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燕王
八
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噲は好機とばかりに躊躇なく、信任する子之に禅譲した。
だが、子之は王位を得ると、恬淡の皮を脱ぎ去った。朝廷を聾断し、後顧の憂いを払う為、太子や諸公子を誅殺する為、軍を起こした。
つまり、燕から正統なる王族の血胤を悉く滅ぼし、自らの血胤で染め上げようとしたのだ。噲はあろうことか、南面し政務を執る、子之に臣として仕えることを表明した。
太子や諸公子は一丸となって、子之へ対抗する為、兵を募った。当時、最前線で指揮を執っていたのが、まだ年端もいかない少年であった、現燕王ことー太子平。そして、太子・諸公子側に付いた、将軍市被である。
子之と太子平との戦が勃発する頃には、燕国内は既に困窮の極みになった。凡そ三年間による、子之の酷政により、民衆は困窮。子之一族の享楽の為に、税を取ること、収穫の九割にも及んだ。
凄惨な戦いだったという。子之の統治で、疲弊の極みにあった人民達は蜂起した、太子軍に光輝を見たが、何か月経過しても、決着は付かなかった。
やがて、内乱によって、各地の倉廩は空となり、双方の軍そのものが機能しなくなった。正に泥沼状態である。そんな時、太子平の元に救いの手が差し伸べられた。
斉の宣王からの使者がやって来たのである。使者が奉持した、書簡の内容はこうである。
「太子は大義名分の元、私情を廃し公事を捨てて、君臣の義理を慎み、父子の身分を明らかにしようと、無道の簒奪者子之と戦っておられます。寡人の国は小さく、非力で御座いますが、正道を行かれる太子に助力させて頂く所存でございます」山東の強国斉からとは思えない、終始遜った内容の文書であった。
無論、斉とて無償で助力を願い出た訳ではあるまい。大方、子之を共に討ち、総攬を治めた後には、救援の報酬として、土地の瓜分を求めてくるだろう。
斉王の黒い胸算用を、言葉のまま受け取るほど、若年の太子平は世間知らずではなかった。それでも、斉からの援軍の存在は有難い。たとえ、燕の領土半分を、斉に明け渡すことになったとしても、今は国内の騒擾を一刻も早く治め、疲弊した民衆に安寧を齎してやることが先決であると考えた。
斉からの救援を頼りに、太子平は乾坤一擲の攻撃に繰り出した。民衆を煽り、徒党を組み、将軍市被と共に、子之の公宮を囲んだ。
しかし、子之を守る王師は、王宮に蓄えた充分な食糧で鋭気充分であり、飢餓に苦しむ太子軍との鋭気とは、天と地の差ほどあった。
結果、太子軍は敗走。頼りにしていた、斉からの救援はなく、使者の往来も途絶えた。
太子平は見縊っていた。斉の宣王は、太子平の元に、援軍を送る気など毛頭もなかったのである。
斉王の狙いは、太子平を焚き付け、子之と大々的に衝突させること。
両軍が食らい合い、疲弊した頃合いを見計らい、斉王は章子に命じ、数万の兵を率いて、燕へと進軍した。
一方、戦に敗れ、僅かに残った兵を纏め、野に下った太子平を更なる窮地に立たされていた。あろうことか、将軍市被が太子平の首を献じ、子之に取り入ろうと裏切ったのである。
市被と太子平。僅かな手勢は真っ二つに割れ、かつての同胞達が殺し合った。市被は敗れ、太子平自らが首を刎ねた。徐々に太子平を慕う民衆が彼の元に集い、軍の様相を成し、子之と太子平は再び争った。
直後、斉の大軍勢が燕を襲った。内乱で乱れた国である。斉が燕を蹂躙するのは、筆を洗うが如く容易い。
斉王は燕侵攻の多くを、北方異民族から募った。之が燕にとって凶と出た。
蛮夷は抑されることを嫌う。燕を襲った軍に統率はなく、枯野に火を放つように、戦禍は拡がった。都邑は焼かれ、財は奪われ、男、老人、子供は悉く殺され、婦女子は凌辱された。燕の領土の半分以上が、焦土と化したのだ。
斉の侵攻により、軍を率いて迎え撃った、子之軍は遁走。都に逃げ帰るも、城兵は入城を峻拒。固く城門を閉ざされ、追撃を仕掛けた斉軍により、噲は討死。また、総大将である子之は逃げおおせたものの、後に捕らえられ、処断されている。
二年間、燕は斉の支配下に置かれ、隷属国となった。しかし、太子平が生き残っていた為、遺臣達は太子平を残破した燕の王に擁立した。
「蘇兄弟が動いたのだ」
一瀉千里一に凄惨な過去を語る燕王。眼はただ虚空を見つめている。
「蘇兄弟が?」
「今の斉王もそうだが、先代の宣王も意地に悪い男だった。俺が生きているのが明るみに出れば、斉王は俺を何としても殺そうとしただろう。だから、俺は斉の容喙によって、内乱が鎮まった後、平民に身を落として、姿を晦まし続けていた。
酷い暮らしだったさ。俺を囲ってくれた、農民達は自分達も、餓えているのにも関わらず、俺に食事を寄越してくれた。情けなかった。本来、彼等を守るべき立場にある、俺が彼等に庇護されていたのだから。二年後、遺臣達が俺を探し出した。
連中は俺を王に戴こうとしたが、斉王が許すはずもない。斉王は燕を本格的に併呑しようと動いていた。だが、蘇兄弟が斉王を諭した。兄弟は悔いていたのだ。
自分達が父王に説いた禅譲によって、燕国内が滅亡の憂き目にあったからだ。内乱が始まると、蘇兄弟は斉へ出奔した。俺は殺してやりたいくらいに恨んださ。
だが、蘇兄弟は斉王に、斉に深い怨恨を抱く燕国内を直接支配するよりも、傀儡の王を立て、影での支配の方に利があると説き伏せた。そして、俺は燕の王となった」
燕王は胡坐を解き、大きく息を吐いた。
「だが、当初は玉座についたものの、燕という国は形だけのものに成り下がっていた。斉への入朝を強いられ、有事の際には、与国としての出師も強要された。だが、宣王が死に、風向きが変わり始めた。宣王は俺達、燕の民にとっては仇であるが、斉の人民にとっては、英邁な君主であった。
しかし、次に即位した閔王は違う。自尊心が強いだけの暗愚だ。孟嘗君が国政を司っているから、斉という国は強勢を保っているものの、孟嘗君が居なければ、今の斉は脆い。僥倖なことに、斉王と孟嘗君の間には隙間風が吹いているという」
眼許に刻まれた皺は、酷薄なものだった。
「宣王の最大の失態は、俺を生かしたことだ。蘇秦は斉の地で、燕の間諜であることを疑われ散ったが、本望であっただろうな」
告げた燕王の表情から、惻隠は窺えない。少なからず、蘇兄弟へ含むものがあるのだろう。
「己の運命を嘆き、死を選ぶものは本当の意味で弱者だ。泥を啜り、汚穢に塗れたとて、艱難と向き合わなくてはならない。俺もお前もー。使命がある」
「使命ですか」
「中山の滅びと共に、お前が朽ち果てなかったのは、天が与えた意味があるからだと、俺は思う。例えば、俺とこうして出会う為だったとかな」
峻厳であった燕王の顔が朗らかになる。それは利星という侠人の顔であった。
「俺は斉を伐つ。その悲願の為に、恥に塗れても生き続けてきた。国を復興する為に、自らを貶め、師である郭隗の指示の元、貴賤問わず各地から賢者、勇者を招聘した」
回顧する。薊の殷賑を。人民は活気に溢れ、大通りに学者、音楽家、傭兵然とした多士済々の者達が集っていた。
「燕の都は私が巡った、どの国よりも栄えておりました」
楽毅の言葉に、燕王は衒いなく頷く。
「もう二度と、あのような悲劇を起こしてはならない。今、市井に溢れている笑顔を何としても守りたい。だからこそ、俺は利星を名乗り、時たま城郭に繰り出すのさ。
死者を弔い、孤児を慰問し、たまに城郭の連中と馬鹿騒ぎをする。小さくてもいい。そうやって、身近にある幸せを俺は人民と謳歌したいと思っている」
楽毅は己が感激で打ち震えているのを感じた。何という王の器か。中山を含め、三つの国に属した。しかし、人民と同じ目線になって、政を考える王が存在しただろうか。否である。
今、中国に君臨する王達は、こぞって己の覇を競う。だが、この王は違う。故郷を凌辱され、自らが地を這いつくばるよう苦境を味わったからこそ、民を芯根から思いやることができる。
しかしー。問わなくてならないことがある。怖くもある。この感激と淡い期待が、燕王の返答によっては、泡沫に帰す。
「斉を伐つのは、人民の為ですか?それともー」
楽毅は言葉を切った。燕王が語った言葉と想いは全て真実であろう。民を想う気持ちに雑念はない。
しかし、斉を恨む、暗い怨懣があるのも真実なのである。
王の気配が、もう一つの姿である利星の気配を抑える。
「斉は憎い。斉の民もろとも駆逐してやりたいと思っている。俺達が如何に苦しんだか、連中にも味あわせてやりたい」
燕王の茫洋とした双眸の中に、赤黒い瘴気が渦巻く。
期待が落胆に変わり、総身の震えは消えていく。
「だがー」
瘴気が光に吸い込まれていく。瞬間、燕王の眼には、澄明な光が宿った。
「怨懣で戦をやっていたのでは、いつまでも天下は匡されない。俺はこの世を一つに治める為に、斉―。いや違うな。全てを滅ぼす」
燕王が莞爾として笑った。
言葉に詰まる。言うは容易い。しかし、北の小国に過ぎない燕が、斉や秦といった、覇国を滅ぼすことなどー。
だが、燕王の眼差しに噓偽りはない。本気で天下の一匡を志しているのだ。
「確かに怨懣にのまれそうになった時もあった。しかし、心を黒く染めた俺は、毎晩ある夢を見た」
「夢ですか」
「ああ。千里を超える翼を持つ大鵬が、俺を背に乗せて空を翔ける。そんな夢だ」
「大鵬」
その言葉が、強く胸を締め付ける。
「大鵬の背から、見下ろす大地は天地から戦乱が消え、民は不羈であり、天地には境界なく治まっている」
遠い目で語る、燕王の顔は果てのない夢を見る、子供のように無邪気なものであった。
「俺は夢を天啓なのだと悟った。だからこそ、俺を泰平の世へと導く大鵬を探し出す為に、天下から人を招聘ている」
口の中は、異常なまでに乾いていた。鼓動が早鐘を打つ。
「その大鵬なる人物と巡り合うことはできたのでしょうか」
間があった。燕王の双眸が宝石のように煌めいている。
「ああ。巡り合えた。今、こうして。楽毅―。お前が俺の大鵬だ」
燕王には微塵の迷いもなかった。時が制止した。
悟る。俺はこの時を待っていたのだ。理屈などない。ただ心がー。戦人としての魂が燕王に仕えることを望んでいる。
「俺は確かに見た。お前の背に白き翼を」
これまで押し殺し続けていた感情が、決河の如く溢れだしてくる。
己を責難し続けてきた。平原君の元を去るも、魏では立身叶わず、ずっと付いてきてくれた、友に詫びる言葉すらなかった。報われない運命など思い定め始めていた。之は呪いなのだと。
国、主、父、仲間達と共に死にきれなかった、己への責め苦であるのだと。
眸が涙に滲む。双肩に背負った業が、解き放たれていく。
燕の言葉が、楽毅を救済した。
「大王様はこの乱れた世を正しく治める自信はおかりか」
涙を懸命に押しとどめ、楽毅は最後の言葉を絞り出した。
「ある。俺はこの無益な戦乱を終わらせる」
瞬間。二人の視界が豁然と開いた。
極目、拡がる蒼空。かつて楽毅は、地上から大鵬を仰いでいた。
しかし、今やその身はー。大鵬となり、背には風に髪を靡かせる燕王の姿があった。
やがて、意識が元に戻った時には、燕王は破顔していた。
「俺と共に戦ってくれ。楽毅」
楽毅の心に、少年時代抱いていたような、蒼い信念が蘇る。
「この翼で、大王を泰平へと導いてみせましょう」
楽毅は燕王に鋼の忠誠を誓った。之により、燕王は楽毅という金剛の劔を得て、名主としての名声が中国全土に光被することになる。
燕王は早々に、楽毅を軍事の総帥に置いた。
国内に激震が走った。爵位も官位も持たない、羇旅の士が、突如として軍政の頂点に立ったのである。
不満を抱く輩も多かった。しかし、楽毅は数年で燕軍を精強な軍へと造り変えた。
遺風を断ち、秦開、劇辛といった、猛将と共に、北方に遠征し、馬を奪い、胡服騎射を本格的に軍に取り入れたのである。中山、趙での経験が活きた。
楽毅が総帥となった後、北方異民族は徹底的に燕に討たれた。大鵬が描かれた蒼き旒を眼にするだけで、蛮夷の魂は戦慄した。
蛮夷を逼塞させ、水面下では、燕王の悲願である斉討伐の基盤が整いつつあった
数年後。一方斉では不穏な空気が国内に漂い始めていた。
だが、子之は王位を得ると、恬淡の皮を脱ぎ去った。朝廷を聾断し、後顧の憂いを払う為、太子や諸公子を誅殺する為、軍を起こした。
つまり、燕から正統なる王族の血胤を悉く滅ぼし、自らの血胤で染め上げようとしたのだ。噲はあろうことか、南面し政務を執る、子之に臣として仕えることを表明した。
太子や諸公子は一丸となって、子之へ対抗する為、兵を募った。当時、最前線で指揮を執っていたのが、まだ年端もいかない少年であった、現燕王ことー太子平。そして、太子・諸公子側に付いた、将軍市被である。
子之と太子平との戦が勃発する頃には、燕国内は既に困窮の極みになった。凡そ三年間による、子之の酷政により、民衆は困窮。子之一族の享楽の為に、税を取ること、収穫の九割にも及んだ。
凄惨な戦いだったという。子之の統治で、疲弊の極みにあった人民達は蜂起した、太子軍に光輝を見たが、何か月経過しても、決着は付かなかった。
やがて、内乱によって、各地の倉廩は空となり、双方の軍そのものが機能しなくなった。正に泥沼状態である。そんな時、太子平の元に救いの手が差し伸べられた。
斉の宣王からの使者がやって来たのである。使者が奉持した、書簡の内容はこうである。
「太子は大義名分の元、私情を廃し公事を捨てて、君臣の義理を慎み、父子の身分を明らかにしようと、無道の簒奪者子之と戦っておられます。寡人の国は小さく、非力で御座いますが、正道を行かれる太子に助力させて頂く所存でございます」山東の強国斉からとは思えない、終始遜った内容の文書であった。
無論、斉とて無償で助力を願い出た訳ではあるまい。大方、子之を共に討ち、総攬を治めた後には、救援の報酬として、土地の瓜分を求めてくるだろう。
斉王の黒い胸算用を、言葉のまま受け取るほど、若年の太子平は世間知らずではなかった。それでも、斉からの援軍の存在は有難い。たとえ、燕の領土半分を、斉に明け渡すことになったとしても、今は国内の騒擾を一刻も早く治め、疲弊した民衆に安寧を齎してやることが先決であると考えた。
斉からの救援を頼りに、太子平は乾坤一擲の攻撃に繰り出した。民衆を煽り、徒党を組み、将軍市被と共に、子之の公宮を囲んだ。
しかし、子之を守る王師は、王宮に蓄えた充分な食糧で鋭気充分であり、飢餓に苦しむ太子軍との鋭気とは、天と地の差ほどあった。
結果、太子軍は敗走。頼りにしていた、斉からの救援はなく、使者の往来も途絶えた。
太子平は見縊っていた。斉の宣王は、太子平の元に、援軍を送る気など毛頭もなかったのである。
斉王の狙いは、太子平を焚き付け、子之と大々的に衝突させること。
両軍が食らい合い、疲弊した頃合いを見計らい、斉王は章子に命じ、数万の兵を率いて、燕へと進軍した。
一方、戦に敗れ、僅かに残った兵を纏め、野に下った太子平を更なる窮地に立たされていた。あろうことか、将軍市被が太子平の首を献じ、子之に取り入ろうと裏切ったのである。
市被と太子平。僅かな手勢は真っ二つに割れ、かつての同胞達が殺し合った。市被は敗れ、太子平自らが首を刎ねた。徐々に太子平を慕う民衆が彼の元に集い、軍の様相を成し、子之と太子平は再び争った。
直後、斉の大軍勢が燕を襲った。内乱で乱れた国である。斉が燕を蹂躙するのは、筆を洗うが如く容易い。
斉王は燕侵攻の多くを、北方異民族から募った。之が燕にとって凶と出た。
蛮夷は抑されることを嫌う。燕を襲った軍に統率はなく、枯野に火を放つように、戦禍は拡がった。都邑は焼かれ、財は奪われ、男、老人、子供は悉く殺され、婦女子は凌辱された。燕の領土の半分以上が、焦土と化したのだ。
斉の侵攻により、軍を率いて迎え撃った、子之軍は遁走。都に逃げ帰るも、城兵は入城を峻拒。固く城門を閉ざされ、追撃を仕掛けた斉軍により、噲は討死。また、総大将である子之は逃げおおせたものの、後に捕らえられ、処断されている。
二年間、燕は斉の支配下に置かれ、隷属国となった。しかし、太子平が生き残っていた為、遺臣達は太子平を残破した燕の王に擁立した。
「蘇兄弟が動いたのだ」
一瀉千里一に凄惨な過去を語る燕王。眼はただ虚空を見つめている。
「蘇兄弟が?」
「今の斉王もそうだが、先代の宣王も意地に悪い男だった。俺が生きているのが明るみに出れば、斉王は俺を何としても殺そうとしただろう。だから、俺は斉の容喙によって、内乱が鎮まった後、平民に身を落として、姿を晦まし続けていた。
酷い暮らしだったさ。俺を囲ってくれた、農民達は自分達も、餓えているのにも関わらず、俺に食事を寄越してくれた。情けなかった。本来、彼等を守るべき立場にある、俺が彼等に庇護されていたのだから。二年後、遺臣達が俺を探し出した。
連中は俺を王に戴こうとしたが、斉王が許すはずもない。斉王は燕を本格的に併呑しようと動いていた。だが、蘇兄弟が斉王を諭した。兄弟は悔いていたのだ。
自分達が父王に説いた禅譲によって、燕国内が滅亡の憂き目にあったからだ。内乱が始まると、蘇兄弟は斉へ出奔した。俺は殺してやりたいくらいに恨んださ。
だが、蘇兄弟は斉王に、斉に深い怨恨を抱く燕国内を直接支配するよりも、傀儡の王を立て、影での支配の方に利があると説き伏せた。そして、俺は燕の王となった」
燕王は胡坐を解き、大きく息を吐いた。
「だが、当初は玉座についたものの、燕という国は形だけのものに成り下がっていた。斉への入朝を強いられ、有事の際には、与国としての出師も強要された。だが、宣王が死に、風向きが変わり始めた。宣王は俺達、燕の民にとっては仇であるが、斉の人民にとっては、英邁な君主であった。
しかし、次に即位した閔王は違う。自尊心が強いだけの暗愚だ。孟嘗君が国政を司っているから、斉という国は強勢を保っているものの、孟嘗君が居なければ、今の斉は脆い。僥倖なことに、斉王と孟嘗君の間には隙間風が吹いているという」
眼許に刻まれた皺は、酷薄なものだった。
「宣王の最大の失態は、俺を生かしたことだ。蘇秦は斉の地で、燕の間諜であることを疑われ散ったが、本望であっただろうな」
告げた燕王の表情から、惻隠は窺えない。少なからず、蘇兄弟へ含むものがあるのだろう。
「己の運命を嘆き、死を選ぶものは本当の意味で弱者だ。泥を啜り、汚穢に塗れたとて、艱難と向き合わなくてはならない。俺もお前もー。使命がある」
「使命ですか」
「中山の滅びと共に、お前が朽ち果てなかったのは、天が与えた意味があるからだと、俺は思う。例えば、俺とこうして出会う為だったとかな」
峻厳であった燕王の顔が朗らかになる。それは利星という侠人の顔であった。
「俺は斉を伐つ。その悲願の為に、恥に塗れても生き続けてきた。国を復興する為に、自らを貶め、師である郭隗の指示の元、貴賤問わず各地から賢者、勇者を招聘した」
回顧する。薊の殷賑を。人民は活気に溢れ、大通りに学者、音楽家、傭兵然とした多士済々の者達が集っていた。
「燕の都は私が巡った、どの国よりも栄えておりました」
楽毅の言葉に、燕王は衒いなく頷く。
「もう二度と、あのような悲劇を起こしてはならない。今、市井に溢れている笑顔を何としても守りたい。だからこそ、俺は利星を名乗り、時たま城郭に繰り出すのさ。
死者を弔い、孤児を慰問し、たまに城郭の連中と馬鹿騒ぎをする。小さくてもいい。そうやって、身近にある幸せを俺は人民と謳歌したいと思っている」
楽毅は己が感激で打ち震えているのを感じた。何という王の器か。中山を含め、三つの国に属した。しかし、人民と同じ目線になって、政を考える王が存在しただろうか。否である。
今、中国に君臨する王達は、こぞって己の覇を競う。だが、この王は違う。故郷を凌辱され、自らが地を這いつくばるよう苦境を味わったからこそ、民を芯根から思いやることができる。
しかしー。問わなくてならないことがある。怖くもある。この感激と淡い期待が、燕王の返答によっては、泡沫に帰す。
「斉を伐つのは、人民の為ですか?それともー」
楽毅は言葉を切った。燕王が語った言葉と想いは全て真実であろう。民を想う気持ちに雑念はない。
しかし、斉を恨む、暗い怨懣があるのも真実なのである。
王の気配が、もう一つの姿である利星の気配を抑える。
「斉は憎い。斉の民もろとも駆逐してやりたいと思っている。俺達が如何に苦しんだか、連中にも味あわせてやりたい」
燕王の茫洋とした双眸の中に、赤黒い瘴気が渦巻く。
期待が落胆に変わり、総身の震えは消えていく。
「だがー」
瘴気が光に吸い込まれていく。瞬間、燕王の眼には、澄明な光が宿った。
「怨懣で戦をやっていたのでは、いつまでも天下は匡されない。俺はこの世を一つに治める為に、斉―。いや違うな。全てを滅ぼす」
燕王が莞爾として笑った。
言葉に詰まる。言うは容易い。しかし、北の小国に過ぎない燕が、斉や秦といった、覇国を滅ぼすことなどー。
だが、燕王の眼差しに噓偽りはない。本気で天下の一匡を志しているのだ。
「確かに怨懣にのまれそうになった時もあった。しかし、心を黒く染めた俺は、毎晩ある夢を見た」
「夢ですか」
「ああ。千里を超える翼を持つ大鵬が、俺を背に乗せて空を翔ける。そんな夢だ」
「大鵬」
その言葉が、強く胸を締め付ける。
「大鵬の背から、見下ろす大地は天地から戦乱が消え、民は不羈であり、天地には境界なく治まっている」
遠い目で語る、燕王の顔は果てのない夢を見る、子供のように無邪気なものであった。
「俺は夢を天啓なのだと悟った。だからこそ、俺を泰平の世へと導く大鵬を探し出す為に、天下から人を招聘ている」
口の中は、異常なまでに乾いていた。鼓動が早鐘を打つ。
「その大鵬なる人物と巡り合うことはできたのでしょうか」
間があった。燕王の双眸が宝石のように煌めいている。
「ああ。巡り合えた。今、こうして。楽毅―。お前が俺の大鵬だ」
燕王には微塵の迷いもなかった。時が制止した。
悟る。俺はこの時を待っていたのだ。理屈などない。ただ心がー。戦人としての魂が燕王に仕えることを望んでいる。
「俺は確かに見た。お前の背に白き翼を」
これまで押し殺し続けていた感情が、決河の如く溢れだしてくる。
己を責難し続けてきた。平原君の元を去るも、魏では立身叶わず、ずっと付いてきてくれた、友に詫びる言葉すらなかった。報われない運命など思い定め始めていた。之は呪いなのだと。
国、主、父、仲間達と共に死にきれなかった、己への責め苦であるのだと。
眸が涙に滲む。双肩に背負った業が、解き放たれていく。
燕の言葉が、楽毅を救済した。
「大王様はこの乱れた世を正しく治める自信はおかりか」
涙を懸命に押しとどめ、楽毅は最後の言葉を絞り出した。
「ある。俺はこの無益な戦乱を終わらせる」
瞬間。二人の視界が豁然と開いた。
極目、拡がる蒼空。かつて楽毅は、地上から大鵬を仰いでいた。
しかし、今やその身はー。大鵬となり、背には風に髪を靡かせる燕王の姿があった。
やがて、意識が元に戻った時には、燕王は破顔していた。
「俺と共に戦ってくれ。楽毅」
楽毅の心に、少年時代抱いていたような、蒼い信念が蘇る。
「この翼で、大王を泰平へと導いてみせましょう」
楽毅は燕王に鋼の忠誠を誓った。之により、燕王は楽毅という金剛の劔を得て、名主としての名声が中国全土に光被することになる。
燕王は早々に、楽毅を軍事の総帥に置いた。
国内に激震が走った。爵位も官位も持たない、羇旅の士が、突如として軍政の頂点に立ったのである。
不満を抱く輩も多かった。しかし、楽毅は数年で燕軍を精強な軍へと造り変えた。
遺風を断ち、秦開、劇辛といった、猛将と共に、北方に遠征し、馬を奪い、胡服騎射を本格的に軍に取り入れたのである。中山、趙での経験が活きた。
楽毅が総帥となった後、北方異民族は徹底的に燕に討たれた。大鵬が描かれた蒼き旒を眼にするだけで、蛮夷の魂は戦慄した。
蛮夷を逼塞させ、水面下では、燕王の悲願である斉討伐の基盤が整いつつあった
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焔の牡丹
水城真以
歴史・時代
「思い出乞ひわずらい」の続きです。先にそちらをお読みになってから閲覧よろしくお願いします。
織田信長の嫡男として、正室・帰蝶の養子となっている奇妙丸。ある日、かねてより伏せていた実母・吉乃が病により世を去ったとの報せが届く。当然嫡男として実母の喪主を務められると思っていた奇妙丸だったが、信長から「喪主は弟の茶筅丸に任せる」との決定を告げられ……。
忍者同心 服部文蔵
大澤伝兵衛
歴史・時代
八代将軍徳川吉宗の時代、服部文蔵という武士がいた。
服部という名ではあるが有名な服部半蔵の血筋とは一切関係が無く、本人も忍者ではない。だが、とある事件での活躍で有名になり、江戸中から忍者と話題になり、評判を聞きつけた町奉行から同心として採用される事になる。
忍者同心の誕生である。
だが、忍者ではない文蔵が忍者と呼ばれる事を、伊賀、甲賀忍者の末裔たちが面白く思わず、事あるごとに文蔵に喧嘩を仕掛けて来る事に。
それに、江戸を騒がす数々の事件が起き、どうやら文蔵の過去と関りが……
真田源三郎の休日
神光寺かをり
歴史・時代
信濃の小さな国衆(豪族)に過ぎない真田家は、甲斐の一大勢力・武田家の庇護のもと、どうにかこうにか生きていた。
……のだが、頼りの武田家が滅亡した!
家名存続のため、真田家当主・昌幸が選んだのは、なんと武田家を滅ぼした織田信長への従属!
ところがところが、速攻で本能寺の変が発生、織田信長は死亡してしまう。
こちらの選択によっては、真田家は――そして信州・甲州・上州の諸家は――あっという間に滅亡しかねない。
そして信之自身、最近出来たばかりの親友と槍を合わせることになる可能性が出てきた。
16歳の少年はこの連続ピンチを無事に乗り越えられるのか?
仏の顔
akira
歴史・時代
江戸時代
宿場町の廓で売れっ子芸者だったある女のお話
唄よし三味よし踊りよし、オマケに器量もよしと人気は当然だったが、ある旦那に身受けされ店を出る
幸せに暮らしていたが数年ももたず親ほど年の離れた亭主は他界、忽然と姿を消していたその女はある日ふらっと帰ってくる……
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