瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦

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終章 瓦礫の国の王

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 ずっと頭の中で鳴り響いていた歌が熄んでいた。扉の代わりに張られた幕から、陽光が射し、目が沁みる。

「若」
 頬を涙で濡らした老漢の顔が、陽を遮った。

秦開しんかい―」
 
 まだ夢を見ているような心地であった。臥しているのは牀ではなく、簡素な不織布であった。己が生まれ育った地ではないことは分かる。だが、此処には安らぎがあった。

「俺は生きているのか」
 声は潤いを欠いている。

「ええ、もちろんですとも」
 秦開は涙を散らして、何度も頷く。

「痛い」

「申し訳ない」
 秦開は慌てて白くなるほどに握った手を離した。

「何だ、その成りは。まるで胡人こじんのようだ」
 四年ぶりに再会した秦開は、頭にてんの帽子を被り、額には匈奴きょうどの間に、り面と呼ばれる刀傷がある。

「北での四年間は、老い耄れにとって、あまりにも長いものでした」
 幼い頃より、己の傅役もりやくを務め、父親代わりであった、秦開の容貌は四年間で随分と変わってしまった。肌は赤銅色に染まり、綺麗に整えていたはずの髪も髭は、伸びるままに放置されている。
 
 四年間、北で生きる上で、秦開は身なりも習慣も含めて、胡人に染まりきらなければ生き抜いてはいけなかった。
り面も胡人の風習の一つであり、親しい者が亡くなった時、死者を弔う為に付ける刀傷である。秦開の北での四年間の艱難辛苦かんなんしんくは、想像を絶するものであっただろう。

「辛い想いをさせた」

「なにを、この程度。若の痛みに比べれば」
 秦開は大口を開け、豪快に笑い飛ばした。
 
 だけど、彼を実の父と思い定める、姫平には分かる。彼の心は哭いている。躰の至る所が痛んだが、姫平は苦悶の声を漏らしながら、上半身を起こした。そっと皺に塗れた秦開の手が、背に添えられる。

しょく秦殃しんようは逝ったか」
 秦開は何も答えなかったが、沈黙が答えであった。

「わしが悪いのです。もう少し早く駆け付けることができれば」
 血が滲むほどに、握り締められた拳を掌で包んだ。

「いや。お前は悪くない。悪いのは、この俺だ。もっと早く子之ししを斃し、国を立て直していれば、斉のいいようにはされなかった」
 怨懣で戦をするべきではない。分かってはいるがー。騒擾に乗じ、軍を出師し、都を灰燼と帰した、斉だけは許せない。弟の姫職、幼馴染の秦殃―。そして、聞かなくとも分かる。

てい夜兎党やととうの少年達。身を挺して己を守り続けた麾下達も皆、今はもういない。

「斉の連中は、今、若の御身を血眼になって探しています。都から先だって脱出した公族達は悉く処断されました」
 創痍が瞋恚に染まっていく。繃帯ほうたいを捲かれた脇腹に、熱い血が滲んでいく。

「若ー。此処は安全な地です」

「北なのだな」
 返事を待たずとも分かる。
 
 己が匿われているのは穹盧きゅうろの中。穹盧は定住を好まない遊牧民族の住まいである。円形の建物で、骨子となる二本の木枠に、羊の毛で作った不織布を被せる。作りそのものが簡素なので、容易に解体できる。

「若がお望みとあれば、この地でー」
 姫平の勁い眼差しに打たれ、秦開は二の句を継ぐことができなかった。

「俺に全てを忘れ、胡地こちで生きろと言うのか」

「相当に苦しい道のりとなります」

「覚悟の上だ。逝った者達の想いを無駄にはしない」
 肚の底から漲ってくる生気がある。躰の痛みが引いていく。敷かれた不織布の隣には、鞘に納まった護国の剣がある。

「斉に奪われた祖国と民を救う為に、俺は戦う」
 姫平の覚悟に呼応するように、剣格にある二つの宝玉が光を放つ。

「ならばこの老い耄れ、地の果てであろうとも、若と共に」
 さっと見を引いた秦開は、佇まいをただし、力強く拱手した。

「やろう、秦開。残破ざんぱした燕を奪り戻そう」
 辛酸を舐め続けようと、成し遂げる。でなければ、逝った者達が報われない。
 
 そして、斉の手から燕を取り戻した暁には、

「この俺が瓦礫の国の王となる」
 
 高らかな宣言と共に、緑一面の草原地帯に黄金の風が吹く。冬が過ぎ、命の季節である春が訪れようとしている。
 
 春が新時代の到来を予感させる。今、英雄王の萌芽が芽吹こうとしている。
         
                

                 破燕編 完  救国編に続く
 
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