瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦

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破燕

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 見覚えのない天井が広がっていた。口腔内は、砂を飲んだように渇いている。躰が潤いを渇望していた。

「み、みず」
 呻吟の果て、声を絞り出し、綿が入った布団をはねのけ、上半身を起こした。強烈な痛みが四肢に走った。まるで全身が剣尖で貫かれているような激痛である。突如、閉め切られた室内の戸が開いた。

「あっ」と声が漏れ、誰が慌てて駆け寄ってくる。

「みずをくれ…」

「分かったよ!ちょっと待ってくれよ」
 声の主はせわしなく出ていき、抱えられるほどの甕を持って戻ってきた。杓で椀に水を注ぎ、繃帯ほうたいが巻かれた腕を伸ばす、姫平に渡した。奪い取るように、それを受け取り、一気に水を飲み干した。量としては僅かであるが、水が命に潤いを与えるのをひしひしと感じた。あわせて思考が明瞭になっていく。改めて、不安げに己の顔を覗く、男の顔を見た。

「丁…なのか?」
 少年から青年の狭間にある。声は変声を終え、痩せてはいるが、骨格はしっかりとした壮年のもの。だが、負郭の者として逞しく生き抜いてきた者が持つ、独特の不羈の煌めきが、この若者の裡から横溢している。

(俺はこの煌めきを知っている)
 若者は奥深くに幼さを残した、愛嬌のある笑貌を浮かべた。

「随分と大きくなったな」
 目頭が熱くなるのを感じる。

「旦那が都を去った時、おいらは十二歳だった」
 丁の雲英きらを宿した眸が、涙で光っている。

「あれから四年…。もう十六になるのか」
 四年の歳月で産土が様変わりしてしまったように、時間というのは酷薄でもあるが、慈悲深くもある。その証左に、四年の時で丁は逞しい青年へと成長を遂げた。

彼に聞きたいことは山ほどある。しかし、受けた傷と疲労のせいか、思考が横滑りを繰り返し、継ぐ言葉が容易く見つからない。

「石鵲さんも・・・街の男連中も、皆連れて行かれたよ」
 丁は小さく呟き、顔に脂汗を滲ませる姫平の背を支え、そっと床に寝かせる。

「ああ…負郭の惨状をこの眼で見た」

「鐘鴻の姉御も…」

「分かっている」
 仰臥する姫平は、腕で顔を覆い隠した。流れる涙を見られてたくはなかった。

「姉御は旦那のことを、心から好いていたよ。叶わない恋だと分かっていても」
 丁に己を責難する意図はない。姉貴分であった鐘鴻の心の裡を、彼女に変わって吐露している。

「俺は最低な男だよ。丁」
 もう嗚咽は堪え切れなかった。己が愛した負郭の者達は、己が能天気に斉で虜囚生活を送っている間、塗炭とたんの苦しみに喘いでいた。今、己を自身で殺してやりたいほどに憎い。

「姉御はずっと待っていたよ。きっと旦那は帰って来るって」
 丁の長い睫毛に涙が滴る。

「そして、約束通り旦那は帰ってきた。この時を、おいらはずっと待っていた」
 袖で力任せに涙を拭った丁は、眼を充血させながら言った。

「旦那、聞いてくれ。おいらには五百を超える仲間がいる」
 姫平は嗚咽を押し殺し、決然と言い放つ、丁に顔を向ける。

「あの者達か?」
 絶対絶命の危機を救ってくれた、被帛姿の集団である。

「そうだよ」

「どうやってそれだけの仲間を?」

「殆どがおいらと同じ負郭出身の子供達だよ」
 彼の言の通りならば、大分の者を己は知っていることになる。

「皆、旦那に恩がある奴ばかりさ。旦那がめしと仕事を与えてくれなかったら、俺達は皆、とうに飢えて死んでいた」
 姫平が利星として、負郭に下っていた頃、日銭仕事ではあるが、戦争孤児である少年少女が仕事にありつけるように差配していた。

「そうか。丁のように生き抜いた者もいたのだな」
 慚愧ざんきの念で押し潰されてそうになっていた心が、少しだけ軽くなった。

「徴兵の対象になったのは、十七歳以上の大人達だった。だから、おいら達は負郭に残ることができた」
 だけど…と丁は続ける。

「貧しくはあったけど、負郭を回していたのは大人達だ。おいらもそうだったけど、雇われの身でしかなかった。だから、直ぐに生きる術を持たない者から飢えて死んでいった」
 丁が言う生きる術のない者とは、主に老人や女、病気を患っている者、障がい者などであろう。

「新しい王様は残酷だよ。貧乏人が幾ら死のうと構わない。おいら達は何度も役所に通い、負郭の窮状を訴えたけど、連中はおいら達を畜生以下のように見下して、歯牙にもかけなかった」
 丁の握りしめた、双の拳は震えている。

「次々に知っている人達が死んでいった。絶望に駆られ自害した者も多くいる。だけど、おいらは死を選ばなかった。生き残った子供達と共に、負郭を出ることを決意した」
 彼が語る壮絶な経験に、かける言葉も見つからない。だが、疑問が生まれてくる。五百もの子供達を連れ、故郷である薊を離れた、丁はどのように彼等の腹を満たしてきたのか。彼等は霞を食う訳ではないのだ。

「旦那は燕を離れていたから知らないかもしれないけど、おいら達は夜兎党やととうって呼ばれていて、それなりに有名なんだぜ」

「夜兎党…」
 皹割れた唇を動かし、その名を反芻する。

深更しんこうに突如現れ、脱兎の如き速さで、倉廩そうりんの穀物を奪い尽す。と云っても、俺達が奪うのは貧しい者達からじゃない。各地で私腹を肥やしている、役人か貴族共の蓄えさ」
 そして、五百の仲間で分けても余るほどの収穫であれば、各地で貧困に喘ぐ者達に分けて与えていたと、丁は語った。
 
如何な理由があろうとも人の財産を奪うことは、称賛に値する行為ではない。しかし、彼等はそうするしか生きていくことはできなかった。彼等が悪事に手を染めた理由を作ったのは、この国を破綻させた父と己を含む公族達。そして、子之にある。

「旦那。先も言ったが、おいらは旦那が帰ってくるのを信じて待っていた。だから、常においらの耳となり目となる仲間を、燕全域に放っていた」

「なるほど。だから、ああも都合良く、お前達が現れてくれたって訳か」
 丁は元々、負郭の情報通だった。彼は生来から、気配を消す術を知っている。加えて人あたりもよく、婉曲えんきょくに人から情報を引き出す術、人々の口端にのぼる雑説から、正しい情報を見極める術を身に付けている。間諜としては、天賦の才覚があった。

五百の仲間を得たことで、天賦の才覚が充分に活かされ始めたと云うことだろう。子之も同様に、燕全域に耳目を放っているはずである。子之の耳目より早く、己の存在を捉えた丁の耳目の方が遥かに優秀であるということだ。

「旦那に死なれては困るからな。西では公子職様が大義の旗の元、督戦しておられる。でも、公子職様の軍は、あくまでも子之の眼をそちらに向ける為の陽動だろ?」
 丁の聡さに驚愕した。元々、地頭の良い子であったが、四年の歳月は彼に肉体の成長を齎しただけではないようだ。

 姫平は創痍そういに笞を打ち、上半身を起こす。

「丁、この国を取り戻す為に力を貸してくれないか」
 勁い光に満ちた眼差しを、光輝を届けてくれた少年に向ける。

「ああ。当然だ。その為においらは此処にいる」
 満腔の笑みで、丁は答えた。

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