楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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平原君 

 二

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 楽毅達は平原君の居室から退出した。

「出陣は二か月後か」 魏竜の口調は弾んでいる。
 複雑な想いはある。祖国を滅ぼした、趙軍の参謀としての従軍なのである。

 軍人として陽の光にあたることを望む己と、亡国の臣として朽ちていくことを運命さだめと受け入れ始めている、己が相剋する。

「おう。お前等も帰ってたのか」
 馴染みのあるしわぶき声が母屋の堂間に轟く。

「廉頗か」
 楽毅は露骨に顔を背けた。
 
 鍾馗面しょうきづらに笑みを浮かべ、大手を振って、歩み寄ってくる。その傍らには、彼の副官を務める、従兄の楽乗がくじょうの姿がある。楽乗は中山攻略戦で、唯一生き残った肉親である。捕虜となったが、帰順を許され、趙軍の将として仕えている。今は廉頗の将器に魅了され、忠実な副官に成り下がっている。

「長城の守禦を任されていたはずだろ」
 楽毅はぶっきらぼうに告げる。

「うるさい蛮族共はあらかた片付けたからな」
 言った廉頗の顔には、幾つもの浅い斬痕が走っている。

「当分の間、お前の顔を見ずに済むと安堵していたのだが」
 廉頗の太い二の腕が、楽毅の首に回って来る。

「触るな。馴れ馴れしい」

「まぁ。そう言うなって。俺が恋しかったんだろ」

「誰が!」
 むきになって、掴みかかろうとすると、巨人のような図体でさらりと躱す。大抵の場合、司馬炎と魏竜は二人のやりとりを眺めていることが多い。この二人も将校の中で廉頗にだけは、心を許している気配がある。
 
 確かに廉頗には悪意というものがまるでない。気持ちの良い男ではある。しかし、廉頗の一騎討ちの結果が、運命の分かれ道となったことも事実だ。己への責難が、廉頗と馴れ合うことを許さない。

「それより聞いたか」

「何が?」
 大きい顔が息のかかる距離まで近づく。

「合従軍の話だよ」

「ああ」
 廉頗は平原君の居室の方に眼を遣り、「なるほど」と頷いた。

「それとな。もう一つ」
 急に声の調子を落とした。

「どうもきな臭い噂が漂っている」

「きな臭い噂?」

「ああ。安陽君と博役の田不礼でんぶれいが、流れの商人共から大量の武器を買い付けているらしい」

「まさか」
 廉頗が眼を眇める。

「狙いは趙王の弑逆しいぎゃくだろうな」
 固唾を飲む。
 主父の御気色みけしきが薄れたことによって、廃嫡された公子章こと安陽君は、心中不服だったと聞く。廃嫡され弟に屈することとなった、安陽君の心中を慮れば、当然不服はあるだろう。
 
 しかし、安陽君にも問題がなかった訳ではない。
 以前より、安陽君は太子の立場を利用して、日々、狂宴濫行きょうえんらんぎょうを繰り返していた。   
 また性質は極めて強壮で驕慢。博役の田不礼からも良い噂は聞かない。

「大胆なことを考えるものだ」 
 楽毅の口調は軽い。
 王の背後には、政治を仕切っている、主父の存在がある。あの男なら、廉頗程度が掴んでいる情報など、既に入手しているだろう。安陽君の謀反が成功に終わるとは、到底思えない。

「それがな」
 闊達な廉頗が、珍しく言い淀む。

「主父は安陽君を酷く憐れんでおられる」

「はっ?」

「安陽君はなかなかの役者でな。主父の前では、それとなく潮垂れた顔を見せたりするのだ」

「まさか、主父は己で安陽君を廃嫡しておいて、後悔しているというのか」

「大王様の母君が亡くなってからは、主父の愛情も大王様に向けられることは少なくなった」
 廉頗の大きな両肩が落ちる。
 彼にとって、主父は師であり、育ての親のようなものだ。
 兵事では武神の如く、果敢であり勇猛な主父であるが、内政では対照的に、朝令暮改ちょうれいぼかいを繰り返す。以前から危うい二面性を持った、君主であったが、近頃は悪目立ちが過ぎる。

 廉頗の内憂ないゆうも理解できる。父と思い定めている男の落ちぶれていく様を見たくはないだろう。

「主父の側近である、お前は主父がどう動くと見ている」

「何とも言えん。だが、主父の心が、大きく安陽君に靡いているのは事実だ」
 煮え滾る想いだ。これでは趙王の立場は、公子董と同じではないか。趙王と面識がある訳ではないが、年端もいかない、憐れな趙王を公子董と重ねる自分がいる。

「中山はその程度の男に滅ぼされたのだな」
 中山王シシも主父も、何一つ変わらない。

「大王様を殺させはしない」
 趙王に忠義がある訳ではない。しかし、最悪の展望が現実となりうるのならば、止めなくてはならない。亡国の臣として、己に唯一残された信義である。

「仮に安陽君が王となれば国は荒れる。俺とて望む所ではない」
 廉頗の眼差しには、まだ迷いがある。

「安陽君が動くとすれば、何時だ?」

「合従軍の件を、平原君から聞かされたのなら話は早い。恐らく平原君が兵を率いて
秦に向かってからだろうな。平原君は数多の間者を抱えておられるし、幼いながらも影響力は凄まじい。それに、兄である大王様を純粋に慕っておられる」

「妥当な時期か。平原君は承知しておられるのか?」

「当然だ。その件で、俺は呼ばれたのだからな」

「しかし、俺にはそのようなことは」
 言いかけて口を噤んだ。

「なるほど。そういうことか。強かな御方だ」
 思わず笑みが漏れる。
 元より、平原君は此度の諍いに、己を巻き込む心算であったのだ。彼は楽毅が、公子董を守り切れなかったことを悔やんでいるのを知っている。趙王と公子董が置かれていた情況は酷似する。
 
 仔細を明らかにせずとも、楽毅が執るであろう選択肢は、既に幼き主に握られている。平原君を合従軍の指揮官に任命したことで、主父の意向は明確になった。従軍する主だった将校達も、安陽君もしくは主父の息がかかったものが大分であろう。だからこそ、平原君は無位無官の楽毅を参謀に選んだ。将校達の中から、参謀を選べば、其れは平原君のくびきとなる。

(なるほど。面白い)
 楽毅は怜悧な笑みを浮かべる。平原君は信任がおける者だけを率いて、安陽君の挙兵と共に引き返すつもりでいるのだろう。

「俺達の主は、遥か先を行っているようだ」
 司馬炎と魏竜に笑いかけるが、二人はただ互いの顔を見合わせるだけである。果たして、平原君は楽毅を一つの仕える駒として見定めているのか。
 
 いずれも揣摩憶測しまおくそくの範疇であるが、平原君は、己の中に燻る慚愧の念を、安陽君と主父へ剣を向けさせることによって、昇華させようと考えているのか。その真意は定かではない。

 



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