楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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田斉

 四

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 連合軍は悉く、斉西の城邑を陥落させて行った。
 連合軍の総大将は、燕の楽毅。彼は帰順した、兵や民を厚く遇している。その噂は、瞬く間に斉全土に広まり、雲霞の如し大軍勢を前にした、斉の地方軍は、剣戟を捨て、帰順を選んだ。
 
 元々、斉の人民の心は王朝から離れていた。
 斉王が淫楽に耽り、蕩尽とうじんを重ねた事により、国庫は涸れた。国庫を満たす為、斉王は人民に重税を課した。人民は台榭うてなを高くし、権勢を誇るだけの斉王を見限ったのだ。
 
 一年も待たず、斉の西は連合軍に掌握された。現段階で陥落した、城邑は五十余城。総大将楽毅は二十万の軍勢を率いて、斉水を渡河し、昌国しょうこくを攻めた。
 
 昌国といえば、臨淄の西約百里の位置にある城邑である。二十万の大軍勢が、眼と鼻の先に布陣した訳である。連合軍の上将軍となった楽毅は、趙の恵文王から宰相の印綬を賜り、諸侯から信用を一心に集めた。

「見てみろ」
 具足を纏った、田単は姜施きょうしの傍らに立ち、歩墻ほしょうの上から延々と続く難民の列を見遣った。

「まずいな」
 一年をかけて連日のように、故郷を奪われた難民達が、安住の地を求めて、臨淄に押し寄せてきている。当初は、列に切れ間は見えたものの、今となっては一日を通して、難民の列は絶え間なく続いている。

「来てくれ」
 田単は姜施の腕を掴み、姜氏一族が隠れ蓑にしている、酒屋の倉に向かった。姜氏一族は、全員揃っていた。
 数は三十。情報収集の為、各地に散っていた、一族の者達が徐々に戻ってきている。

「頭領」
 田単は姜鵬牙きょうほうがの祖父に歩み寄る。
 太公望たいこうぼうの末裔によって構成される、闇の組織を姜氏党きょうしとうといい、姜鵬牙の祖父が頭を務めている。

「楽毅殿の策に隙はない。楽毅殿が昌国を奪った。今まで以上の難民が、臨淄に押し寄せくる」

「空恐ろしい男だ。斉の人民は、一様に臨淄の豊かさを知っている。だからこそ、臨淄に向かえば、生活は安堵されると思い込み、民は群れを成す」
 頭領が机に広げられた、帛の地図を見つめる。斉の西土の九割が、赤く塗料で塗りつぶされている。連合軍に奪われた領土を表している。

「ええ。楽毅殿は命を保障する代わりに、僅かな食糧を与え、臨淄に向かうように煽り立ているのでしょう。恐らく中に間者を潜ませ、臨淄に充分な備蓄があり、難民を手厚く迎えているなどと流言させているのだと思います。楽毅殿は臨淄の豊かさを、己の武器へと変えたのです」

「臨淄は限界に達している。城郭内は難民で溢れ、難民と元の住民達の間に軋轢も生じ始めている。食糧も難民達全員に行き渡らず、倉廩を襲おうとする者まで出てきている」言った姜鵬牙の顔は苦渋に満ちている。

「それだけじゃないわよ。高官共は自分可愛さに、商人達から大量に食糧を買い付けてる」
 言葉を継いだのは、姜鵬牙の妹の姜音きょうおんである。
 姜渚きょうしょという若者の死を悼み、泣き崩れた少女である。後で聞いた話では、彼女と姜渚は恋仲にあったという。そのせいか連合軍の話題になると、悲憤慷慨ひふんこうがいし、我を忘れることが多くある。

「今こそ一体となって、立ち向かうべきなのに」
 最早、憤怒もない。ただ人の醜さに絶望する。

「軍から脱走者が多数出ている。多くは官位のある将校達だ」
 姜施が告げる。姜施は田達でんたつと名を変え、軍の中枢に入り込んでいる為、軍部についての事情には明るい。

「腐っている」
 田単は唇を噛み締める。口腔内に錆の臭気が拡がる。顎に血が滴っていく。

「王朝は猖獗しょうけつを極め、溜まった膿は、破裂寸前の所まで来ている。だがツケを払うのは、賤しい官吏共ではない。全てを無辜の民が背負わなくてはならない」姜鵬牙は暗い声で告げた。

「楽毅の野郎は、臨淄の皆を互いに身食いさせようってわけ。だったら、白起並みの悪党ね」
 帛に描かれた、昌国の地に、姜音は小刀を突き立てた。彼女の眼は、蛇蝎だかつを見遣るような、狂気じみた赤い光が宿っている。

「違う。そうじゃない」
 田単は垂れた血を拭い、呟いた。

「どういう意味?」
 姜音は喧嘩腰に詰問きつもんする。

「僕は楽毅殿の弟弟子で、彼の人柄も知っている。だから分かる。楽毅殿は、僕に何かを伝えようとしている」

「はぁ?」
 意識を奥深くに。姜音が大口を開けて、何かを訴えかけてくるが、己の意識は今や核近くにある。
 兄弟子は暗に、何を伝えようとしているのか。このまま行けば、臨淄は許容範囲を越えた、難民で溢れ、後に連合に包囲され、飢餓に陥る。残された道は降伏。だが、傲慢な斉王が降伏を選ぶか。

(まさか)
 
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