瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦

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庶子の帰還

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 副都である下都に辿りつく前での間、幾つかの都邑を見て廻った。何処も凄惨な様相であった。従来、国が取り立てる税は、十分の一が理想とされ、徹法てっぽうと呼ばれていた。易王の代以前から、燕も徹法を理想形とし、何百年と揺らぐことはなかった。
 
 だが、父である燕王かいが君主となり、子之が専横を極めるようになってからは、税率が十分の三に。更には、子之が燕王となってからは、十分の六まで税を引き上げている。
之では、民の元に残る実りはほんのわずか。夫婦だけの家族ならばともかく、子や年老いた両親を抱えている家族では、到底厳しい冬を越すことはできない。加えて、都邑を取り纏める官衙かんがでは不正が瀰漫し、難癖をつけて、貧しい民から実りを奪っている。

どの都邑もそのような有様だったから、本格的な冬の到来を前に、城門前には餓えて死んだ者達の屍が堆く積まれており、命からがら生き永らえている者達でも、眼は虚ろで大分が痩せこけ、路頭で死を待つだけであった。副都である下都でさえ、城門前には生きる気力を失くした者達が屯し、城郭の外には、助けを求めてやってきた難民達が蝟集していた。

 下都の宮門前に、帰還した姫平一行を待つ三人の姿があった。

「兄上!」

「若!」
 姫平の鼓動は早鐘を打った。弾かれるように鞍から飛び降り、二人に駆け寄った。

「職!秦殃しんよう!」
 三人は涙を流し、抱擁を交わした。弟の姫職と秦殃は随喜の涙をこもごもと流す。

「息災か?二人とも」
 莞爾と笑う姫平も頬を濡らしている。

「若。御帰還を心から喜ばしく思います」
 無骨な軍人然とした市被しひは、眼許だけに笑みを湛えて告げた。
 
 姫平は二人を抱き寄せたまま、「感謝する、市被将軍。弟を護ってくれて」
 と告げた。

「子之は王位を掠め取った簒奪者です。王の後胤こういんの一助となるのが、軍人の務めなれば」
 市被の生真面目さにふっと笑みが滲む。

「兄上。申し訳ございません。私はこの国をー。民を子之の魔手から護り切ることができませんでした」
 兄を見上げる弟の眸は、悔恨と己への怒りで真っ赤に染まっていた。

「いや、お前はよくやったよ。副都である下都を抑えることができただけでも上出来だ。下都を拠点に、薊の軍勢と戦うことができる」
 訊けば、下都は子之派閥の太守が掌握していたそうだが、宮殿から逃れた姫職一行は、
一万の手勢を率いて、いの一番に下都攻略に乗り出した。下都に至るまでにも、城郭を持つ都邑はある。だが、あえて姫職は他の都邑を奪取することを放棄し、副都を狙った。

副都故に守りは堅牢で、常に二万の城兵は控えている。太守には慢心があり、まさか一万の手勢で姫職達が、下都奪還の乗り出してくるとは思わなかった。市被が僅かな手勢で城内に侵入し、城門を開くと、一万は下都に雪崩込み、太守を斬り、瞬く間に城市を掌握したと云う。

 一行は下都の官衙へと向かった。その道中も、路傍には飢えて死を待つだけの民が至る所に横臥している。彼等を見遣る姫職の顔は、悲痛に歪んでいた。官衙の一室を、軍議室として使用しているようで、姫平は適当に空いている場所に腰を下ろし、「訊こう」と放つ。

「では、私が」
 と市被がいかつい顔を更に引き締め、雄健に頷いた。

「双方の兵力は?」

「我等の兵力はせいぜい三万。勿論、周辺の都邑から義勇兵を募ってはおりますが、民はその日食うものにもありつけぬ始末。期待はできませぬ」

「当然だな。で、あちらの兵力は?」

「薊には民から無理矢理絞り上げた潤沢な食糧があります。現在、薊近辺に駐屯する兵力は六万。しかし、子之は食糧を餌に、民を釣ろうとしています」
 民はなべて飢えている。彼等から必要な食糧を奪ったのは子之だが、背に腹は代えられない。彼等は子之が用意した餌に釣られ、軍に加わることだろう。

「六万が十万―。いや。もっと膨れ上がるか」
 姫職から嘆息が漏れる。

「此方の蓄えは?」
 問うたのは夏雲である。

「城下の様子を目の当りにされたであろう。あれが下都の現状です。兵士達にも一日一食の配給が限界なのです」
 苦虫を嚙み潰したような顔で、市被は言った。見れば、姫職、秦殃、市被も以前より窶れている。彼も平等に食い扶持を減らしているのだろう。

「周辺諸国に救援の要請は?」

「勿論、書簡は送っています。しかし、何処も旗幟を明らかにせず、日和見を決め込んでいます」
 答えたのは、姫職である。苦笑すると、乾いた咳を鳴らす。
 
 生来、姫職は病弱である。咳が出始めると、止まらなくなることが多々あり、熱に魘され、数日間、寝たきりになることはざらであった。暫く咳が続き、おさまる頃には、姫職の顔は蒼白く、唇は紫色に変色していた。

「大丈夫か?」
 秦殃が彼の細い体躯を支え、姫平が弟の顔を覗き込む。

「大事はありません。続けます」
 目笑を浮かべる。

「では、秦はどうだ?」
 姫平は弟の意を汲み、話を元に戻した。
 
 祖父である燕の易王は、秦より恵文王けいぶんおうの公女を妃に迎えている。つまり、燕と秦は婚姻関係にある。之には秦が燕を味方に引き入れ、斉に対抗しようとの目論見があった。
 
 姫職は長い睫毛を伏せた。

「そうか」
 期待薄ではあった。今は争乱の時代。背景には蜘蛛の糸の如く、絡み合った各国の思惑がある。仮に秦が燕の救援の為に動けば、斉が其れを防ごうと躍起になる。加えて秦は中原諸国から蛇蝎の如く嫌われている。斉がひとたび、同盟の動きを見せれば、秦と国境を接しているが故に、辛酸を舐め続けてきた、韓・魏が秦に対抗する為に動きだす。

ましてや、秦が燕の内戦に介入するには、韓・趙の地を通らなくてはならない。秦の軍勢が無傷で、北辺の燕に辿りつくことは不可能に近いと云える。今は日和見を決め込んでいる諸国が去就を明確にするまでの刻もない。下都勢には兵糧の余裕もなく、北に東胡、楼煩と云った蛮族の敵も抱えている。北の国境付近の守りが機能していない今、奴等が燕に侵略し、好き放題に略奪を働く可能性もある。

「万事休すか」
 姫平は舌を打った。現状国内だけの敵でも強大であるのに、四方八方に敵を抱えている。一つでも判断を誤れば、恐らくこの国は、瓦礫の山となる。

「刻、兵糧も残されてはいない。対する敵は、二倍以上の兵力を抱えている」
 言葉に出しながら、情況を整理する。一つ一つ現実が整っていく毎に、置かれている情況が如何に絶望的であるかを痛感する。
 
 銘々の表情が昏くなっていく。

「だが、恐らく子之は俺が燕に帰還したことをまだ知らない」
 斉は己が薛から脱出した事実を伏せていると予測できる。燕が存続している限り、己には人質として価値はあった。その価値のある人質を、みすみす逃してしまったなどとは、斉も大っぴらにはできまい。ある一つの策が、頭の中で輪郭を帯び始めていた。

「情況は最悪だ。しかし、諦めるにはまだ早い」

「兄上。何か策があるのですか?」
 姫平は指を鳴らし、破顔した。

「速戦かつ敵の虚を突く」
 膝を力強く叩き立ち上がり、中央の卓に拡げられている地図を見つめた。自然に皆が、中央に集まってくる。

「まず全兵力を以って、薊の軍勢を此処に引き付ける」
 姫平が指を指したのは、下都から東に百里の位置。幾つかの分水嶺を挟んでいるが、薊との距離が約二百里なので、ちょうど両都の中心にあたる。

「若、正面から二倍以上の兵力を有する敵とぶつかるのですか?正気とは思えませんが」
 之には秦殃が反駁した。

「急かすな、秦殃。あくまで三万の軍勢は陽動に過ぎん」

「三万が陽動ですか」
 あまりに奇抜な策に、銘々が唖然としている。

「そうだ。薊の軍勢を本隊が引き付けている間に、俺が最低限の人数を率いて、薊に潜入する。生きていればだが、城下の者には、俺を知る者も少なくない。きっと俺に力を貸してくれるはずだ」

「兄上、危険過ぎます。子之は我等と違い、薊にも充分な兵力を残しているはず」

「何も片っ端から兵士共を相手にする訳ではない。枢要すうようなのは、敵の注意を引き付け、迅速かつ確実に、お山の大将の寝首を掻くこと。奴等は一枚岩ではない。子之の首さえ奪れば、容易く瓦解する。ついでにあの馬鹿親父も斬り捨ててやる」
 場に静寂が訪れる。皆があらゆる可能性を探っている。だが、直ぐに自家撞着じかどうちゃくに陥り、姫平の提示した策こそが最善だと至る。

「夏雲、お前は北に向い、秦開を呼び戻せ」
 この時を待ってましたとばかりに、夏雲は覇気の満ちた拱手を見せた。

「下都には千の守兵を残し、職に指揮を執らせる。秦殃は職を警護せよ。市被将軍は三万の軍を率いて、薊から迫る大軍にあたって欲しい」
 楽な役回りなどない。皆が一様に苦境に立たされる。だが、紛い物ではなく、純血の後胤である姫職を失う訳にはいかない。たとえこの無謀とも云える策が失敗に終わり、己が死んでも、姫職が生きている限り、燕の社稷は絶えることはない。

己と市被が討たれ、薊の本隊が下都に迫れば、姫職は秦殃と共に落ち延びてもらうしかない。険しい道のりであろうが、婚姻関係にある秦ならば、姫職に手を差し伸べてくれるはずだ。

「嫌です!」
 突然、姫職が声を張り上げた。
 
 細い眉は吊り上がり、眦は裂けんばかりに見開かれている。姫平は吃驚した。弟がこれほどまでに、兄である己に強く反駁したことはなかった。

「兄上、市被、そして、私の元に集ってくれた民や兵士が命を懸けて、無二の一戦に望もうとしているのです。なのに、私には、万が一の場合に兵や民を捨て、落ち延びよと申されるのか」
 瞬くもせず、弟は兄を見据える。その眸には、涙が溜まっていく。

「私も秦殃も、斯様な策は承服しかねます」
 真一文字に唇を結んだ、秦殃を見遣る。秦殃は言葉なく、勁い表情で賛意を示している。

「理解して欲しい。お前には純然たる王の血が流れている。俺とお前の命では価値が違う。お前が生きている限り、捲土重来けんどちょうらいときは来る」 
 姫平は諭すように、弟の震える細い肩に手を置いた。

「命に優劣などありはしない!!!」
 凄まじい力で手を払う。この文弱の弟の何処に、そのような力が秘められていたのか。衝撃が総身に走る。呆然と立ち尽くす兄をねめつけ放つ。

「高貴な者であっても、貧しき者でも、命の重さは等しい。其れは、誰よりも兄上が理解しておられるはず。故に貧しき者達に施し、一人でも多くの命を救おうと奔走しておられたのではないのか!」
 姫職の言霊が、雷撃のように胸を打つ。

「兄上―。死ぬ時は私も一緒です。私は全身全霊を以って、兄上とー。仲間達とー。そして、私を慕ってついてきてくれた民達と戦いたい」
 堪え切れずに姫職が滂沱の涙を流す。
 
 何も分かっていなかった。病弱であるが故に、己は常に彼の父の如く振る舞い、彼を守る保護者であり続けた。だが、過剰なまでの庇護は、逆に彼が裡に秘める、勁さを殺していたのかもしれない。不為ふためを働いた己を恥じる。

顔を涙で濡らす弟の姿は、気高さに満ちていた。彼には世継ぎとして、この国と共に殉ずる覚悟がある。きっとその覚悟は、最近になって芽生えたものではない。幼い頃から、彼が胸に秘め続けていた覚悟だ。

 姫職を支える、秦殃が眼差しで訴えかけてくる。
 
 長い嘆息が漏れる。辟易とする。この勇敢な弟を、一人前の男として見ることができなかった己に。姫平は自分を殴ってやりたいたくなった。

「ああ、そうだな。お前の云う通りだ。命に優劣はなく、王の血を継承するお前には、この国の最期を見届ける義務がある。燕の王として」

「燕の王―」
 涙で塗れたまま、真っ赤に染まった眼を向けた。

「王位を子之に与えた父に王の資格はなく、禅譲などとほざいてはいるが、子之のやったことは簒奪と変わらない。仮初の玉座に座する偽王だ。だが、お前は違う。清き心を持ち、連綿と続く燕の君主の座を継承するに相応しい男だ。大義は真の王を戴く、我等にある。今日より、俺はー。いや、私は貴方を御支えする臣下となろう」

「しかし、御爺様は貴方に護国の剣を託したのです」

「護国の剣は、もう私の手許にはない。それに集った兵と民は、貴方を慕い、戦う覚悟を決めたのです」
 濡れる眼許を拭った、姫職の眸に迸る光がある。
 
 内心、諦念があった。自己を犠牲にし、弟を逃がすことで、己を納得させようとしていたのかもしれない。だが、姫職の不退転の覚悟が、不屈の闘志を齎した。

 祖父の易王は、己が王に相応しいと、護国の剣を託した。伝承など知ったものか。流れる血も志も器も遥かに弟の方が巨きいものを持っている。

(俺は職を燕の王にする)

「大王よ。もう下都に残れとは言わない。三万の兵を自ら率い、兵を鼓舞し、敵を引き付けて頂きたい」
 姫職が王を僭称せんしょうすれば、間違いなく子之は憤る。全兵力を此方に差し向けくるはずだ。その分、薊、北辺の守りは手薄になる。北には燕奪還の帰還を、息を潜めて虎視眈々と窺っている、秦開の存在がある。

「その任、しかと承りましょう」
 姫職が兄の手をとり、自らの手で包む。その手は、火焔を宿したかの如く熱い。

「兄上、市被を連れて行って下さい。必ず彼の力が必要となります。敵は秦殃と私で、引き受けます」
 王の言である。姫平は諾と受け入れた。

「生きて会いましょう、兄上。死んではなりません。之は王命です」
 姫職が無邪気に笑った。
 
 強く頷き、火照る掌の中に、勝利への祈りを込めた。

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