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破燕
六
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王の居室で、子之は鹿毛寿が齎した報せに耳を疑った。
「其れは本当か?」
相変わらず噎せ返るほど香が焚かれている。香炉から絶え間なく出る白煙に、居室内は曇って見えるほどである。
「はい。あの騒ぎの中、数人の兵士が確かに目撃したと申しておりまして」
鹿毛寿は視線を背けたくなるほど醜い顔を嬉々と歪めている。
「潜伏先は?」
子之の声は弾んでいる。裡に潜む餓狼が、唸り声を上げている。次の獲物を見つけ、ご満悦のようだ。あの巨きな獲物を喰らえば、この餓狼も飢えと渇きを満たし、己も永劫と熄むことのない苦痛から解放されるかもしれない。
「目障りな夜兎党が匿い、潜伏先は数か所に分けているようですが、大方目途はついております」
早急に兵を向かせますか?と鹿毛寿は問う。子之は思惟を巡らせた。どのように斉から脱出して来たのか分からないが、あの男のことだ。下手に手を打てば、逃げられる可能性がある。
「ふむ。公子職はやはり陽動であったか」
何処かきな臭さを感じていた。たったの三万の兵力で、十万を越える大軍勢に抗おうなど、土台無理な話であった。捨て鉢かと思ったが、やはり裏はあった。ならば、西の戦いは捨て置いて問題はない。そう刻をかけずとも、公子職の軍は壊滅する。
如何なさいますか?と 鹿毛寿が重ねて問う。
「面白いことを思いついた」
神妙な顔の鹿毛寿を手招きし、耳語する。鹿毛寿が欠けた歯を露わにし、醜悪に笑った。
「御神知で御座います。大王様」
「直ぐに探し出せるか?」
揖の礼をとった、鹿毛寿は手配致しましょうと、ほくそ笑みながら答えた。
退出する鹿毛寿の背を見ながら、手を叩いて侍中を呼んだ。
「あの男の元へ行く。支度せよ」
と告げた。
後宮の地下に、子之が作らせた地下牢がある。臣下の者達は、己が後宮にある寝所で女に胤を撒くことに励んでいると思っていることだろう。だが、子を成せない、己にとって後宮の存在は無価値に等しい。胤を残せない王は、為政者として相応しくないと云える。血の継承が途絶えれば、社稷も同じく絶える。だが、己にこの国の未来を憂う想いは微塵もない。己が死んだ後の未来などどうでもいい。
元々、子を成せない呪われた躰なのである。
手燭を掲げた宦官が先に、地下へと続く階段を降りていく。灯りが足許を照らす。手燭の灯りがなければ、地下室は一条の光も届かない暗黒に包まれる。階段を一段と降りる度に、じめりとした空気が這い上がり、腥い臭気を運んでくる。
「さがれ」
階段を降り終えると、手燭を奪い取り、宦官に冷たく告げた。
灯りに照らされた宦官の顔色は土気色に変わっている。血が腐ったような臭気にあてられたのであろう。御意と告げて、宦官は逃げるように階段を駆け上がって行く。
子之は一人になると、胸いっぱいに腥い空気を肺に送り込んだ。この匂いが好きだった。鼻腔にしつこく纏わりつく香気より、遥かに良い。子之は磚の床を踏みしめて、檻が並ぶ、地下室を歩く。檻は数にして十。突き当りに面する檻に、あの男はいる。立ち止まり、手燭を持ち上げ、灯りで檻の奥を照らす。
「んー。んー」
とこもった叫び声が轟く。懐から檻の鍵を取り出し、慣れた手つきで開ける。檻の中に入ると、更に血の臭気は強くなった。
「気分はどうだ?」
四肢を鎖に繋がれ、四つん這いで這いつくばる、かつての燕王噲の姿があった。彼は一糸も纏わず、汚穢に塗れている。
「んー。んー」
鎖が鳴り、彼は四つん這いのまま、子之の足許まで駆け付けてくる。さながら、調教された狗のようだ。
「面白いことを教えてやろう」
子之は膝を曲げ、哀れな先王に視線を合わせた。
「貴様の子、平が斉から逃れ、この国を取り戻す為、都に戻ってきている」
力任せに姫噲の頬を鷲掴む。開かれた口を覘くと、其処にあるべき舌がない。
「貴様の縁者を悉く消し去ってやろうと思ったが、奴が起こした騒ぎのせいで取り逃がしてしまった。だが、まぁいい。おかげで一番憎い獲物がかかった」
失くした右耳の傷が疼いた。
「私は今日、頗る気分がいい」
乱暴に掴んだ頬を離し、立ち上がる。
「貴様の態度次第で、今日の所は許してやってもいい」
酷笑を浮かべ言うと、姫噲は狗のようにくるりとその場で一周し、穢れた顔を絹の沓に擦りつけた。登り詰める為に操を捧げた、哀れな男の変わり果てた姿は、飢餓状態にある心を慰めてくれる。こうして自尊心を満たしている間だけは、裡の餓狼は息を潜める。
だがー。同時に虚しい怒りも沸々と込み上げてくる。己はこの程度の男に諂諛し、人としての誇りも捧げてしまったのか。姫噲は荒く息をし、許しを乞うように、子之を仰ぎ見た。
「いや、よそう。気分を害した」
姫噲の顔が絶望に染まる。涎を垂らし、甘えるように擦り寄ってくる。
「目障りだ!」
蹴り上げる。
甲高い悲鳴が上がり、姫噲は檻の隅で震えている。
「貴様、捨てた己の子が助けにくれるとつまらぬ希望を抱いたな」
蓬髪を振り乱し、姫噲は否定する。子之は構わず、彼に詰め寄り、懐から笞を取り出した。
狂気に染まった赤い眦を見開き、笞を撓らせる。
「お仕置きだ。たっぷりと痛めつけてやる」
笞の撓る音と悲鳴が、隔絶された地下牢に響き渡る。
皮膚の裂ける音。弾ける血飛沫が、己を陶酔させる。子之の高笑いは、払暁の時まで熄むことはなかった。
「其れは本当か?」
相変わらず噎せ返るほど香が焚かれている。香炉から絶え間なく出る白煙に、居室内は曇って見えるほどである。
「はい。あの騒ぎの中、数人の兵士が確かに目撃したと申しておりまして」
鹿毛寿は視線を背けたくなるほど醜い顔を嬉々と歪めている。
「潜伏先は?」
子之の声は弾んでいる。裡に潜む餓狼が、唸り声を上げている。次の獲物を見つけ、ご満悦のようだ。あの巨きな獲物を喰らえば、この餓狼も飢えと渇きを満たし、己も永劫と熄むことのない苦痛から解放されるかもしれない。
「目障りな夜兎党が匿い、潜伏先は数か所に分けているようですが、大方目途はついております」
早急に兵を向かせますか?と鹿毛寿は問う。子之は思惟を巡らせた。どのように斉から脱出して来たのか分からないが、あの男のことだ。下手に手を打てば、逃げられる可能性がある。
「ふむ。公子職はやはり陽動であったか」
何処かきな臭さを感じていた。たったの三万の兵力で、十万を越える大軍勢に抗おうなど、土台無理な話であった。捨て鉢かと思ったが、やはり裏はあった。ならば、西の戦いは捨て置いて問題はない。そう刻をかけずとも、公子職の軍は壊滅する。
如何なさいますか?と 鹿毛寿が重ねて問う。
「面白いことを思いついた」
神妙な顔の鹿毛寿を手招きし、耳語する。鹿毛寿が欠けた歯を露わにし、醜悪に笑った。
「御神知で御座います。大王様」
「直ぐに探し出せるか?」
揖の礼をとった、鹿毛寿は手配致しましょうと、ほくそ笑みながら答えた。
退出する鹿毛寿の背を見ながら、手を叩いて侍中を呼んだ。
「あの男の元へ行く。支度せよ」
と告げた。
後宮の地下に、子之が作らせた地下牢がある。臣下の者達は、己が後宮にある寝所で女に胤を撒くことに励んでいると思っていることだろう。だが、子を成せない、己にとって後宮の存在は無価値に等しい。胤を残せない王は、為政者として相応しくないと云える。血の継承が途絶えれば、社稷も同じく絶える。だが、己にこの国の未来を憂う想いは微塵もない。己が死んだ後の未来などどうでもいい。
元々、子を成せない呪われた躰なのである。
手燭を掲げた宦官が先に、地下へと続く階段を降りていく。灯りが足許を照らす。手燭の灯りがなければ、地下室は一条の光も届かない暗黒に包まれる。階段を一段と降りる度に、じめりとした空気が這い上がり、腥い臭気を運んでくる。
「さがれ」
階段を降り終えると、手燭を奪い取り、宦官に冷たく告げた。
灯りに照らされた宦官の顔色は土気色に変わっている。血が腐ったような臭気にあてられたのであろう。御意と告げて、宦官は逃げるように階段を駆け上がって行く。
子之は一人になると、胸いっぱいに腥い空気を肺に送り込んだ。この匂いが好きだった。鼻腔にしつこく纏わりつく香気より、遥かに良い。子之は磚の床を踏みしめて、檻が並ぶ、地下室を歩く。檻は数にして十。突き当りに面する檻に、あの男はいる。立ち止まり、手燭を持ち上げ、灯りで檻の奥を照らす。
「んー。んー」
とこもった叫び声が轟く。懐から檻の鍵を取り出し、慣れた手つきで開ける。檻の中に入ると、更に血の臭気は強くなった。
「気分はどうだ?」
四肢を鎖に繋がれ、四つん這いで這いつくばる、かつての燕王噲の姿があった。彼は一糸も纏わず、汚穢に塗れている。
「んー。んー」
鎖が鳴り、彼は四つん這いのまま、子之の足許まで駆け付けてくる。さながら、調教された狗のようだ。
「面白いことを教えてやろう」
子之は膝を曲げ、哀れな先王に視線を合わせた。
「貴様の子、平が斉から逃れ、この国を取り戻す為、都に戻ってきている」
力任せに姫噲の頬を鷲掴む。開かれた口を覘くと、其処にあるべき舌がない。
「貴様の縁者を悉く消し去ってやろうと思ったが、奴が起こした騒ぎのせいで取り逃がしてしまった。だが、まぁいい。おかげで一番憎い獲物がかかった」
失くした右耳の傷が疼いた。
「私は今日、頗る気分がいい」
乱暴に掴んだ頬を離し、立ち上がる。
「貴様の態度次第で、今日の所は許してやってもいい」
酷笑を浮かべ言うと、姫噲は狗のようにくるりとその場で一周し、穢れた顔を絹の沓に擦りつけた。登り詰める為に操を捧げた、哀れな男の変わり果てた姿は、飢餓状態にある心を慰めてくれる。こうして自尊心を満たしている間だけは、裡の餓狼は息を潜める。
だがー。同時に虚しい怒りも沸々と込み上げてくる。己はこの程度の男に諂諛し、人としての誇りも捧げてしまったのか。姫噲は荒く息をし、許しを乞うように、子之を仰ぎ見た。
「いや、よそう。気分を害した」
姫噲の顔が絶望に染まる。涎を垂らし、甘えるように擦り寄ってくる。
「目障りだ!」
蹴り上げる。
甲高い悲鳴が上がり、姫噲は檻の隅で震えている。
「貴様、捨てた己の子が助けにくれるとつまらぬ希望を抱いたな」
蓬髪を振り乱し、姫噲は否定する。子之は構わず、彼に詰め寄り、懐から笞を取り出した。
狂気に染まった赤い眦を見開き、笞を撓らせる。
「お仕置きだ。たっぷりと痛めつけてやる」
笞の撓る音と悲鳴が、隔絶された地下牢に響き渡る。
皮膚の裂ける音。弾ける血飛沫が、己を陶酔させる。子之の高笑いは、払暁の時まで熄むことはなかった。
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