瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦

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破燕

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 四方に走る大通りの結節点に、市の広場がある。既に、広場には黒山こくざんが成している。

「どいてくれ!」
 無理矢理に人と人の隙間に、魁偉かいいをねじ込んでいく。
 
 罵倒が飛び交うが、今は構ってはいられなかった。やっとのことで最前列に出ると、姫平は眼を瞠った。百人余りの公族に連なる者が縄を打たれ、横一列に座している。その中には、公子、庶子、外戚、年端もいかない子供達の姿もある。つまり,悉く姞氏姫姓の者達が、今ここで処断されようとしている。

 縄を打たれた彼等の背後には、無感動な眼で群衆を見つめる兵士達の姿がある。兵士達の手は、剣把に添えられてる。老若男女問わず、己と遠かれ血を分けた者達、その肉親を徹頭徹尾、子之は滅ぼすつもりでいるようだ。
 
 憤怒で視界が朱に染まる。だが、慟哭する彼等の中に、父の姿はない。噛み締めた奥歯。鈍い音がし、歯が砕ける。醜悪な容貌の高官が数人の官吏を引き連れて現れた。飽食と日々の荒淫乱行が面に表れている。

高官は群衆を澱んだ眼で、一瞥すると、部下の官吏から封泥ふうでいされた木簡を受け取った。大仰な仕草で封泥を解き、木簡を広げる。

「罪状を告げる。其方達は、連綿と続く社稷を安んじ、迷える蒼生そうせいの規範となるべく立場にありながら、公族の権威を振りかざし、奢侈の限りを尽くし、我が国の財政を破綻させた。鼻祖召公奭が燕を興国して、七百年以上の歳月が経つ。しかし、長い年月の中で、召公奭の後胤こういんたる姞氏の者達は、為政者としての役目を忘却し、いたずらに濫費らんぴし、幾星霜と民を苦しめ続けてきた。たとえ此処に、鼻祖の血脈を断つことになろうとも、鼻祖は新王子之様の苦渋の決断を理解して下さるだろう。正義は大王の元にある!」
 高官は恍惚とした表情で、高らかに宣言した。
 
 瞬間、どっと歓声が沸く。この場に集まった、群衆は己達の貧しさを、目の前の公族達に押し付けて納得しようとしている。人の心は脆弱だ。だからこそ、己の不遇の責を、他人に押し付けたがる。そして、子之は人心掌握術に長けている。群衆は理解していない。此処数年で、燕が凋落に一途を辿っている原因を作っているのは、燕王を僭称する子之にあることを。
 
 歓声は耳をろうするほどのものになり、やがて群衆は狂気を帯び、一帯に禍々しい黒気が漂う。群衆は血に飢えた豺狼さいろうの如く、罪人の首を刎ねろと囃し立てる。
 
 高官が満足気に口吻を歪めると、天に掌を返した。合わせて兵士達が剣を、一糸乱れぬ動きで鞘から抜き放し、刀を鳴らした。

 姫平は怨顔おんがんを高官に向け、懐に忍ばせた匕首を握りしめた。勝算はない。だが、罪もない幼い弟や妹が殺されゆく様を、ただ眺めているだけなどできない。

「若」
 匕首を握りしめた手を、背後から現れた市被が掴む。

「分かっている。俺が此処で事を起こせば、子之の虚を突くことは難しくなる。それでもー。俺は」
 市被は唇を真一文字に結んだ、険しい顔で小さく頭を振った。

「既に準備は整っております」
 告げた、市被は腰に剣を佩いている。そして、四顧しこすれば、群衆に紛れた、三十の麾下の姿が。

「俺の無茶に付き合わせることになる。すまない」
 腕を掴んでいた市被の手が離れ、彼は眼許に微笑を湛えた。

「元より覚悟の上のこと」
 ありがとう。感謝の念が胸に溢れ、潮のように全身を赤く染めていた怒りが引いていく。
 
 気息を整え、機を窺う。高官は手刀を掲げ、振り下ろす。
 刹那。烈風が吹き抜けた。狂乱にのまれた一帯の狂気が、烈風に運ばれたかのように、僅かな間であるが、静寂が訪れた。

 気がいだ。そして、風は天の意思かの如く、姫平の背を押した。吶喊とっかんと同時に、麾下が群衆から飛び出した。
 
 咆哮し、姫平は匕首を抜いた。群衆の悲鳴。剣を抜き去った兵士達が、突如の敵襲に狼狽しながらも、迎え撃つ態勢を整える。

敵の数は周囲を警護する兵士達も含めて約二百。劣勢である。騒ぎを聞きつければ、瞬く間に増援がやってくる。

「兵士達をまともに相手にする必要はない!囚われた者達を逃がすことを優先させろ!」
 応!という声がほうぼうで返ってくる。
 

 劈頭へきとうを飾ったのは、姫平だった。一直線に高官の元に向かい、その喉元に匕首を突き立てた。
 
 血の華が咲き乱れる。能力はどうであれ、この場を取り仕切っていたのは、醜悪な高官であった。戦場と同じく、指揮官を失えば、軍の機能は暫しの間、麻痺する。電流のように兵士達に明らかな動揺が走るのを認めた。

「どけ!!」
 前方を遮る、二人の兵士と斬り結ぶ。同時に繰り出された斬撃。剣筋が定まっていない。剣に迷いが見えた。
 
 地を這うような低い体勢で躱す。蹴りで二人を崩し、反動で回転しながら宙を舞う、二本の剣を掴み、仰向けに倒れた二人の兵士の胸に突き立てる。返り血を拭い、駆ける。広間は逃げ惑う群衆と、あちこちで起こる死闘で混迷を極めていた。

二百の壁は、想像以上に厚い。眼前を遮る兵士を幾ら屠ろうと、次々にわいてくる。縄を打たれた者達は、肩を寄せ合い、恐怖に震えている。指揮官を失い、狼狽していた、兵士達も日々の訓練で獲得した適応力で、統率を取り戻しつつある。小隊の中に、仕切る者が現れ、各個撃破を叫ぶ。

呼応して、一人の麾下に対し、五人の兵士が同時に攻撃を仕掛ける。捕縛された公族達の元に届く前に、十名余りの麾下が既に討たれている。押し寄せる波濤の如き勢いの兵士達の攻勢にのまれていく。二本の剣を振るう姫平は、無数の浅手を受けながら、繰り出される剣戟を躱し、防ぎ、足を一歩一歩踏み出していく。

「ぐっ」
 短い悲鳴が漏れる。右脇腹を刃が貫いた。致命傷ではない。だが、生暖かい血が麻の衣に拡がっていくのを感じた。脇腹を貫いた兵士の伸びた手を咆哮と共に両断し、首を刎ね上げる。

(まずい)
 猛攻に晒され、既に躰は鉛のように重い。浅手と先に受けた傷からの流血で、視界が暗くなっていく。
 
 更に情況は悪化する。四方の大通りから増援が駆け付けてくる。その数、百。合流されれば、瞬く間に二十名余りとなった麾下は討たれてしまう。己の浅はかさにほぞを噛む。

血風乱舞の中で、懸命に剣を振るう、市被の姿がある。腹背から迫る斬撃をもろに市被は受ける。苦痛にのけぞるも、鬼気を纏った形相で返す刀で斬り伏せる。最早、疲労の極みに達している麾下達は、揮霍撩乱きかくりょうらんの態であった。姫平は朱色に染まる天を呪った。世の理をただそうとする者達に、救いの手を差し伸べず、傍観者に徹している天を。
 
 よろめく姫平を十人の兵士が囲う。一斉に突き出される戟。防ごうともがくが、もう腕は動かない。

(すまない。職…。愚かな兄を許してくれ)
 天を仰ぐ。自嘲した。天を憎みながら、心の何処かでは、天に向かって、弟の無事を祈念する己がいる。
 
 刹那。まるで姫平を守るように、颶風ぐふうが吹き荒れる。突き出された戟が、颶風にあおられ、宙を向く。熟れた果実のような優しい甘い香りがした。

 突如、吶喊が起った。麾下のものでも、増援の兵士達のものでもない。逃げ惑う群衆の流れに逆らうように、被帛で口許を隠す、新手が兵士達に襲い掛かる。矢が降り注ぎ、姫平を囲う兵士達がばたばたと斃れていく。

「之は」
 被帛姿の新手達は、具足ではなく、一様に粗末な衣服を纏い、装備も軍隊のように統一されていない。だが、彼等は強かった。予期せぬ新手の出現に、統率が乱れた兵士達に、躊躇なく刃を突き立てていく。

「捕縛された公族を解放せよ!」
 新手を統率している者なのか、乱戦の最中、誰かがそう叫んだ。声は瑞々しく、張りがある。その声で姫平は我に返る。

「訊け!解放された者は、都を出、西へ逃げよ!」
 西には姫職がいる。彼等を見つけ次第、姫職が保護してくれるだろう。
 
 縄を解かれた者達が、蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。ふっと安堵の息が漏れた。すると、全身から力が抜けていく。乱戦はまだ続いている。じきに増援と合流した、兵士達が勢いを取り戻すはずだ。新手が如何なる者達でも、訓練を受け、装備を整えた兵士達に、正面からの力の押し合いでは勝てない。

「利星の旦那!」
 へたり込む己を呼ばわる声がした。傍らに被帛姿の男が屈む。眼許は少年のように若い。

「お前は誰だ?」
 そう問うのがやっとだった。血を失い過ぎたせいか、意識が朦朧としている。若者が被帛を外す。視界が闇に覆われつつある。暗闇の中で、若者の皓歯が浮き上がって見えた。

「旦那。捕縛された者は、皆逃がした。もう安心していいよ」

「そうか…それはよかった」
 意識に至るまで闇がのみこもうとしている。

「仲間を退かせろ…もう戦う必要はない」
 若者の細い腕を掴む。

「うん。旦那、安心して今は眠ってくれ。今度はおいらが旦那を助ける番だ」
 声も容貌も、己が知る丁のものではない。
 
 なのに、

「ああ。ありがとう。丁」
 自然に丁の名が零れた。
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