の中にあるのだと思うと、こんなものだと割り切ることができる。これから若き秦王が如何に変化してゆくか。老いさき短い己の知る所ではない。
「御光臨頂き感佩の至りでございます。して、来意を御尋ねしても」
王翦は猜疑心の塊である、秦王政に柔和な笑みを浮かべ尋ねた。
秦王政の眼許から感情が引いていく。長嘆息の後、彼はおもむろに床に額を擦りつけた。
これには、海千山千の王翦も驚いた。
「大王様!何を!」
慌てて膝行で、頭を垂れる、秦王政の躰を支えた。
「孤はそなたに謝罪しなくてはならない」
面を上げた秦王政の苦い表情からは、焦燥と怒りが窺えた。
「謝罪とは?」
「荊の討伐を任せた李信と蒙恬が敗けた」
荊とは楚のことをさす。
秦王政が婉曲に楚の名称を避けたのは、父王である荘襄王の諱が子楚であるからである。
(なるほど。やはりか)
この時点で、秦王政が秘める心算を看破した。
「それはー。俄かに信じ難い話ですな。李信、蒙恬両将軍は共に勇猛果敢で、私の知る所、斜陽にある楚に彼等を撃ち破るほどの将校がいるとは思えませんが」
事実、項燕が退役してからというもの、楚には柱石といえる軍人は一人もいない。
元来、楚は公室や貴族の力が強い、旧態依然とした国である。長大な領土を有していながらも、新興の国である秦に、大きく差をつけられたのは、旧来の陋習に囚われ、時代の変遷に合わせて、時流の波に乗ることができなかったことにある。
その点、秦では公室、貴族が力を持つ、封建制度の撤廃を推し進め、法による統治を国是とし、外国人を排斥せず登用し、実力主義による論功行賞を確立させた。秦では功績なきものに、禄を食ませることはしない。極論、奴隷でも手柄を上げれば、極官へと登り詰めることができるのである。秦の強さの根底は、封建制の撤廃を推進したことにあるといっても過言ではない。
王翦自身も生え抜きの軍人であり、実力と積み重ねた功績のみで、大将軍にまで登った。李信、蒙恬の両名も同様で、まだ若いが幾度も死線を潜り抜けてきた、千軍万馬の将である。項燕以外の楚の将を思い起こしてみるが、李信、蒙恬を撃ち破れるほどの将の名は上がってこない。
「昌平君、昌文君が叛旗を翻した」
秦王政は苦虫を噛み潰したような顔で言った。眇めた巨眼の奥では、憤怒の烈火が灯っている。
「何と」
隠棲してからというもの、世の情勢をあえて耳に入らないようにしている。宿敵が戦場を去ってから、全てがどうでもよくなったのだ。
両名は共に、長く王を丞相として輔け、彼自身全幅の信頼を置いていたことは、傍目からでも感じていた。だが、両名とも、楚の公子である。祖国の危急が、叛心の萌芽を芽吹かせたのか。これで李信と蒙恬が敗れた理由も明瞭になってきた。恐らく昌平君、昌文君の軍に背後を衝かれたのであろう。
「孤は出陣前に、そなたと李信に問うたな。荊を攻め奪るのにどれほどの兵力が必要かと」
「ええ」
「そなたは、六十万は必要だと答えた。対して李信は二十万で充分だと言ってのけた」
李信は直近の功があった。僅か数千の兵を率いて、秦王政に荊軻という刺客を差し向けた、燕の太子丹を易水で破り、捕縛することに成功している。
当時の問答の様子を回顧する。
「王翦も耄碌したものだ。老いは人を脆弱に変えるな。それに比べ、李信には果敢さと気概が溢れておる」
王翦は秦王政の心ない発言に、大いに気色ばんだのを覚えている。
王翦が六十万と明確な数字を出したのは、老いでも弱腰になった訳でもない。この問答が成された時は、項燕の所在も曖昧模糊としていたし、幾ら斜陽の国であっても、楚には長大な領土があり、練度は低くとも六十万を超える兵卒がいる。王翦からすれば李信の言は、秦王政に阿る為だけの血気に逸った主張と言えた。
李信は時得顔に軽侮を添えた眼で、鼻白む王翦を見遣った。慷慨し理路整然と、李信の主張に反駁するも、秦王政は李信に楚討伐の任を託した。後に王翦は項燕の退役を知り、自身も軍から退くことを決意した。
「孤が間違っていた。結果、二十万の軍勢は覆滅。昌文君は戦死したが、昌平君は三日三晩遁走する、秦軍を追い、七人の将校を殺した」
秦王政が腰に巻く、佩玉が乾いた音を立てる。
握りしめられた拳からは、血が滴っている。
李信の自信に満ちた表情が、恐怖に歪んだ様を想像すると、胸をすくものがある。しかし、それだけのことだ。たとえ、秦王政自ら出向き、謝意を述べられたとしても、もう一度戦場に立とうとは思わない。
「大王様。私は一度、戦場を離れてしまったのです。隠棲の地で安逸を貪るだけの老骨に、一軍を率いることはできませぬ」
「天下統一は目前に迫っている。だが、宿願を南の荊が阻んでいる。孤は宿願を成就させる為にも、一刻も早く荊を滅ぼしたい。憎き荊を伐てるのは、無限の軍略を有する、王翦将軍―。そなたしかいない」
秦王政は怨顔を向け、強く王翦の皺だらけの手を握った。だが、心に揺らぎはない。
「この老い耄れに、大王様の扶翼が務まるとは、到底思えませぬ」
王翦はするりと、秦王政の桎梏から逃れた。
瞬間、秦王政からたちのぼる不敵な気配を感じた。
「王翦将軍。一つ言い忘れていたことがある」
先ほどまで沈んでいた、秦王政の口調には力が蘇っている。
「はて、何でしょう」
「李信、蒙恬を破ったのは、昌平君一人の力ではない」
「それはつまりー」
「昌平君の動きに呼応した男がいる」
王翦は瞠目し、生唾を呑んだ。心臓が早鐘を打っている。
「王翦将軍―。項燕が戦場に戻ってきた」
曲がった背筋が自然に伸び、総身の細胞が快哉を上げた。
「これでも戦場に戻らぬか?次の戦必ず項燕は出てくるぞ」
胸の奥に不要なものとしまいこんだ闘志が蜷局を巻いて、四肢の先にまで沁みわたっていく。
「大王様も意地の悪いことをなされる」
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