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三章 陰火
一
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下男が手際よく夜着の上に具足を被せていく。ちょうど心の臓に位置する胸の部分には、縦に長く伸びた亀裂が入っている。王翦は女を愛撫するような手つきで、傷に指先でそっと触れる。
「おやすみなさいませ。旦那様」
具足を纏わせた、下男はそそくさと、寝室から退出して行った。
短く息を吐くと、王翦は具足姿のまま、牀の上に横になった。絹の天蓋を見つめ、ちょうど胸の辺りに刻まれた傷の前で指を組む。
瞼を閉じる。
蘇ってくるのは、退いた戦場の喧噪。鮮烈に浮かび上がる、竜のぬいとりの黒旗。風に翩翻と翻る、黒旗の中央には、項の文字。胸当てに刻まれた傷が、熱を放ち始める。
王翦は夙夜考えている。過去に経験した二度の合従戦のことを。
合従とは、南北の国で連合し、秦にあたろうとする外交策のことを言う。
秦の恵文王や昭襄王の御代では、秦を除いた六か国(魏・韓・趙・楚・斉・燕)合従を締結させた、蘇秦を魁として、多士済々の説客が立身栄達の為、諸侯の元を訪れた。
しかし、秦王として嬴政が立ち、次々に諸国を併呑していくと、あえて秦に対抗しようという気概のある説客も数を減らしている。
王翦が二度経験した合従戦の内訳は、前二百四七年の河外を主戦場にした合従戦であった。河外とは黄河の南のことをさし、魏の信陵君を総大将に据えた、魏・韓・趙・楚・燕の五か国からある合従軍が、蒙鷔を総大将とした秦軍を包囲した。ちなみに蒙鷔は蒙恬の祖父にあたり、羇旅の宿将である。この戦で秦軍は総数六十万を超える合従軍に敗走し、金城鉄壁を誇る、堅牢なる要塞函谷関までの撤退を余儀なくされた。
次に経験した、前二百四一年の合従戦は、楚の春申君を総大将に据えた、河外の戦同様の五か国が手を組み、七十万を超える大軍勢が函谷関にまで迫った。
この頃、王翦は五十を目前として、燦然たる功績を積み重ね、大将軍に昇りつめていた。秦王の信倚も厚く、王翦は合従戦で総大将を務めた。結果、合従軍は不落の函谷関と、王翦の隙のない指揮に成す術なく、撤退を余儀なくされた。
一度目は、蒙鷔の麾下としての出師であったが、合従軍を函谷関で阻んだ以上、王翦は勝利と捉えている。二度、圧倒的な兵力を前に勝利したのだ。だがー。あの男は二度も、己の瑕疵なき戦功に疵をつけた。
初めて奴を戦場で目の当りにした時、軍神蚩尤を髣髴とさせた。河外の戦では、殿を務める、王翦軍三万にたった五百騎だけを率いて、特攻を仕掛けてきた。
何者の肉薄も許さない、統率の取れた布陣であった。だが、奴は策などなく、総身に迸る、激情に身を任せ、堅陣を破り、王翦の喉元まで迫った。
乱戦となった。撃金鳴鼓するなか、王翦は矛を手挟み、繰り出される項燕の一撃を受け止めた。
項燕の一撃は、天河を裂くほどの威力だった。受けた矛は砕かれた。人生の中で、一番に死を身近に感じた瞬間だった。
とどめとの一撃を繰り出される刹那、副官が一万率いて、救援に入った。確認するや否や、項燕は一瞥をくれて、颯と兵を退いた。初めての敗北。そして、満身を屈辱に満たされた。
二度目の函谷関の戦いでは、項燕への復讐を誓い、総大将として出陣した。項燕は楚の総大将としての出陣であったが、野戦で本領を発揮する彼に、攻城戦ともいえる、函谷関での戦いでは、あまりに出番はなかった。
王翦は撤退を余儀なくされる、合従軍を三重の楼閣の上から睥睨し、満腔の歓びを感じた。輝かしい経歴に瑕を付けた、項燕が悄然として、函谷関を去る姿は、王翦の自尊心を溢れんばかりに満たした。
だが、奴はありえない行動に出た。単騎で反転すると、函谷関の門前に馬をやり、楼閣の上にいる、王翦をきっと睨んだ。負け惜しみの捨て台詞を吐いていくものだと思った。
王翦は腕を組み、勝ち誇った笑みを浮かべ、視線をぶつけた。
すると、項燕は強弓に、箙から取り出した矢を番えた。秦兵のせせら笑う声が反響した。
王翦も哄笑する。
「見苦しいぞ。項燕」
内心で嘲る。大楯を持った兵士が、王翦の前に立った。
番えられた矢は、王翦に向けられている。
「置き土産だ」
野太い声が轟いたと同時に、矢が放たれた。雷鳴の如し音が鳴り響く。
瞬間。肌に疣が立った。矢はあろうことか、大楯を持った兵士の楯を砕いた。躰を貫いても勢いは止まらず、王翦の鎧甲に突き立った。矢は肉に到達する前に止まり、王翦は呆然と、自身の胸の辺りに突き立った、矢を眺めていた。腕前は一箭双雕。放たれた矢の威力は厚い悪金の板を貫くほどであった。
「次は命をもらう」
項燕は呵々大笑し、まるで勝者のように注目を浴びて去って行った。
後にも先にも、王翦が苦杯を舐めさせられたのは、項燕だけであった。その後、趙全土を平定し、北東の燕を平定するなど、軍人として赫赫たる功績を挙げたが、心は遂に晴れることはなかった。どれだけ功績を積んでも、項燕の姿が脳裏にちらついてくる。
王翦は仰臥しながら、心火するのを感じた。
楚で幽王が叛乱によって薨じ、百官達が擁立した負芻が立つと、項燕は将軍職を辞した。
項燕の退役を知った、王翦は老いた躰から血の気が引いていくのを感じた。己に恥辱を味わせた男への復讐の機会を永遠に失ったのである。
古代より天子や諸侯から愛される、高価な軟玉も瑕があっては、本来の価値を下げる。己の功績も軟玉のようなものである。そして、項燕に深い瑕を付けられた今となっては、本来あるべき輝きを失っている。
失意のなか王翦は退役を決意し、今は故郷の頻陽で余生を送っている。そうして無聊を慰めるように、就寝前に過去の戦場に想いを馳せ、記憶を改竄し、何万通りのやり方で項燕を殺す。
回顧が何かを解決してくれる訳では当然ない。だが、より近くに宿敵を感じることができる。項燕を憎みながら、歪んだ愛もある。この想いは誰にも分かるまい。分からなくてもいい。己と項燕の間柄は、第三者が介入できるほど、簡単なものではないのだ。
「おやすみなさいませ。旦那様」
具足を纏わせた、下男はそそくさと、寝室から退出して行った。
短く息を吐くと、王翦は具足姿のまま、牀の上に横になった。絹の天蓋を見つめ、ちょうど胸の辺りに刻まれた傷の前で指を組む。
瞼を閉じる。
蘇ってくるのは、退いた戦場の喧噪。鮮烈に浮かび上がる、竜のぬいとりの黒旗。風に翩翻と翻る、黒旗の中央には、項の文字。胸当てに刻まれた傷が、熱を放ち始める。
王翦は夙夜考えている。過去に経験した二度の合従戦のことを。
合従とは、南北の国で連合し、秦にあたろうとする外交策のことを言う。
秦の恵文王や昭襄王の御代では、秦を除いた六か国(魏・韓・趙・楚・斉・燕)合従を締結させた、蘇秦を魁として、多士済々の説客が立身栄達の為、諸侯の元を訪れた。
しかし、秦王として嬴政が立ち、次々に諸国を併呑していくと、あえて秦に対抗しようという気概のある説客も数を減らしている。
王翦が二度経験した合従戦の内訳は、前二百四七年の河外を主戦場にした合従戦であった。河外とは黄河の南のことをさし、魏の信陵君を総大将に据えた、魏・韓・趙・楚・燕の五か国からある合従軍が、蒙鷔を総大将とした秦軍を包囲した。ちなみに蒙鷔は蒙恬の祖父にあたり、羇旅の宿将である。この戦で秦軍は総数六十万を超える合従軍に敗走し、金城鉄壁を誇る、堅牢なる要塞函谷関までの撤退を余儀なくされた。
次に経験した、前二百四一年の合従戦は、楚の春申君を総大将に据えた、河外の戦同様の五か国が手を組み、七十万を超える大軍勢が函谷関にまで迫った。
この頃、王翦は五十を目前として、燦然たる功績を積み重ね、大将軍に昇りつめていた。秦王の信倚も厚く、王翦は合従戦で総大将を務めた。結果、合従軍は不落の函谷関と、王翦の隙のない指揮に成す術なく、撤退を余儀なくされた。
一度目は、蒙鷔の麾下としての出師であったが、合従軍を函谷関で阻んだ以上、王翦は勝利と捉えている。二度、圧倒的な兵力を前に勝利したのだ。だがー。あの男は二度も、己の瑕疵なき戦功に疵をつけた。
初めて奴を戦場で目の当りにした時、軍神蚩尤を髣髴とさせた。河外の戦では、殿を務める、王翦軍三万にたった五百騎だけを率いて、特攻を仕掛けてきた。
何者の肉薄も許さない、統率の取れた布陣であった。だが、奴は策などなく、総身に迸る、激情に身を任せ、堅陣を破り、王翦の喉元まで迫った。
乱戦となった。撃金鳴鼓するなか、王翦は矛を手挟み、繰り出される項燕の一撃を受け止めた。
項燕の一撃は、天河を裂くほどの威力だった。受けた矛は砕かれた。人生の中で、一番に死を身近に感じた瞬間だった。
とどめとの一撃を繰り出される刹那、副官が一万率いて、救援に入った。確認するや否や、項燕は一瞥をくれて、颯と兵を退いた。初めての敗北。そして、満身を屈辱に満たされた。
二度目の函谷関の戦いでは、項燕への復讐を誓い、総大将として出陣した。項燕は楚の総大将としての出陣であったが、野戦で本領を発揮する彼に、攻城戦ともいえる、函谷関での戦いでは、あまりに出番はなかった。
王翦は撤退を余儀なくされる、合従軍を三重の楼閣の上から睥睨し、満腔の歓びを感じた。輝かしい経歴に瑕を付けた、項燕が悄然として、函谷関を去る姿は、王翦の自尊心を溢れんばかりに満たした。
だが、奴はありえない行動に出た。単騎で反転すると、函谷関の門前に馬をやり、楼閣の上にいる、王翦をきっと睨んだ。負け惜しみの捨て台詞を吐いていくものだと思った。
王翦は腕を組み、勝ち誇った笑みを浮かべ、視線をぶつけた。
すると、項燕は強弓に、箙から取り出した矢を番えた。秦兵のせせら笑う声が反響した。
王翦も哄笑する。
「見苦しいぞ。項燕」
内心で嘲る。大楯を持った兵士が、王翦の前に立った。
番えられた矢は、王翦に向けられている。
「置き土産だ」
野太い声が轟いたと同時に、矢が放たれた。雷鳴の如し音が鳴り響く。
瞬間。肌に疣が立った。矢はあろうことか、大楯を持った兵士の楯を砕いた。躰を貫いても勢いは止まらず、王翦の鎧甲に突き立った。矢は肉に到達する前に止まり、王翦は呆然と、自身の胸の辺りに突き立った、矢を眺めていた。腕前は一箭双雕。放たれた矢の威力は厚い悪金の板を貫くほどであった。
「次は命をもらう」
項燕は呵々大笑し、まるで勝者のように注目を浴びて去って行った。
後にも先にも、王翦が苦杯を舐めさせられたのは、項燕だけであった。その後、趙全土を平定し、北東の燕を平定するなど、軍人として赫赫たる功績を挙げたが、心は遂に晴れることはなかった。どれだけ功績を積んでも、項燕の姿が脳裏にちらついてくる。
王翦は仰臥しながら、心火するのを感じた。
楚で幽王が叛乱によって薨じ、百官達が擁立した負芻が立つと、項燕は将軍職を辞した。
項燕の退役を知った、王翦は老いた躰から血の気が引いていくのを感じた。己に恥辱を味わせた男への復讐の機会を永遠に失ったのである。
古代より天子や諸侯から愛される、高価な軟玉も瑕があっては、本来の価値を下げる。己の功績も軟玉のようなものである。そして、項燕に深い瑕を付けられた今となっては、本来あるべき輝きを失っている。
失意のなか王翦は退役を決意し、今は故郷の頻陽で余生を送っている。そうして無聊を慰めるように、就寝前に過去の戦場に想いを馳せ、記憶を改竄し、何万通りのやり方で項燕を殺す。
回顧が何かを解決してくれる訳では当然ない。だが、より近くに宿敵を感じることができる。項燕を憎みながら、歪んだ愛もある。この想いは誰にも分かるまい。分からなくてもいい。己と項燕の間柄は、第三者が介入できるほど、簡単なものではないのだ。
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