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偽王
二
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「おう。起きたか」
眼を醒ますと、見慣れた天井があった。
全身が酷く痛んだ。上半身だけを起こすと、隣で酒を呷っている男がいる。
「之で百戦百勝だな」
かかっと姫平は屈託なく笑う。股を広げ、満々と注がれた椀の酒を呷る姿からは、虜囚としての悲愴感は感じない。
「私はまた敗けたのですか」
言葉を己で噛み締める。血が廻り、全身に火照りを感じる。
姫平の監視役として、父の所領である薛で生活面を含めて面倒を看ることになって、三年の月日が流れようとしていた。
姫平という豪放磊落とした男と時間を共有していく中で、平淡な田文という男に変化が生まれ始めていた。彼が放つ灼熱の気に感化されたのか、田文は彼との剣の立ち合いの時など、激情を発露するようになった。
叔父である宣王から云わせれば、それは生来、田文自身が持ち合わせていたものらしい。叔父は田文が裡に秘めるものを侠気と呼んだ。己に侠気なるものが存在するかは定かではないが、姫平といると、何処か抑圧されたものが解放される。心地は悪くない。
その証左に田文は幾度となく、白打、剣の立ち合い、図上演習で完膚なくまでに叩きのめされている。田文自身、並みの剣士ではないし、兵法に於いて、呉子などの兵法書に暁るいだけでなく、祖父の威王を支えた兵法家孫臏の子孫が臨淄で運営する、孫家塾で直々に兵法の指南も受けた。だが、何一つ姫平に敵わない。悔しさは込み上げてくるが、不思議と嫌な気分にはならなかった。
それは、姫平が自身の器量に驕らず、人を蔑むことをしないからかもしれない。彼は虜囚の身であるが故、薛から出ることは叶わないが、時折、利星という男に成りきり、市井へと降る。姫平という男は、庶子の身分にありながら、貴賤に囚われず平等に、人に接する。姫平は何処までも公平な男だった。貴賤によって人の価値を決める、父の薫陶を受けた田文にとって、姫平の独自の価値観は驚愕であった。公族でありながら、賤しき者達にも、偉ぶることなく、気さくに声を掛ける。そんな男だからこそ、悔しさは込み上げてくるものの、怨みや怒りと云った、負の感情を抱かないのかもしれない。
「時に激情が力となる時もある。だが、感情に呑まれては駄目だ。お前は己の御し方を知らない赤子のようなものだな」
「私が赤子ですか」
腹は立たない。薄い笑みが浮かぶ。
確かにそうかもしれない。姫平と出逢い、豁然と世界が拡がり始めている。それは、まるで、目が見え、耳が聞こえるになり、世界の一端に触れ始めた、赤子のようなものかもしれない。高名な剣、兵法の師、偉大なる宰相の父に師事し、謦咳に接しても、得られなかったものだ。
「お前は堅苦し過ぎる。あの陰険な爺の跡継ぎと云うことで気苦労も多いだろうが、もっと世というものを知り、本当の己を解放してやるべきだ」
「本当の私ですか?」
「そうだ。そもそも三年も共にいるのに、その堅苦しい言葉遣いが気に食わん」
とは云うが、あくまで名目上は虜囚とその監視役なのだ。二人の間には、目には見えない、国同士のしがらみがある。
「俺自身に斉に対して含むものがあるのは事実だ。だが、お前と俺―。そして、薛で仲良くなった連中とは、別の所にある話だ。一個人に対して、過去の憤懣や怨懣を抱くほど、俺は器量の小さな男ではない」
「そのように割り切れるものですか?」
田文には分からなかった。怨みとまではいかないが、未だ己を捨て、殺そうとした父に含むものはある。
「俺は必ず斉を出る。そして、何時かは、お前の敵として立ちはだかり、戦場でまみえるかもしれない。だが、それは未来の話であって、今ではない」
「故に今は、虜囚である貴方を監視する、私に対して割り切れると」
姫平が破顔する。
「幾度、剣を交えた。剣は言葉以上に感情が乗る。つまり、俺達はこうして顔を突き合わせる以上に剣で語り合ったのだ。もう既に虜囚と御目付け役の関係性ではあるまい」
鼓動が早鐘を打つ。唇が震える。
「では、私達の関係性は」
「友ではないか」
間髪入れずに姫平が答えた。
胸にいっぱいに光が溢れた。頬に一筋の温かいものが伝う。それを指先で拭う。
「之は」
と漏らした時、堰を切ったような涙が溢れ出た。掌で涙を受け止め、理解する。
心にぽっかりと空いた洞の正体は孤独だったのだと。たとえ大成し、父を越える名声光輝を手に入れても、この暗黒が光で照らされることはない。ずっと母と生き別れてから、己は愛に飢えていたのだ。両親からの愛情を知らずに育ってきた。そして、故に愛という概念そのものが理解できなかった。しかし、傍らで真摯な眼差しを向ける男は、形こそ違うかもしれないが、友愛という名の愛を己に向けてくれている。
「姫平殿と私が友…」
屈託なく笑える。人生で初めて、田文が心から笑えた瞬間であった。
近い将来に、互いに戦場で刃を向け合うことになるかもしれない。だが、この男は仮定の未来を恐れず、今を駆けるように生きている。叔父との面謁の際、天は彼を生かした。今なら彼に天が味方をした理由も分かる気がする。
彼には森羅万象を惹きつける力がある。その力の一端に、触れた己だからこそ分かる。
「其れがお前の本当の笑った顔か」
姫平は一瞥し、酒を呷る。
「その方がいい」
と告げて、おもむろに膝を叩いて立ち上がる。
「さぁ。じゃあ行くとするか」
「行くって何処に?」
田文は広い背中をした、偉丈夫を見上げた。
「窮屈な生き方をしてきたお前に、友として遊びってものを教えてやる」
「遊び…ですか」
にやりと白い歯を、姫平は見せる。
「酒、女、賭博。興味がなくてもいい。一度だけでも市井の者達の遊びってものを体験しておくものだ。彼等と同じ時を共有することで、視野が拡がることもある」
酒は付き合い程度に嗜むが、賭博と女は知らない。
「お前の場合は特に女だな。如何にも女を知りませんって顔をしてやがる。別にお前の父親のように無数の妾を囲えって言っている訳じゃない。ただ女は男をより男らしくしてくれる」
問答無用とばかりに、姫平は田文の手を引いた。
「ちょっと」
制止の声も聞かず、豪快に笑い、裸足のまま外へと飛び出す。
「私はまだ何も」
と云いつつも、悪友に手を引かれる、己の心は弾んでいた。
眼を醒ますと、見慣れた天井があった。
全身が酷く痛んだ。上半身だけを起こすと、隣で酒を呷っている男がいる。
「之で百戦百勝だな」
かかっと姫平は屈託なく笑う。股を広げ、満々と注がれた椀の酒を呷る姿からは、虜囚としての悲愴感は感じない。
「私はまた敗けたのですか」
言葉を己で噛み締める。血が廻り、全身に火照りを感じる。
姫平の監視役として、父の所領である薛で生活面を含めて面倒を看ることになって、三年の月日が流れようとしていた。
姫平という豪放磊落とした男と時間を共有していく中で、平淡な田文という男に変化が生まれ始めていた。彼が放つ灼熱の気に感化されたのか、田文は彼との剣の立ち合いの時など、激情を発露するようになった。
叔父である宣王から云わせれば、それは生来、田文自身が持ち合わせていたものらしい。叔父は田文が裡に秘めるものを侠気と呼んだ。己に侠気なるものが存在するかは定かではないが、姫平といると、何処か抑圧されたものが解放される。心地は悪くない。
その証左に田文は幾度となく、白打、剣の立ち合い、図上演習で完膚なくまでに叩きのめされている。田文自身、並みの剣士ではないし、兵法に於いて、呉子などの兵法書に暁るいだけでなく、祖父の威王を支えた兵法家孫臏の子孫が臨淄で運営する、孫家塾で直々に兵法の指南も受けた。だが、何一つ姫平に敵わない。悔しさは込み上げてくるが、不思議と嫌な気分にはならなかった。
それは、姫平が自身の器量に驕らず、人を蔑むことをしないからかもしれない。彼は虜囚の身であるが故、薛から出ることは叶わないが、時折、利星という男に成りきり、市井へと降る。姫平という男は、庶子の身分にありながら、貴賤に囚われず平等に、人に接する。姫平は何処までも公平な男だった。貴賤によって人の価値を決める、父の薫陶を受けた田文にとって、姫平の独自の価値観は驚愕であった。公族でありながら、賤しき者達にも、偉ぶることなく、気さくに声を掛ける。そんな男だからこそ、悔しさは込み上げてくるものの、怨みや怒りと云った、負の感情を抱かないのかもしれない。
「時に激情が力となる時もある。だが、感情に呑まれては駄目だ。お前は己の御し方を知らない赤子のようなものだな」
「私が赤子ですか」
腹は立たない。薄い笑みが浮かぶ。
確かにそうかもしれない。姫平と出逢い、豁然と世界が拡がり始めている。それは、まるで、目が見え、耳が聞こえるになり、世界の一端に触れ始めた、赤子のようなものかもしれない。高名な剣、兵法の師、偉大なる宰相の父に師事し、謦咳に接しても、得られなかったものだ。
「お前は堅苦し過ぎる。あの陰険な爺の跡継ぎと云うことで気苦労も多いだろうが、もっと世というものを知り、本当の己を解放してやるべきだ」
「本当の私ですか?」
「そうだ。そもそも三年も共にいるのに、その堅苦しい言葉遣いが気に食わん」
とは云うが、あくまで名目上は虜囚とその監視役なのだ。二人の間には、目には見えない、国同士のしがらみがある。
「俺自身に斉に対して含むものがあるのは事実だ。だが、お前と俺―。そして、薛で仲良くなった連中とは、別の所にある話だ。一個人に対して、過去の憤懣や怨懣を抱くほど、俺は器量の小さな男ではない」
「そのように割り切れるものですか?」
田文には分からなかった。怨みとまではいかないが、未だ己を捨て、殺そうとした父に含むものはある。
「俺は必ず斉を出る。そして、何時かは、お前の敵として立ちはだかり、戦場でまみえるかもしれない。だが、それは未来の話であって、今ではない」
「故に今は、虜囚である貴方を監視する、私に対して割り切れると」
姫平が破顔する。
「幾度、剣を交えた。剣は言葉以上に感情が乗る。つまり、俺達はこうして顔を突き合わせる以上に剣で語り合ったのだ。もう既に虜囚と御目付け役の関係性ではあるまい」
鼓動が早鐘を打つ。唇が震える。
「では、私達の関係性は」
「友ではないか」
間髪入れずに姫平が答えた。
胸にいっぱいに光が溢れた。頬に一筋の温かいものが伝う。それを指先で拭う。
「之は」
と漏らした時、堰を切ったような涙が溢れ出た。掌で涙を受け止め、理解する。
心にぽっかりと空いた洞の正体は孤独だったのだと。たとえ大成し、父を越える名声光輝を手に入れても、この暗黒が光で照らされることはない。ずっと母と生き別れてから、己は愛に飢えていたのだ。両親からの愛情を知らずに育ってきた。そして、故に愛という概念そのものが理解できなかった。しかし、傍らで真摯な眼差しを向ける男は、形こそ違うかもしれないが、友愛という名の愛を己に向けてくれている。
「姫平殿と私が友…」
屈託なく笑える。人生で初めて、田文が心から笑えた瞬間であった。
近い将来に、互いに戦場で刃を向け合うことになるかもしれない。だが、この男は仮定の未来を恐れず、今を駆けるように生きている。叔父との面謁の際、天は彼を生かした。今なら彼に天が味方をした理由も分かる気がする。
彼には森羅万象を惹きつける力がある。その力の一端に、触れた己だからこそ分かる。
「其れがお前の本当の笑った顔か」
姫平は一瞥し、酒を呷る。
「その方がいい」
と告げて、おもむろに膝を叩いて立ち上がる。
「さぁ。じゃあ行くとするか」
「行くって何処に?」
田文は広い背中をした、偉丈夫を見上げた。
「窮屈な生き方をしてきたお前に、友として遊びってものを教えてやる」
「遊び…ですか」
にやりと白い歯を、姫平は見せる。
「酒、女、賭博。興味がなくてもいい。一度だけでも市井の者達の遊びってものを体験しておくものだ。彼等と同じ時を共有することで、視野が拡がることもある」
酒は付き合い程度に嗜むが、賭博と女は知らない。
「お前の場合は特に女だな。如何にも女を知りませんって顔をしてやがる。別にお前の父親のように無数の妾を囲えって言っている訳じゃない。ただ女は男をより男らしくしてくれる」
問答無用とばかりに、姫平は田文の手を引いた。
「ちょっと」
制止の声も聞かず、豪快に笑い、裸足のまま外へと飛び出す。
「私はまだ何も」
と云いつつも、悪友に手を引かれる、己の心は弾んでいた。
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