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一章 楚の英雄
四
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「ちっ。一人逃がしたか。まぁいい。蒙恬は、奴に任せるとしよう」
項燕は麾下を制止させ、手挟む漆黒の鉄棍を、地に突き立てた。
「俺の首は、もう奪ったつもりかよ。じじい」
一彪の軍馬が現れた。鞍上の若者は覇気が満ちた、気持ちの良い眼をしていた。
「お前が李信か、なるほど。血気は盛ん。尚武を尊ぶ、秦王が好みそうな若者よ。しかし、口の利き方がなっておらんのう」
項燕の口調は鷹揚であるが、総身からはすでに、千軍万馬の将に相応しい、圧倒的な武威が放たれている。
「黙れ。老い耄れ」
「老い耄れているか、どうか試してみるか」
項燕は頭上で八十二斤(凡そ20キロ)にもなる、悪金の棍を軽々と回した。
「来い。じじい」
二人の馬が、半馬身前に出た。
麾下が続こうとするが、両者は制する。
合図はなかった。放たれた気の先端が、空で触れ合った時、両者は同時に動いた。
馳せ違う。一合、二合、三合。威力、速度は互角。
馬が衝撃で離れる。李信が雄叫びと共に、馬を駆る。
頭上から打ち込んで来る。力をいなす。
棍を回し、空いた李信の脇腹に打ち込む。
鐏で払われる。矛が回転。螺旋を描き、矛先が向かってくる。
馬首を回す。馬体ごと躱す。
間髪入れずに、項燕は流星の突きを繰り出す。
李信は防ぐ。一撃―。すり抜けた。捉えたのは兜。
舌を打った、李信。間合いを取った。
(浅薄な若造だが、力量だけは本物らしい)
息が上がっていた。かつては、五刻は振り回し続けることができた、特注の棍が重い。
「苦しそうだな。じじい」
李信には、疲れの色は見えない。「ふん。若い頃のわしなら、お前程度の若造、一撃で葬り去ることができたわ」
「敗け惜しみだな」
額から玉のような汗が流れ出てくる。口惜しいが、体力ではもう若い者に敵わない。
戦いが長引けば、圧倒的に不利なのは己なのである。しかし、項燕には、万を越える白刃を潜り抜けることで獲得した、豊富な経験と技がある。
(次で決めるか)
項燕の意を悟ったのか、李信の気配が矛先に収斂していく。
己にとって、この若者との闘いが、最後のものとなるだろう。
掉尾を飾るなら、因縁のあの男との闘いが良かったが、それは贅沢というものかもしれない。最後の戦場で血を滾らせた強者に巡り合わせてくれた、天に感謝するとしよう。
素直に天への感謝の念を送ると、心が凪いだ。そして、全身を巡る血は熱を帯び、種火のように爆ぜていく。老いさらばえた躰が灼熱を帯び、壮年期の力を呼び覚ます。
薙いだ棍。今はもう、鴻羽の如く軽い。
李信と視線が交錯した。馬肚を蹴った。一撃で決まる。
振り上げた棍。雷鳴のような音を立てて、李信の脳天へ向かう。
李信は矛を構え防いだ。
咆哮した。老いた己の底に残された、残滓ほどの余力を振り絞る。
矛の柄が砕けた。抗う力が解けていく。
もらった。
瞬時に、李信は首を反らせた。棍は李信の右肩へ。
骨が砕ける音が、棍を通して伝わる。
苦悶の声。押し込む。全てを砕いてやる。
刹那。李信は骨を砕かれながらも、左手で腰の剣を抜いた。
斜めの斬撃。視界が朱の華に染まる。
棍が落ちていく。そして、地に落ちた棍には、棍を握りしめたままの右手が。右臂から下は斬り落とされていた。
眼の前の李信は、蒼白い顔で不敵に笑った。だが、力尽きたように、鞍から落ちた。
傷口が燃えるように熱い。そして、同時に視界が閉ざされていく。
「父上!」
二人の息子の声が重なる。
躰が崩れていく。利き腕を死に体の若造に奪われた。最後の戦いと覚悟を決め、僅かに残されていた力を振り絞った。
十代の頃から、戦場に立ち、散る時は戦場でと決めていた。悔いはないはずだった。だが、闇が浸食する意識の中で、浮かんできたのは、宿敵王翦の憎たらしい顔だった。
項燕は麾下を制止させ、手挟む漆黒の鉄棍を、地に突き立てた。
「俺の首は、もう奪ったつもりかよ。じじい」
一彪の軍馬が現れた。鞍上の若者は覇気が満ちた、気持ちの良い眼をしていた。
「お前が李信か、なるほど。血気は盛ん。尚武を尊ぶ、秦王が好みそうな若者よ。しかし、口の利き方がなっておらんのう」
項燕の口調は鷹揚であるが、総身からはすでに、千軍万馬の将に相応しい、圧倒的な武威が放たれている。
「黙れ。老い耄れ」
「老い耄れているか、どうか試してみるか」
項燕は頭上で八十二斤(凡そ20キロ)にもなる、悪金の棍を軽々と回した。
「来い。じじい」
二人の馬が、半馬身前に出た。
麾下が続こうとするが、両者は制する。
合図はなかった。放たれた気の先端が、空で触れ合った時、両者は同時に動いた。
馳せ違う。一合、二合、三合。威力、速度は互角。
馬が衝撃で離れる。李信が雄叫びと共に、馬を駆る。
頭上から打ち込んで来る。力をいなす。
棍を回し、空いた李信の脇腹に打ち込む。
鐏で払われる。矛が回転。螺旋を描き、矛先が向かってくる。
馬首を回す。馬体ごと躱す。
間髪入れずに、項燕は流星の突きを繰り出す。
李信は防ぐ。一撃―。すり抜けた。捉えたのは兜。
舌を打った、李信。間合いを取った。
(浅薄な若造だが、力量だけは本物らしい)
息が上がっていた。かつては、五刻は振り回し続けることができた、特注の棍が重い。
「苦しそうだな。じじい」
李信には、疲れの色は見えない。「ふん。若い頃のわしなら、お前程度の若造、一撃で葬り去ることができたわ」
「敗け惜しみだな」
額から玉のような汗が流れ出てくる。口惜しいが、体力ではもう若い者に敵わない。
戦いが長引けば、圧倒的に不利なのは己なのである。しかし、項燕には、万を越える白刃を潜り抜けることで獲得した、豊富な経験と技がある。
(次で決めるか)
項燕の意を悟ったのか、李信の気配が矛先に収斂していく。
己にとって、この若者との闘いが、最後のものとなるだろう。
掉尾を飾るなら、因縁のあの男との闘いが良かったが、それは贅沢というものかもしれない。最後の戦場で血を滾らせた強者に巡り合わせてくれた、天に感謝するとしよう。
素直に天への感謝の念を送ると、心が凪いだ。そして、全身を巡る血は熱を帯び、種火のように爆ぜていく。老いさらばえた躰が灼熱を帯び、壮年期の力を呼び覚ます。
薙いだ棍。今はもう、鴻羽の如く軽い。
李信と視線が交錯した。馬肚を蹴った。一撃で決まる。
振り上げた棍。雷鳴のような音を立てて、李信の脳天へ向かう。
李信は矛を構え防いだ。
咆哮した。老いた己の底に残された、残滓ほどの余力を振り絞る。
矛の柄が砕けた。抗う力が解けていく。
もらった。
瞬時に、李信は首を反らせた。棍は李信の右肩へ。
骨が砕ける音が、棍を通して伝わる。
苦悶の声。押し込む。全てを砕いてやる。
刹那。李信は骨を砕かれながらも、左手で腰の剣を抜いた。
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眼の前の李信は、蒼白い顔で不敵に笑った。だが、力尽きたように、鞍から落ちた。
傷口が燃えるように熱い。そして、同時に視界が閉ざされていく。
「父上!」
二人の息子の声が重なる。
躰が崩れていく。利き腕を死に体の若造に奪われた。最後の戦いと覚悟を決め、僅かに残されていた力を振り絞った。
十代の頃から、戦場に立ち、散る時は戦場でと決めていた。悔いはないはずだった。だが、闇が浸食する意識の中で、浮かんできたのは、宿敵王翦の憎たらしい顔だった。
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