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庶子の帰還
三
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燕王を王位から退かせ、子之は王座に就いた。そして、纏うのは燕国に連綿と受け継がれる三種の神器の一つである白虎裘。玉座に座しながら、子之は虚ろな眼で二つめの神器である烏号を掲げる侍中を見遣る。
朝会の最中、階の下で老齢の高官がもごもごもと口を動かしている。まるで意識が暈を纏っているかのように、高官の声は響いてこない。高官の口が開く度に露わになる、不潔な黄色い歯が気になった。距離は離れているが、死んだ魚のような口臭が流れてくる。脇息に凭れかかる子之は、指で鼻をつまみ、侍中を近く呼び寄せ、耳語した。
「あの者を処断せよ。不潔かつ臭い。目障りだ」
すぐさま衛兵が駆け付け、高官を大広間の外へと引き摺り出していった。
高官は何かしきりに喚いていた。涙を流し、許しを乞うていた気がする。空疎な眼で高官が連行される様を眺める。百官達は顔を伏せ、次は己の番が来るのではないかと、慄いていた。己に仕える臣下が、気紛れで死ぬ。何の感慨も湧かなかった。階の下で控える、宰相の鹿毛寿を見遣る。
「後は任せる」
短く宣うと、子之は白虎裘を翻し、踵を返した。
銅鑼が退出を報せる。百官達が一斉に額ずいた。
王の居室に戻ると、しつこいくらい焚き付けた香の匂いが充満していた。香炉は居室内の至る所に置かれ、白い煙が天井に向かっていとひく。
子之の行く所、常に香は焚かれ、纏う装束にも香の馥郁とした匂いが焚き付けてあった。侍中が手際よく、白虎裘を脱がしていく。子之は呆然と、侍中の手の動きを目で追う。
夜着に着替え終わる頃には、子之は苛立っていた。常に纏わりつく、香の匂いが心底嫌いだった。だが、香の匂い無くしては、己の正体を暴かれるような気がして、手放せなかった。
「後宮へ向かう」
「御意」
居丈高に告げると、侍中ははきと返事をする。
膝行で侍中は、居室内に立て掛けられていた、剣を執り、子之の前に掲げた。子之は奪い取るように、剣を掴んだ。
寝所へ入ると、夜伽を命じられた女が、宦官の案内で入ってきた。女は白い肌着姿で、恥じらいを頬に滲ませていた。歳の頃は十八歳くらいだろうか。まだ稚さが全体的に残っている。
宦官が華燭に灯る火を消した。今宵は空に厚い雲がかかっている。開け放った窓から入る光は侘しく寝所は闇に覆われる。
「此方へ」
と天蓋付きの牀の上で、女を手招く。
女の緊張と期待が入り混じった、丸い吐息が漏れる。女はゆっくりと歩みよってくる。天蓋が揺れた。女の手を引き、導く。手は火照り、微かに震えていた。慣れた手つきで肌着を脱がせる。女の柔肌に優しく触れる。子之は自らも肌着を脱ぐ。そして、徐に牀の上で立ち上がった。暫しの間、うぶな女を抱き寄せることなく、そうしていた。
「大王様?」
困惑した女が暗闇の中で眼を凝らす。
その時、窓の外の雲が晴れ、蒼白い月光が寝所内に差した。瞬間。悲鳴が上がる。
「私を醜いと思うか?」
女の視線は、己のまたぐらに注がれている。
「醜いなどと」
稚けな眼に、哀れみと蔑みが浮かぶ。言葉で繕うことは出来ても、目は口ほどにものを言うことを知っている。
子之は失った右耳を指でなぞり、やがて蓄えて髭に指を走らせた。指に力を込め、髭を引っ張る。すると、髭はとれ、白い肌が露わになった。続いて眉である。指でつまむと、眉毛は容易くとれる。凹凸のないつるりとした容貌に変わる。
「之が私の本当の姿だ」
女は怯えていた。まさか、この国の王となった者が、人外と蔑まれる者の一人だったとは思いもしなかったのだろう。
女の涙を湛えた眸に映る自分。なんと醜いことだろうか。王座を得、全てが思うままになったー。なのに、己の裡にある飢えと渇きが満たされることはない。かつて闇から覗いていたそれは、今やはきとした容を持っている。
餓狼―。その卑しい獣は体毛を逆立て、双牙を剥き出し、獲物にありつける時を今か今かと待っている。極の位に立ったことで、見据える獲物を失い、手当たり次第に餓狼は食らい尽そうとしている。子之は枕許に置いていた護国の剣を掴んだ。ゆっくりと刃を抜き去る。露わになるには、錆びた刃。
おかしい。姫平が己の耳を断った時に魅せた、あの刃の輝きを護国の剣は、子之の許では魅せない。まるで呼吸を止めているかのように、静まり返っている。
王となり、象徴とも云える護国の剣を手中におさめたのならば、この飢えは満たされるはずだった。だが、どうだー。むしろ飢えと渇きは、更に己を苛み、蠱毒の如く、己の心を蝕んでいる。このままでは、手に入れた全てを自身の手で破壊しかねない。黒い激情は渦巻き、己を吞み込まんとしている。
子之は双眸に妖しい赤い光を湛えて、錆びた剣を女めがけて振り下ろした。
短い悲鳴。鈍い音。斬れ味が悪く斬れない。頭から血を流した女は、まだ生きている。
助けを求める声。間断なく何度も何度も振り下ろす。返り血を全身に浴び、血の臭気が立ち込めてくる。刹那の間だ。だが、狂気に染まった子之の裡にある餓狼の飢えは満たされていた。だが、直ぐに飢え、渇く。この餓狼は止まらない。この国を血で染め上げるまで。
朝会の最中、階の下で老齢の高官がもごもごもと口を動かしている。まるで意識が暈を纏っているかのように、高官の声は響いてこない。高官の口が開く度に露わになる、不潔な黄色い歯が気になった。距離は離れているが、死んだ魚のような口臭が流れてくる。脇息に凭れかかる子之は、指で鼻をつまみ、侍中を近く呼び寄せ、耳語した。
「あの者を処断せよ。不潔かつ臭い。目障りだ」
すぐさま衛兵が駆け付け、高官を大広間の外へと引き摺り出していった。
高官は何かしきりに喚いていた。涙を流し、許しを乞うていた気がする。空疎な眼で高官が連行される様を眺める。百官達は顔を伏せ、次は己の番が来るのではないかと、慄いていた。己に仕える臣下が、気紛れで死ぬ。何の感慨も湧かなかった。階の下で控える、宰相の鹿毛寿を見遣る。
「後は任せる」
短く宣うと、子之は白虎裘を翻し、踵を返した。
銅鑼が退出を報せる。百官達が一斉に額ずいた。
王の居室に戻ると、しつこいくらい焚き付けた香の匂いが充満していた。香炉は居室内の至る所に置かれ、白い煙が天井に向かっていとひく。
子之の行く所、常に香は焚かれ、纏う装束にも香の馥郁とした匂いが焚き付けてあった。侍中が手際よく、白虎裘を脱がしていく。子之は呆然と、侍中の手の動きを目で追う。
夜着に着替え終わる頃には、子之は苛立っていた。常に纏わりつく、香の匂いが心底嫌いだった。だが、香の匂い無くしては、己の正体を暴かれるような気がして、手放せなかった。
「後宮へ向かう」
「御意」
居丈高に告げると、侍中ははきと返事をする。
膝行で侍中は、居室内に立て掛けられていた、剣を執り、子之の前に掲げた。子之は奪い取るように、剣を掴んだ。
寝所へ入ると、夜伽を命じられた女が、宦官の案内で入ってきた。女は白い肌着姿で、恥じらいを頬に滲ませていた。歳の頃は十八歳くらいだろうか。まだ稚さが全体的に残っている。
宦官が華燭に灯る火を消した。今宵は空に厚い雲がかかっている。開け放った窓から入る光は侘しく寝所は闇に覆われる。
「此方へ」
と天蓋付きの牀の上で、女を手招く。
女の緊張と期待が入り混じった、丸い吐息が漏れる。女はゆっくりと歩みよってくる。天蓋が揺れた。女の手を引き、導く。手は火照り、微かに震えていた。慣れた手つきで肌着を脱がせる。女の柔肌に優しく触れる。子之は自らも肌着を脱ぐ。そして、徐に牀の上で立ち上がった。暫しの間、うぶな女を抱き寄せることなく、そうしていた。
「大王様?」
困惑した女が暗闇の中で眼を凝らす。
その時、窓の外の雲が晴れ、蒼白い月光が寝所内に差した。瞬間。悲鳴が上がる。
「私を醜いと思うか?」
女の視線は、己のまたぐらに注がれている。
「醜いなどと」
稚けな眼に、哀れみと蔑みが浮かぶ。言葉で繕うことは出来ても、目は口ほどにものを言うことを知っている。
子之は失った右耳を指でなぞり、やがて蓄えて髭に指を走らせた。指に力を込め、髭を引っ張る。すると、髭はとれ、白い肌が露わになった。続いて眉である。指でつまむと、眉毛は容易くとれる。凹凸のないつるりとした容貌に変わる。
「之が私の本当の姿だ」
女は怯えていた。まさか、この国の王となった者が、人外と蔑まれる者の一人だったとは思いもしなかったのだろう。
女の涙を湛えた眸に映る自分。なんと醜いことだろうか。王座を得、全てが思うままになったー。なのに、己の裡にある飢えと渇きが満たされることはない。かつて闇から覗いていたそれは、今やはきとした容を持っている。
餓狼―。その卑しい獣は体毛を逆立て、双牙を剥き出し、獲物にありつける時を今か今かと待っている。極の位に立ったことで、見据える獲物を失い、手当たり次第に餓狼は食らい尽そうとしている。子之は枕許に置いていた護国の剣を掴んだ。ゆっくりと刃を抜き去る。露わになるには、錆びた刃。
おかしい。姫平が己の耳を断った時に魅せた、あの刃の輝きを護国の剣は、子之の許では魅せない。まるで呼吸を止めているかのように、静まり返っている。
王となり、象徴とも云える護国の剣を手中におさめたのならば、この飢えは満たされるはずだった。だが、どうだー。むしろ飢えと渇きは、更に己を苛み、蠱毒の如く、己の心を蝕んでいる。このままでは、手に入れた全てを自身の手で破壊しかねない。黒い激情は渦巻き、己を吞み込まんとしている。
子之は双眸に妖しい赤い光を湛えて、錆びた剣を女めがけて振り下ろした。
短い悲鳴。鈍い音。斬れ味が悪く斬れない。頭から血を流した女は、まだ生きている。
助けを求める声。間断なく何度も何度も振り下ろす。返り血を全身に浴び、血の臭気が立ち込めてくる。刹那の間だ。だが、狂気に染まった子之の裡にある餓狼の飢えは満たされていた。だが、直ぐに飢え、渇く。この餓狼は止まらない。この国を血で染め上げるまで。
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