国殤(こくしょう)

松井暁彦

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一章 楚の英雄

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「ちっ。一人逃がしたか。まぁいい。蒙恬は、奴に任せるとしよう」
 項燕は麾下を制止させ、手挟む漆黒の鉄棍を、地に突き立てた。

「俺の首は、もう奪ったつもりかよ。じじい」
 一彪いっぴょうの軍馬が現れた。鞍上の若者は覇気が満ちた、気持ちの良い眼をしていた。

「お前が李信か、なるほど。血気は盛ん。尚武しょうぶを尊ぶ、秦王が好みそうな若者よ。しかし、口の利き方がなっておらんのう」
 項燕の口調は鷹揚であるが、総身からはすでに、千軍万馬せんぐんまんばの将に相応しい、圧倒的な武威が放たれている。

「黙れ。老い耄れ」

「老い耄れているか、どうか試してみるか」
 項燕は頭上で八十二斤(凡そ20キロ)にもなる、悪金の棍を軽々と回した。

「来い。じじい」
 二人の馬が、半馬身前に出た。
 
 麾下が続こうとするが、両者は制する。
 
 合図はなかった。放たれた気の先端が、空で触れ合った時、両者は同時に動いた。
 
 馳せ違う。一合、二合、三合。威力、速度は互角。
 
 馬が衝撃で離れる。李信が雄叫びと共に、馬を駆る。
 
 頭上から打ち込んで来る。力をいなす。
 
 棍を回し、空いた李信の脇腹に打ち込む。
 
 鐏で払われる。矛が回転。螺旋を描き、矛先が向かってくる。
 
 馬首を回す。馬体ごと躱す。
 
 間髪入れずに、項燕は流星の突きを繰り出す。
 
 李信は防ぐ。一撃―。すり抜けた。捉えたのは兜。
 
 舌を打った、李信。間合いを取った。

(浅薄な若造だが、力量だけは本物らしい)
 息が上がっていた。かつては、五刻は振り回し続けることができた、特注の棍が重い。

「苦しそうだな。じじい」
 李信には、疲れの色は見えない。「ふん。若い頃のわしなら、お前程度の若造、一撃で葬り去ることができたわ」

「敗け惜しみだな」
 額から玉のような汗が流れ出てくる。口惜しいが、体力ではもう若い者に敵わない。
 
 戦いが長引けば、圧倒的に不利なのは己なのである。しかし、項燕には、万を越える白刃を潜り抜けることで獲得した、豊富な経験と技がある。

(次で決めるか)
 項燕の意を悟ったのか、李信の気配が矛先に収斂していく。
 
 己にとって、この若者との闘いが、最後のものとなるだろう。
 
 掉尾とうびを飾るなら、因縁のあの男との闘いが良かったが、それは贅沢というものかもしれない。最後の戦場で血を滾らせた強者に巡り合わせてくれた、天に感謝するとしよう。

 素直に天への感謝の念を送ると、心が凪いだ。そして、全身を巡る血は熱を帯び、種火のように爆ぜていく。老いさらばえた躰が灼熱を帯び、壮年期の力を呼び覚ます。
 
 薙いだ棍。今はもう、鴻羽こううの如く軽い。
 
 李信と視線が交錯した。馬肚を蹴った。一撃で決まる。
 
 振り上げた棍。雷鳴のような音を立てて、李信の脳天へ向かう。
 
 李信は矛を構え防いだ。
 
 咆哮した。老いた己の底に残された、残滓ほどの余力を振り絞る。
 
 矛の柄が砕けた。抗う力が解けていく。
 
 もらった。

 瞬時に、李信は首を反らせた。棍は李信の右肩へ。
 
 骨が砕ける音が、棍を通して伝わる。
 
 苦悶の声。押し込む。全てを砕いてやる。
 
 刹那。李信は骨を砕かれながらも、左手で腰の剣を抜いた。
 
 斜めの斬撃。視界が朱の華に染まる。
 
 棍が落ちていく。そして、地に落ちた棍には、棍を握りしめたままの右手が。右臂から下は斬り落とされていた。
 
 眼の前の李信は、蒼白い顔で不敵に笑った。だが、力尽きたように、鞍から落ちた。
 
 傷口が燃えるように熱い。そして、同時に視界が閉ざされていく。

「父上!」
 二人の息子の声が重なる。
 
 躰が崩れていく。利き腕を死に体の若造に奪われた。最後の戦いと覚悟を決め、僅かに残されていた力を振り絞った。
 
 十代の頃から、戦場に立ち、散る時は戦場でと決めていた。悔いはないはずだった。だが、闇が浸食する意識の中で、浮かんできたのは、宿敵王翦おうせんの憎たらしい顔だった。
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