楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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平原君 

 四

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  秦は函谷関かんこくかんに三十万余りの軍を集結させていた。函谷関は秦が誇る、金城鉄壁の関所である。左右を屹立きつりつした山脈に囲まれた険阻けんそな立地に築かれた、函谷関は正に攻めにくく、守り易い要塞。秦が三十万を繰り出して来るのならば、合従軍は倍以上の兵力が必要になる。
 
 平原君を総指揮官に据えた、趙軍五万はやや南下し、曲折の道が延々と続く、羊腸坂ようちょうざかを抜けた。
 
 これより先は魏の領土に踏み込むことになるが、同盟国の為、行軍を続けることができる。魏領を進むこと数日。北から迂回してきた、中山の三万が合流した。中山国の軍といっても、趙全域を統治する主父の命で無理矢理に搔き集められた、亡国の民である。
 
 安陽君の悪政が尚も続いているせいか、中山兵には一様に、まるで魂が抜け落ちたかのように鋭気がない。
 兵農分離へいのうぶんり標榜ひょうぼうされていない時代である。戦時では強制的に徴兵される。しかし、彼等の本分は農耕にある。徴兵されるのは壮丁そうてい(十五歳~六十歳)の男子であるから、農家にとって、彼等は貴重な働き手である。

 働き手を徴兵によって失えば、田畑を耕すことができず、実りは少なくなる。趙の本土では信賞必罰しんしょうひつばつは、それなりに徹底されていて、戦功を挙げれば、恩賞が期待できるのだから、本土から徴兵された兵士達の鋭気は満ちている。
 
 しかし、亡国の民は違う。彼等は安陽君の支配下にあり、奴隷に近い扱いを受けている。濫費らんぴを尽くすだけの、吝嗇けちな安陽君が、民に施しを与えるとは思えない。いわば、彼等は死に兵なのである。
 
 楽毅は彼等にかけてやれる言葉も持たない。ただ強く瞼を閉じて、せめて苦しまないように死んでいくのを願うしかできない。無能な己を、とことん呪いたくなる。

(安陽君を討てば、少しは彼等の暮らし向きも変わるかもしれない)
 残滓ざんしほどに残された信念に沿って、剣を執る決意をしたが、結果として中山の民が一人でも多く救われるのならば、平原君に付く価値は充分にあるかもしれない。
 
 一行は魏領をひたすらに西進し、いよいよ韓の北方の地である、上党じょうとうに達した。上党は三晋に隣接する、韓の要衝で、民の往来も盛んなことから、大いに栄えている。

 秦が上党を得ることになれば、三晋は喉元に匕首あいくちを突き付けられた格好になる。韓だけでなく、趙、魏にとっても軍事的に強い意味合いを持つ。
 
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