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破燕
十
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宮門前。
炬火が焚かれ、巡回する兵士達の影が休むことなく動き続けている。
「そろそろか」
姫平は白い息を吐きだし、下弦の月を見上げた。
ゆったりとした風が吹き、厚い雲が月に重なる。瞬間、幾つもの足音が聞こえ、宮門の方に迫ってくる。姫平は宮殿の敷地を囲う墻から、顔を覗かせ、眼を凝らした。
血相を変えた兵士達が、宮門前の兵士達に何やら告げている。そして、駆け付けた兵士と共に、警備にあたっていた兵士達が街衢の方へと向かっていく。宮門前には最低限の見張りだけが残っている。その数、十五というところか。
「丁殿は巧くやったようですね」
黒い装束を纏う、市被が安堵の息を漏らした。
「準備はいいか?」
同じく黒の装束を纏う、五十の仲間を見遣る。
十五の麾下。そして、夜兎党の少年等三十五名で構成されている。彼等が吐く硬い吐息から、痛いほどの緊張が伝わる。
「では、作戦開始」
麾下の一人が、姫平に弓を手渡す。
箙から矢を取り出し、墻の影から飛び出して、宮門を守るように聳え立つ角楼の中にいる、兵士に照準を合わせる。
放たれた矢は虚空を裂いて、二人の兵士の眉間を貫いた。絶命した二人の兵士は崩れ、糸が切れた人形のように地上へと落ちて行く。
「何事だ!?」
宮門の警備にあたる兵士達が、突如として空から落ちてきた死体の元に向かう。
「之は!敵―」
兵士の一人が闇からの敵の襲撃を察した瞬間。姫平達はもう駆け出していた。
姫平は矢を放ち、声を上げた兵士の心の臓を貫いた。呼吸にして一呼吸ほど。兵士達は瞬く間に、地に臥した。
「よし」
指で合図を送り、身軽な少年数人を選び、縄梯子を使って、墻を駆け上がり、内側から門を開けさせた。
重低音を響かせて、内側から開いた。五人一組となり、辺りを警戒するが、敵の気配はない。東郭内で起こった騒ぎで、相当に兵が出払っているのか。胡乱な静けさが一帯にはある。
「参りましょう」
市被は口許を覆った、黒い被帛を下げ、せかすように言った。
「あ、ああ」
獏とした不安が胸に蟠る。
(之ほど容易なものなのか)
息絶えた兵士達を一瞥し、宮門を潜る。
黒の世界に、朱塗りの壮大な宮殿が浮かび上がってくる。見慣れたはずの王宮。だが、今はとてつもなく遠いものに覚える。宮殿までの道のりは開けている。兵の気配もない。
「市被、待て。明らかに何かがおかしい」
その時である。背後にある宮門が閉まった。
「何だと!?」
無数の足音が迫ってくる。
姫平達は剣を構え、迫る足音に備える。消えていた炬火が灯る。宮道が宮殿に至るまで照らされ、数千の兵士が己達を囲った。
(嵌められた)
そして、一つの可能性が頭を擡げる。くつくつと引き攣った嗤い声が、兵士達の輪を割る。
「子之か」
十二の旒がある冕冠を被り、燕国の宝具である白虎裘を纏った子之が輪の中心に姿を現した。白玉十二旒の冠は、天子の証。
「全てを慾しいままにし、天子気取りか」
姫平は豪快に笑い、虚勢を張った。
「相変わらずの減らず口よ」
暫しの間、眼を疑った。光に照らされた、子之の風姿は、以前とは別人のようであった。
認めたくはないが、子之は鶏姦の気がある者ならば、是非でも手中におさめたくなるほどの美男子であった。だが、今はどうか。
眼は虚ろで焦点が定まっておらず、白皙であった肌は焼けたように赤黒い。艶のあった黒髪には白髪が混ざっている。そして、不快にさせる漏れ出す血の腐ったような臭い。さながら亡者のようである。
「悪鬼にでも憑りつかれたか、子之」
子之の手許にある物が視界に入った。
「其れはー」
かつて己の許にあった護国の剣。
「そういうことか」
彼は生来より強欲な男であった。だが、これほど姦猾で醜悪な男であっただろうか。
「何を一人ぼやいている」
歪めた口吻。覗く、くすんだ歯。
「伝承は本当だったらしい。子之よ、その剣の神気―。いや、今は妖気と云うべきだろか。あてられたな」
「黙れ!!」
子之が虎狼のように牙を剥く。
「この剣が私に囁くのだ。私の誇りを奪い去った、この国を滅ぼせば、この飢えと渇きは癒えるのだと」
子之は狂ったように身を捩らせ、鋭利に尖った爪で顔をかきむしる。皮膚が剥がれ、頬が血に染まっていく。
「随分と苦しそうだな。その剣を手放さない限り、お前は苦痛から永遠に解放されることはないぞ」
「黙れ!黙れ!黙れ!」
子之の叫声が闇夜に谺する。
「全てを灰燼に帰せしめる。貴様達が私から奪ったものを破壊によって取り戻す」
「いいや。お前が奪われたものは何をどうやっても戻ってはこない」
「貴様に何が分かる!」
「閹人子之。それがお前の正体だ」
兵士達の間に、どよめきが起こる。
閹人とは即ち、宦官と同じく、精の道を閉ざされた者の呼称である。
「何故―。貴様がそれを」
子之は雷に打たれたかのように動揺している。
「俺の気の聡さを舐めるな。お前が幾ら、しつこい香気で誤魔化していても、俺には分かる」
子之を守禦する兵士達の顔に当惑の色が滲む。
「やめろー。私をそんな眼で見るな」
「過去に何があったか知らん。同情もする。だが、父祖から受け継がれてきた、この国をお前に渡す訳には行かない」
姫平は決然と言い放ち、正眼に剣を構え、ゆっくりと子之に歩み寄る。
「来るな!何をしている、役立たず共、私を守れ!」
しかし、兵は動かない。
胤を残せない王に為政者としての資格はない。酷薄なことだが、閹人は男でも女でもない、ましてや、人ですらないと卑下される存在なのである。故に兵士達は蔑みの眼差しを、子之に向け、後ずさる子之を遠巻きで見ている。
「来るな!来るな!」
子之は護国の剣を抜き、遮二無二に振り回す。
「終わりだ、子之。もう誰一人、お前には従わない」
凄味を放つと、子之は尻餅をつき、這うように逃げ惑う。
「待て!私は貴様の父を幽閉している。私が死ねば、あの男を殺すように兵に命じている」
「だから何だ。己が安逸を貪りたいが為に、政務を放擲し、あろうことか国を想う心のないお前に王位を譲位した。結果、国は蠱毒に蝕まれた如く腐敗し、民は貧困に喘ぎ、罪なき者が大勢死んで行った。最早、あの男に父としての情などない」
己でも驚くほどに放った声は怜悧であった。
「この国を混乱の陥れた罪、その命を以って、購がなってもらうぞ」
剣尖を回し、子之の喉元に突きつける。
「私は…何一つこの国から与えられなかった。だから、全てを灰燼に帰し、復讐を果たすまでは死ねない!今だ!殺れ!」
殺気。身を翻す。白刃が斬り結ぶ。舞う鮮血。
刹那の剣に両断されたのは、影のように付き従い、姫平を守り続けてきた市被であった。袈裟から血を流す、市被が膝から崩れて落ちていく。この策の進言者は、市被である。敵と誼を通じ、己達を罠に嵌めることにできる者は彼しかいない。
「若―。申し訳ございません」
市被は滂沱の涙を流し、許しを乞うた。
「分かっている。中山に逃がした、子之の手の者に妻子がかどわかされたのだろう」
常に泰然とした市被が顔を歪め慟哭する。
「若…私は…」
「もっと早く気付いてやるべきだった。許してくれ、市被」
総身が燃えていた。憤怒は天を衝き、鬼人の如く髪は逆立っている。
「どこまで卑劣なのだ!子之!」
剣を払い、子之に向き直る。
いつの間にか、子之の顔は息がかかるほどの距離にあった。子之は唇が裂けるほどに嗤った。
冷えた硬いものが腹の中に入ってくる。視線を下げる。護国の剣が肚を貫いている。剣が肚に突き刺さったまま、姫平はよろめいた。
「若!!!」
市被の悲鳴。
温かい血が己の腹から、とめどなく溢れていく。
「やったぞ!目障りな貴様をついに葬れる!」
子之は血が滴る両手を天に掲げ、狂喜乱舞している。
「若!」
麾下が両脇を支える。
「もの共!今の内だ!朝廷に仇なす朝敵を断罪せよ」
けたたましく嗤いながら、子之は兵士達に命じる。
だが、兵士から当惑が消えていない。彼等も義がどちらにあるのか理解し始めている。
ならばと、
「姫平の首を奪れば、此処にいる皆に、末代に渡って食うに困らぬほどの銭をくれてやる」
兵士達がざわめく。
「如何する?この男の首を奪るだけで、一生遊んでくらせる銭が手に入るのだぞ。食う物も女も全てがお前達のおもうままになる」
(まずい)
朦朧とする意識の中、兵士達の眼に邪な光が灯ったのを見た。
「鏖殺だ!!」
兵士達が得物を突き出す。
(此処で死ぬ訳には)
雄たけびと共に、腹を貫いた剣把を握りしめる。
「あぁぁぁぁぁぁぁ」
護国の剣を抜き去る。風穴は痛いというより熱い。まるで、腹の中に炎の塊を押し込まれたようだ。五十人の仲間達が身を寄せ合い、千人にものぼる兵士達の攻撃に備える。
「はは。死に態ではないか。貴様の悪運も此処で尽きる」
哄笑する子之の姿が歪んで見える。
(くそっ。此処で俺は果てるのか。まだ何一つ成し遂げていないではないか。死んでいった者達の想いはどうなる)
「死ね!姫平!」
眼前の兵士が繰り出した戟。弾じ返そうと、剣を執った腕を振り上げる。
しかし、腕が動かない。死がすぐそこまで迫っている。肉を刃が貫く音が耳奥に届く。戟が貫いたのは、己の躰ではなかった。
「市被!」
両の腕を広げ、己を守る存在がいる。
「若…。短い間でしたが、私は貴方に仕えることが幸せでした。お、愚かな私を許して頂けると思っていません…ですが、どうか妻と子を」
言った市被の口から鮮血が溢れた。
「約束する!お前の妻子は、必ず俺が助け出す」
横顔を向けた、市被は穏やかな笑みを浮かべた。崩れていく。市被の命が解けていく。
「あぁぁぁぁあぁぁ!!!」
死力を振り絞る。四肢に雷霆が走る。
踏み込みが、地を抉った。戟を繰り出した兵に放つ刃。瞬間、刃が白く輝いた。悲鳴。
「之はー。あの時の」
見れば護国の剣の格に填められた、蒼き玉と黒き玉が輝き、錆びた刀身は神気を帯びた。
刃が触れた時、豪炎が盛った。瞬く間に兵士は火達磨となり、転げまわる。炎が爆ぜ、火の粉が散った。
「な、何だ。之は!」
新たな悲鳴が上がる。火の粉が意志を持っているかのように、子之へと向かった。
絶叫。瞬く間に子之の総身を、正義の火焔が覆う。
「や、やめろ!」
子之は身を捩らせ、火を消そうと足掻いているが、火焔は勢いを増していく。
「誰か助けてくれ!!誰か!!」
喉が張り裂けんばかりに叫び、地で転げまわる。
(今しかない)
意識が間遠になっていく。完全に意識が消える前に、生き残った者達だけでも救わねばならない。
「お前達、退くぞ!」
超常的な光景に浮足立つ者。そして、未だ己の首を豺狼の如く狙う者がいる。 姫平は力の限り、炎を宿す剣を振るう。
「近づくな。神の炎にその身を焼かれたくはないだろう」
兵士達が焼かれる子之を見て、二の足を踏む。
(それでいい)
「消し炭にされたくなければ、門を開けろ!」
門が開く音が聞こえる。
「若!此方です」
(駄目だ)
励ます麾下の声が彼方にあるように聞こえる。
「若!若!お気をしっかり」
抗いようのない眠気が襲ってくる。影の宿主が、己の裡にある意識の核に触れた。姫平の意識は凄まじい速さで闇へと誘われて行った。
炬火が焚かれ、巡回する兵士達の影が休むことなく動き続けている。
「そろそろか」
姫平は白い息を吐きだし、下弦の月を見上げた。
ゆったりとした風が吹き、厚い雲が月に重なる。瞬間、幾つもの足音が聞こえ、宮門の方に迫ってくる。姫平は宮殿の敷地を囲う墻から、顔を覗かせ、眼を凝らした。
血相を変えた兵士達が、宮門前の兵士達に何やら告げている。そして、駆け付けた兵士と共に、警備にあたっていた兵士達が街衢の方へと向かっていく。宮門前には最低限の見張りだけが残っている。その数、十五というところか。
「丁殿は巧くやったようですね」
黒い装束を纏う、市被が安堵の息を漏らした。
「準備はいいか?」
同じく黒の装束を纏う、五十の仲間を見遣る。
十五の麾下。そして、夜兎党の少年等三十五名で構成されている。彼等が吐く硬い吐息から、痛いほどの緊張が伝わる。
「では、作戦開始」
麾下の一人が、姫平に弓を手渡す。
箙から矢を取り出し、墻の影から飛び出して、宮門を守るように聳え立つ角楼の中にいる、兵士に照準を合わせる。
放たれた矢は虚空を裂いて、二人の兵士の眉間を貫いた。絶命した二人の兵士は崩れ、糸が切れた人形のように地上へと落ちて行く。
「何事だ!?」
宮門の警備にあたる兵士達が、突如として空から落ちてきた死体の元に向かう。
「之は!敵―」
兵士の一人が闇からの敵の襲撃を察した瞬間。姫平達はもう駆け出していた。
姫平は矢を放ち、声を上げた兵士の心の臓を貫いた。呼吸にして一呼吸ほど。兵士達は瞬く間に、地に臥した。
「よし」
指で合図を送り、身軽な少年数人を選び、縄梯子を使って、墻を駆け上がり、内側から門を開けさせた。
重低音を響かせて、内側から開いた。五人一組となり、辺りを警戒するが、敵の気配はない。東郭内で起こった騒ぎで、相当に兵が出払っているのか。胡乱な静けさが一帯にはある。
「参りましょう」
市被は口許を覆った、黒い被帛を下げ、せかすように言った。
「あ、ああ」
獏とした不安が胸に蟠る。
(之ほど容易なものなのか)
息絶えた兵士達を一瞥し、宮門を潜る。
黒の世界に、朱塗りの壮大な宮殿が浮かび上がってくる。見慣れたはずの王宮。だが、今はとてつもなく遠いものに覚える。宮殿までの道のりは開けている。兵の気配もない。
「市被、待て。明らかに何かがおかしい」
その時である。背後にある宮門が閉まった。
「何だと!?」
無数の足音が迫ってくる。
姫平達は剣を構え、迫る足音に備える。消えていた炬火が灯る。宮道が宮殿に至るまで照らされ、数千の兵士が己達を囲った。
(嵌められた)
そして、一つの可能性が頭を擡げる。くつくつと引き攣った嗤い声が、兵士達の輪を割る。
「子之か」
十二の旒がある冕冠を被り、燕国の宝具である白虎裘を纏った子之が輪の中心に姿を現した。白玉十二旒の冠は、天子の証。
「全てを慾しいままにし、天子気取りか」
姫平は豪快に笑い、虚勢を張った。
「相変わらずの減らず口よ」
暫しの間、眼を疑った。光に照らされた、子之の風姿は、以前とは別人のようであった。
認めたくはないが、子之は鶏姦の気がある者ならば、是非でも手中におさめたくなるほどの美男子であった。だが、今はどうか。
眼は虚ろで焦点が定まっておらず、白皙であった肌は焼けたように赤黒い。艶のあった黒髪には白髪が混ざっている。そして、不快にさせる漏れ出す血の腐ったような臭い。さながら亡者のようである。
「悪鬼にでも憑りつかれたか、子之」
子之の手許にある物が視界に入った。
「其れはー」
かつて己の許にあった護国の剣。
「そういうことか」
彼は生来より強欲な男であった。だが、これほど姦猾で醜悪な男であっただろうか。
「何を一人ぼやいている」
歪めた口吻。覗く、くすんだ歯。
「伝承は本当だったらしい。子之よ、その剣の神気―。いや、今は妖気と云うべきだろか。あてられたな」
「黙れ!!」
子之が虎狼のように牙を剥く。
「この剣が私に囁くのだ。私の誇りを奪い去った、この国を滅ぼせば、この飢えと渇きは癒えるのだと」
子之は狂ったように身を捩らせ、鋭利に尖った爪で顔をかきむしる。皮膚が剥がれ、頬が血に染まっていく。
「随分と苦しそうだな。その剣を手放さない限り、お前は苦痛から永遠に解放されることはないぞ」
「黙れ!黙れ!黙れ!」
子之の叫声が闇夜に谺する。
「全てを灰燼に帰せしめる。貴様達が私から奪ったものを破壊によって取り戻す」
「いいや。お前が奪われたものは何をどうやっても戻ってはこない」
「貴様に何が分かる!」
「閹人子之。それがお前の正体だ」
兵士達の間に、どよめきが起こる。
閹人とは即ち、宦官と同じく、精の道を閉ざされた者の呼称である。
「何故―。貴様がそれを」
子之は雷に打たれたかのように動揺している。
「俺の気の聡さを舐めるな。お前が幾ら、しつこい香気で誤魔化していても、俺には分かる」
子之を守禦する兵士達の顔に当惑の色が滲む。
「やめろー。私をそんな眼で見るな」
「過去に何があったか知らん。同情もする。だが、父祖から受け継がれてきた、この国をお前に渡す訳には行かない」
姫平は決然と言い放ち、正眼に剣を構え、ゆっくりと子之に歩み寄る。
「来るな!何をしている、役立たず共、私を守れ!」
しかし、兵は動かない。
胤を残せない王に為政者としての資格はない。酷薄なことだが、閹人は男でも女でもない、ましてや、人ですらないと卑下される存在なのである。故に兵士達は蔑みの眼差しを、子之に向け、後ずさる子之を遠巻きで見ている。
「来るな!来るな!」
子之は護国の剣を抜き、遮二無二に振り回す。
「終わりだ、子之。もう誰一人、お前には従わない」
凄味を放つと、子之は尻餅をつき、這うように逃げ惑う。
「待て!私は貴様の父を幽閉している。私が死ねば、あの男を殺すように兵に命じている」
「だから何だ。己が安逸を貪りたいが為に、政務を放擲し、あろうことか国を想う心のないお前に王位を譲位した。結果、国は蠱毒に蝕まれた如く腐敗し、民は貧困に喘ぎ、罪なき者が大勢死んで行った。最早、あの男に父としての情などない」
己でも驚くほどに放った声は怜悧であった。
「この国を混乱の陥れた罪、その命を以って、購がなってもらうぞ」
剣尖を回し、子之の喉元に突きつける。
「私は…何一つこの国から与えられなかった。だから、全てを灰燼に帰し、復讐を果たすまでは死ねない!今だ!殺れ!」
殺気。身を翻す。白刃が斬り結ぶ。舞う鮮血。
刹那の剣に両断されたのは、影のように付き従い、姫平を守り続けてきた市被であった。袈裟から血を流す、市被が膝から崩れて落ちていく。この策の進言者は、市被である。敵と誼を通じ、己達を罠に嵌めることにできる者は彼しかいない。
「若―。申し訳ございません」
市被は滂沱の涙を流し、許しを乞うた。
「分かっている。中山に逃がした、子之の手の者に妻子がかどわかされたのだろう」
常に泰然とした市被が顔を歪め慟哭する。
「若…私は…」
「もっと早く気付いてやるべきだった。許してくれ、市被」
総身が燃えていた。憤怒は天を衝き、鬼人の如く髪は逆立っている。
「どこまで卑劣なのだ!子之!」
剣を払い、子之に向き直る。
いつの間にか、子之の顔は息がかかるほどの距離にあった。子之は唇が裂けるほどに嗤った。
冷えた硬いものが腹の中に入ってくる。視線を下げる。護国の剣が肚を貫いている。剣が肚に突き刺さったまま、姫平はよろめいた。
「若!!!」
市被の悲鳴。
温かい血が己の腹から、とめどなく溢れていく。
「やったぞ!目障りな貴様をついに葬れる!」
子之は血が滴る両手を天に掲げ、狂喜乱舞している。
「若!」
麾下が両脇を支える。
「もの共!今の内だ!朝廷に仇なす朝敵を断罪せよ」
けたたましく嗤いながら、子之は兵士達に命じる。
だが、兵士から当惑が消えていない。彼等も義がどちらにあるのか理解し始めている。
ならばと、
「姫平の首を奪れば、此処にいる皆に、末代に渡って食うに困らぬほどの銭をくれてやる」
兵士達がざわめく。
「如何する?この男の首を奪るだけで、一生遊んでくらせる銭が手に入るのだぞ。食う物も女も全てがお前達のおもうままになる」
(まずい)
朦朧とする意識の中、兵士達の眼に邪な光が灯ったのを見た。
「鏖殺だ!!」
兵士達が得物を突き出す。
(此処で死ぬ訳には)
雄たけびと共に、腹を貫いた剣把を握りしめる。
「あぁぁぁぁぁぁぁ」
護国の剣を抜き去る。風穴は痛いというより熱い。まるで、腹の中に炎の塊を押し込まれたようだ。五十人の仲間達が身を寄せ合い、千人にものぼる兵士達の攻撃に備える。
「はは。死に態ではないか。貴様の悪運も此処で尽きる」
哄笑する子之の姿が歪んで見える。
(くそっ。此処で俺は果てるのか。まだ何一つ成し遂げていないではないか。死んでいった者達の想いはどうなる)
「死ね!姫平!」
眼前の兵士が繰り出した戟。弾じ返そうと、剣を執った腕を振り上げる。
しかし、腕が動かない。死がすぐそこまで迫っている。肉を刃が貫く音が耳奥に届く。戟が貫いたのは、己の躰ではなかった。
「市被!」
両の腕を広げ、己を守る存在がいる。
「若…。短い間でしたが、私は貴方に仕えることが幸せでした。お、愚かな私を許して頂けると思っていません…ですが、どうか妻と子を」
言った市被の口から鮮血が溢れた。
「約束する!お前の妻子は、必ず俺が助け出す」
横顔を向けた、市被は穏やかな笑みを浮かべた。崩れていく。市被の命が解けていく。
「あぁぁぁぁあぁぁ!!!」
死力を振り絞る。四肢に雷霆が走る。
踏み込みが、地を抉った。戟を繰り出した兵に放つ刃。瞬間、刃が白く輝いた。悲鳴。
「之はー。あの時の」
見れば護国の剣の格に填められた、蒼き玉と黒き玉が輝き、錆びた刀身は神気を帯びた。
刃が触れた時、豪炎が盛った。瞬く間に兵士は火達磨となり、転げまわる。炎が爆ぜ、火の粉が散った。
「な、何だ。之は!」
新たな悲鳴が上がる。火の粉が意志を持っているかのように、子之へと向かった。
絶叫。瞬く間に子之の総身を、正義の火焔が覆う。
「や、やめろ!」
子之は身を捩らせ、火を消そうと足掻いているが、火焔は勢いを増していく。
「誰か助けてくれ!!誰か!!」
喉が張り裂けんばかりに叫び、地で転げまわる。
(今しかない)
意識が間遠になっていく。完全に意識が消える前に、生き残った者達だけでも救わねばならない。
「お前達、退くぞ!」
超常的な光景に浮足立つ者。そして、未だ己の首を豺狼の如く狙う者がいる。 姫平は力の限り、炎を宿す剣を振るう。
「近づくな。神の炎にその身を焼かれたくはないだろう」
兵士達が焼かれる子之を見て、二の足を踏む。
(それでいい)
「消し炭にされたくなければ、門を開けろ!」
門が開く音が聞こえる。
「若!此方です」
(駄目だ)
励ます麾下の声が彼方にあるように聞こえる。
「若!若!お気をしっかり」
抗いようのない眠気が襲ってくる。影の宿主が、己の裡にある意識の核に触れた。姫平の意識は凄まじい速さで闇へと誘われて行った。
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