瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦

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破燕

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 隈なく負郭内を探したが、娼館の主人である石鵲と丁の屍は見当たらなかった。やはり、兵として徴兵されたのかもしれない。姫平が燕を去って、四年の月日が経っているのだ。当時、丁は十二歳の少年であったが、今は十六歳になっている。もう壮年と云える歳であり、徴兵されていてもおかしくはない。

丁を含む、負郭の貧民達が徴兵され、戦場に赴いているのならば、今頃、彼等は姫職率いる三万の軍勢と干戈を交えているということになる。しがない商人に身を窶した姫平は薊の正門前で、戦雲漲る西の空を仰いだ。

(頼む。天の加護が存在するならば、無辜むこの民等を守ってやってくれ)
 墨を暈したような灰色の空に祈りを捧げると、薬草が入った行李こうりを背負い直す。
 
 正門前には商いを求める、商人達の列ができている。戦時下であっても、都では物が動く。何より城郭内には、外に住まう負郭の貧民達と違って、裕福な者が多い。国内で起きている騒擾だと云うのに、恐らく富裕層の人間は、対岸の火事程度にしか物事を捉えていない。都は堅牢な城壁に守られているから、安全だと高を括っている。公族や貴族にとって、自身の身に火の粉がかからなければ、国内の騒擾など些事である。

商人が作る列には、同じく商人に身を窶した市被や麾下の姿がある。彼等の懐には、誰何する兵士に握らせる為の賄賂がある。賄賂を握らせてやると、円滑に事は運んだ。情けない限りである。銭さえ与えてやれば、ろくに身元も確認せずに、兵士達は商人達にしては屈強な男達を城内へと入れた。

姫平を誰何した兵士からは、酒精が漂っていた。祖父の御代には、之ほど軍は腐りきってはいなかった。父が譲位し、子之が王となったことで、この国は猖獗しょうけつを極めている。

(たったの四年で国はこれほどに様変わりするものなのか)
 黒いおりが胸を満たす。
 
 燕の鼻祖びそである召公奭しょうこうせき以後、七百年以上も連綿と受け継がれてきた社稷が、愚かな父と底無しの欲望を持つ子之の聾断ろうだんにより断たれようとしている。
 
 視界が怒りで赤に染まる。

「殺気を抑えて下さい」
 市被が歩み寄り、耳語する。

「今はまだその時ではありません」

「分かっている」

「まずは策を練り直しましょう。予想通り、兵の数は少ないようですが、あてが外れた我々には、新たな策が必要です」
 市被の云う通り、城郭内を巡回する兵士の数は疎らである。

「ああ」
 人目を気にしながら、姫平は肯首した。
 
 市被と共に大通りを逸れ、城郭の西側にある閭左りょさと呼ばれる区画に入った。閭左は謂わば、庶民が暮らす区画である。負郭と打って変わって、此方は人でごった返していた。

子之は身分の低いものから、兵として徴兵しているようだ。負郭の者達や奴隷、ひなびた地に生きる者達がそうだろう。人員が足りなければ、庶民達も同様に、兵として徴兵される時が来る。だが、通りを行き交う人々には、緊迫感はない。

一歩外に出れば、貧民達の女、子供は飢え死に、野天に屍を晒していると云うのに。貧民は城郭街の負郭だけでなく、正門前に架かる橋の元で屯していることが多い。活計たっきを得ることができない、子供や老人、障がい者達が物乞いを行うのである。しかし、正門を潜った時、彼等の姿は消えていた。だが、庶民達は気にする素振りもなく、普段と同じように振舞っている。どの国でも、貧民の命は家畜より軽く扱われる。公族、貴族だけでなく、庶民から見ても、彼等はなべて畜生以下の存在なのである。

 姫職は言った。命に貴賤はないと。その通りである。命に貴賤がないと同様に、命に軽いも重いもない。命の貴賤の概念があれば、元は貧民である母から産まれた、己は賤しい。くだらない悪しき思潮である。この国を奪い返した暁には、姫職と共に、既存の概念を根本から創り変えてみせる。

「此方へ」
 市被の案内で、閭左の最奥にある家屋に入った。埃が舞った。長年、人の手は加わっていないようであった。
 板の間に上がり、市被が埃を払ってくれた場所に、腰を下ろす。

「麾下達は?」

「既に市井の者達に紛れています。合図一つで合流することが可能です」
 表情一つ動かさず、同じように市被も腰を下ろす。
 
 家屋を囲うように、数人の気配がある。己を警護する為の者達だろう。今はまだ子之に、此方の動きが気取られてはいないが、奴も阿呆ではない。耳目を市井に放ち、少しでも不穏な気配があれば、耳に入るように体制を整えているはずだ。

「さて、困りましたな」
 出っ張った額に皺を寄せ、市被が嘆息した。
 
 負郭の戦力となりうる男達が、一人残らず徴兵された今、頼りの与力を失ったと云っていい。勿論、姫平は訓練を受けていない彼等を、戦場に引き摺り出すつもりはなかった。ただ、城郭内で騒ぎを起こしてくれればよかった。その隙に、姫平は宮廷内に侵入すると云う算段であった。勝手知ったる宮中のことである。忍び込んでしまえば、後はどうでもなる。

策を練り直す必要がある。しかし、手を拱いている時間はない。今もこうしている間に、双方の軍は、益のない戦で万斛ばんこくの血を流している。

「どうする」
 自問自答するように呟く。だが、悶悶と虚しく時だけが過ぎていく。

「埒が明かない。外の空気を吸ってくる」
 腿を叩いて、姫平が立ち上がろうとした時だった。
 
 突如、家屋の外からかまびすししい騒ぎ声が聞こえた。顔を見合わせる。姫平は行李に積み込んだ薬草に腕を突っ込み、匕首を掴んだ。

「何の騒ぎだ?」
 市被と共に、外へ出て、家屋の周りを警護していた麾下の一人に尋ねる。

「喧噪は市場の方からです。何が起きたまでかは」
 麾下の者も情況も掴めていないようである。

「おい!」
 市場がある大通りの方に向かおうとする、若い男を呼び止める。

「この騒ぎは?」
 男は逸っているのか、呼び止められ苛立ちを募らせている。見れば、閭左の人々はこぞって駆け足で、大通りへと向かっている。

「之だよ」
 言うと、男は手刀で自らの首を刎ねる仕草をして見せた。
 姫平は眼を眇める。

「処断されるのか。一体、誰が?」

「知らないのか?公族の連中だよ。と云っても、前王は譲位したから、もう連中は正式には、公族ではないけどな」
 皮肉めいた口調で男は告げる。

「何だと!」
 姫平は瞳孔を開き、男の肩を力強く掴んだ。

「いてぇよ」
 乱暴に男は、掴んだ手を振り払う。

「何故、そのようなことがー」
 喪心する姫平を、男は訝しむ。

「俺がそんなこと知るかよ」
 もう俺は行く。と狂気に満ちた気の残滓ざんしだけを残して、男は去って行く。

「お気を確かに」
 市被の硬い手が肩に触れ、中空を漂っていた意識が戻ってくる。

「あの野郎。己の地位を盤石にする為に、きつ氏の者を一人残らず葬り去るつもりだ」
 王宮に隣接する、公宮には、公子、庶子、外戚、その家族が数多く住んでいる。公宮に住んでいた姫平ですら、その正確な数を把握できていない。恐らく軽く見積もって、公子、庶子の家族を含めれば、その数、百を超えるだろう。その中には、姫平の異腹の兄や弟もいる。世継ぎの姫職を除けば、基本的に安逸を貪るだけの道楽者が多いが、首を刎ねられるだけの悪行は重ねていない。

「子之…。何処まで非道なのだ」
 握る拳からは血が滴り、怒りによって煮えるが血が地面に垂れ、蒸発する。

「早まってはなりません。今、貴方が事を起こせば、瞬く間に囚われ、貴方も市に首を晒すことになる」
 市被の冷静な言い様が、更なる怒りを誘う。

「異腹の弟、妹には幼い者もいる!」
 破鐘の如き声で叫ぶ。行き交う数人が、足を止めたが、気にしなかった。

「罠かもしれません。既に子之は、此方の動向を掴んでいて、貴方を誘き出す為にー」

「だとしても、俺は行く!もう力のない、女、子供が死んでいくのは見たくない」
 頭の中では理解している。市被が正しいと。だが、天を衝くほどの激情を、もう自分では止めようがなかった。

「若!」
 市被の制止の声も聞かず、姫平は踵を返し、駆け出していた。
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