31 / 140
平原君
四
しおりを挟む
秦は函谷関に三十万余りの軍を集結させていた。函谷関は秦が誇る、金城鉄壁の関所である。左右を屹立した山脈に囲まれた険阻な立地に築かれた、函谷関は正に攻めにくく、守り易い要塞。秦が三十万を繰り出して来るのならば、合従軍は倍以上の兵力が必要になる。
平原君を総指揮官に据えた、趙軍五万はやや南下し、曲折の道が延々と続く、羊腸坂を抜けた。
これより先は魏の領土に踏み込むことになるが、同盟国の為、行軍を続けることができる。魏領を進むこと数日。北から迂回してきた、中山の三万が合流した。中山国の軍といっても、趙全域を統治する主父の命で無理矢理に搔き集められた、亡国の民である。
安陽君の悪政が尚も続いているせいか、中山兵には一様に、まるで魂が抜け落ちたかのように鋭気がない。
兵農分離が標榜されていない時代である。戦時では強制的に徴兵される。しかし、彼等の本分は農耕にある。徴兵されるのは壮丁(十五歳~六十歳)の男子であるから、農家にとって、彼等は貴重な働き手である。
働き手を徴兵によって失えば、田畑を耕すことができず、実りは少なくなる。趙の本土では信賞必罰は、それなりに徹底されていて、戦功を挙げれば、恩賞が期待できるのだから、本土から徴兵された兵士達の鋭気は満ちている。
しかし、亡国の民は違う。彼等は安陽君の支配下にあり、奴隷に近い扱いを受けている。濫費を尽くすだけの、吝嗇な安陽君が、民に施しを与えるとは思えない。いわば、彼等は死に兵なのである。
楽毅は彼等にかけてやれる言葉も持たない。ただ強く瞼を閉じて、せめて苦しまないように死んでいくのを願うしかできない。無能な己を、とことん呪いたくなる。
(安陽君を討てば、少しは彼等の暮らし向きも変わるかもしれない)
残滓ほどに残された信念に沿って、剣を執る決意をしたが、結果として中山の民が一人でも多く救われるのならば、平原君に付く価値は充分にあるかもしれない。
一行は魏領をひたすらに西進し、いよいよ韓の北方の地である、上党に達した。上党は三晋に隣接する、韓の要衝で、民の往来も盛んなことから、大いに栄えている。
秦が上党を得ることになれば、三晋は喉元に匕首を突き付けられた格好になる。韓だけでなく、趙、魏にとっても軍事的に強い意味合いを持つ。
平原君を総指揮官に据えた、趙軍五万はやや南下し、曲折の道が延々と続く、羊腸坂を抜けた。
これより先は魏の領土に踏み込むことになるが、同盟国の為、行軍を続けることができる。魏領を進むこと数日。北から迂回してきた、中山の三万が合流した。中山国の軍といっても、趙全域を統治する主父の命で無理矢理に搔き集められた、亡国の民である。
安陽君の悪政が尚も続いているせいか、中山兵には一様に、まるで魂が抜け落ちたかのように鋭気がない。
兵農分離が標榜されていない時代である。戦時では強制的に徴兵される。しかし、彼等の本分は農耕にある。徴兵されるのは壮丁(十五歳~六十歳)の男子であるから、農家にとって、彼等は貴重な働き手である。
働き手を徴兵によって失えば、田畑を耕すことができず、実りは少なくなる。趙の本土では信賞必罰は、それなりに徹底されていて、戦功を挙げれば、恩賞が期待できるのだから、本土から徴兵された兵士達の鋭気は満ちている。
しかし、亡国の民は違う。彼等は安陽君の支配下にあり、奴隷に近い扱いを受けている。濫費を尽くすだけの、吝嗇な安陽君が、民に施しを与えるとは思えない。いわば、彼等は死に兵なのである。
楽毅は彼等にかけてやれる言葉も持たない。ただ強く瞼を閉じて、せめて苦しまないように死んでいくのを願うしかできない。無能な己を、とことん呪いたくなる。
(安陽君を討てば、少しは彼等の暮らし向きも変わるかもしれない)
残滓ほどに残された信念に沿って、剣を執る決意をしたが、結果として中山の民が一人でも多く救われるのならば、平原君に付く価値は充分にあるかもしれない。
一行は魏領をひたすらに西進し、いよいよ韓の北方の地である、上党に達した。上党は三晋に隣接する、韓の要衝で、民の往来も盛んなことから、大いに栄えている。
秦が上党を得ることになれば、三晋は喉元に匕首を突き付けられた格好になる。韓だけでなく、趙、魏にとっても軍事的に強い意味合いを持つ。
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
黒き猫
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
明治四十三年、代々木に住む日本画家・菱田春草は思い悩んでいた。病により眼がよく見えなくなり、展覧会へ出す画が描けない――と。
よく見えなくとも、描かなくてはと懊悩する春草は、近隣の代々木――武蔵野の背景にした画を描くことを思いつく。
そして題材――モデルは、親友・横山大観の協力を得て借りて来た、黒き猫。
のちに名作として知られる画を描くため――春草は筆を握った。
【完結】敵は恐山にあり!?
十文字心
歴史・時代
出てくる皆が主人公!
幸せに暮らしていたある地方領主の娘である灘姫。突然味方の裏切りに会い城と家族を無くし、敵に誘拐されてしまいます。生き残ったくノ一、弥生とともに茶屋へと潜入し、自国を滅亡へと陥れた敵国の情報を探っていると、事はただの領土争いではなく非常に複雑な展開を迎えます。
敵は恐山にあり!?
六月は21時頃更新予定です。
第八回歴史時代小説大賞
エントリー作品。
(旧タイトル灘姫は新月と共に)
主な登場人物
【灘姫】
羽後にある曉国の姫。両親を殺され、裏切者に捕えられるが逃げだすことに成功。忍頭の言葉を頼りに旅に出る。容姿端麗で頭脳明晰な完璧美女。
【弥生】
灘姫の侍女兼護衛。
裏切者から逃げ出した灘姫に再会し
一緒に旅に出る。
運動神経抜群のくノ一。
【弥助】
城の忍部隊の中堅。
兄弟子に師匠を殺され自信喪失。
師匠より預かった巻物と遺言を頼りに
灘姫を探す旅に出る。
【左京】
灘姫を連れ去った忍。
姫を解放した後行方不明。
【才蔵】
弥助と弥生が幼き頃より親代わりとして育ててくれた、暁国の忍頭。
【風魔小太郎】
弥助の師匠である、才蔵の師匠。
師匠を亡くした弥助の手助けを
してくれる心優しき翁。
【猿飛佐助】
弥助、弥生の実の父親。
才蔵とは幼なじみであるが
性格は正反対の孤高の忍者。
己の利益のみを考えて動く。
※本編は予告なく加筆修正します。
本作の中の国名は架空です。
款冬姫恋草子 ~鬼神が愛す、唯一の白き花~
ささゆき細雪
歴史・時代
鬼神と名乗る武将・木曽義仲 × 彼の正室になったワケあり姫君
悲劇的な運命を、愛のちからで切り開く!
ときは平安末期、京都。
親しくなるとそのひとは死んでしまう――そんな鬼に呪われた姫君としておそれられていた少女を見初めたのは、自ら「鬼神」と名乗る男、木曽義仲だった。
彼にさらわれるように幽閉されていた邸を抜けた彼女は彼から新たに「小子(ちいさこ)」という名前をもらうが、その名を呼んでいいのは義仲ただひとり。
仲間たちからは款冬姫と呼ばれるように。
大切にされているのは理解できる。
けれど、なぜ義仲はそこまでして自分を求めるの?
おまけに、反逆者として追われている身の上だった?
これもまた、小子の持つ呪いのせい?
戸惑いながらも小さき姫君は呪いの真相に挑んでいく。
恋しい義仲とその仲間たちに見守られながら。
これは、鬼神とおそれられた木曽義仲に愛された呪われた姫君が、ふたりで絶望の先にあるしあわせを手にいれるまでの物語。
匂款冬(においかんとう、ヘリオトロープ)の花言葉は「献身的な愛」
鬼神にとっての唯一の白き花である少女との運命的な恋を、楽しんでいただけると幸いです。
三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河
墨笑
歴史・時代
『家族愛と人の心』『個性と社会性』をテーマにした三国志の大河小説です。
三国志を知らない方も楽しんでいただけるよう意識して書きました。
全体の文量はかなり多いのですが、半分以上は様々な人物を中心にした短編・中編の集まりです。
本編がちょっと長いので、お試しで読まれる方は後ろの方の短編・中編から読んでいただいても良いと思います。
おすすめは『小覇王の暗殺者(ep.216)』『呂布の娘の嫁入り噺(ep.239)』『段煨(ep.285)』あたりです。
本編では蜀において諸葛亮孔明に次ぐ官職を務めた許靖という人物を取り上げています。
戦乱に翻弄され、中国各地を放浪する波乱万丈の人生を送りました。
歴史ものとはいえ軽めに書いていますので、歴史が苦手、三国志を知らないという方でもぜひお気軽にお読みください。
※人名が分かりづらくなるのを避けるため、アザナは一切使わないことにしました。ご了承ください。
※切りのいい時には完結設定になっていますが、三国志小説の執筆は私のライフワークです。生きている限り話を追加し続けていくつもりですので、ブックマークしておいていただけると幸いです。
池田戦記ー池田恒興・青年編ー信長が最も愛した漢
林走涼司(はばしり りょうじ)
歴史・時代
天文5年(1536)尾張国の侍長屋で、産声を上げた池田勝三郎は、戦で重傷を負い余命を待つだけの父、利恒と、勝三郎を生んだばかりの母、お福を囲んで、今後の身の振り方を決めるため利恒の兄、滝川一勝、上役の森寺秀勝が額を付き合わせている。
利恒の上司、森寺秀勝の提案は、お福に、主、織田信秀の嫡男吉法師の乳母になることだった……。
(完結)だったら、そちらと結婚したらいいでしょう?
青空一夏
恋愛
エレノアは美しく気高い公爵令嬢。彼女が婚約者に選んだのは、誰もが驚く相手――冴えない平民のデラノだった。太っていて吹き出物だらけ、クラスメイトにバカにされるような彼だったが、エレノアはそんなデラノに同情し、彼を変えようと決意する。
エレノアの尽力により、デラノは見違えるほど格好良く変身し、学園の女子たちから憧れの存在となる。彼女の用意した特別な食事や、励ましの言葉に支えられ、自信をつけたデラノ。しかし、彼の心は次第に傲慢に変わっていく・・・・・・
エレノアの献身を忘れ、身分の差にあぐらをかきはじめるデラノ。そんな彼に待っていたのは・・・・・・
※異世界、ゆるふわ設定。
大絶滅 2億年後 -原付でエルフの村にやって来た勇者たち-
半道海豚
SF
200万年後の姉妹編です。2億年後への移住は、誰もが思いもよらない結果になってしまいました。推定2億人の移住者は、1年2カ月の間に2億年後へと旅立ちました。移住者2億人は11万6666年という長い期間にばらまかれてしまいます。結果、移住者個々が独自に生き残りを目指さなくてはならなくなります。本稿は、移住最終期に2億年後へと旅だった5人の少年少女の奮闘を描きます。彼らはなんと、2億年後の移動手段に原付を選びます。
孤児が皇后陛下と呼ばれるまで
香月みまり
ファンタジー
母を亡くして天涯孤独となり、王都へ向かう苓。
目的のために王都へ向かう孤児の青年、周と陸
3人の出会いは世界を巻き込む波乱の序章だった。
「後宮の棘」のスピンオフですが、読んだことのない方でも楽しんでいただけるように書かせていただいております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる