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偽王
一
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牆が廻る広大な館の中庭で、木剣を手に剣技を競い合う二人の青年の姿がある。
「おい。もうへばったのか。田文」
姫平は綽綽と木剣の背で肩を叩き、木剣を支えに立ち上がろうと藻掻く、田文を睥睨する。
「このぉ」
田文からは飾ったような、穏やかな表情は消えている。荒々しい野獣の如く爪牙を剥き出し、呻吟の末、立ち上がる。
「一度でも俺に掠り傷くらいつけてみせろ」
ははと姫平は煽るように豪快に笑った。
沸き上がる憤怒が閾値を越え、田文は咆哮を上げた。裂帛の気魄を以って、姫平に撃ちかかる。
間断のない攻めを、あえて姫平は皮一枚の所で躱してみせる。
「感情に呑まれて過ぎだ。莫迦が」
突きくる。躱せない。水月を剣尖が捉える。
全身に電撃が走ったような痛みが走った。視界が眩々とし、吐き気をもよおす。膝から崩れ落ち、その場に嘔吐した。吐瀉物に顔から突っ込み、倒れ込む。視界は狭窄し、やがて黒の帳が降りた。
田文は生まれすぐ、誕生した月日が不吉で、何れ家に災いを齎すと告げられて、実の父に殺されそうになった。
誕生日は五月五日。五月は季節の変わり目であり、古来から三月と同様に、悪月であると信じられている。五月五日生まれの子は、門戸の高さまで成長する親を殺すという俗信がある。
母の愛情と機転により、窮地を逃れ、母の知人の元、異腹の兄の元で細々と生きてきた。実の父の目から逃れる日々。気が休まる日などなく、ずっと巨大な父の影に怯えていた。
辛酸を舐め続けてきたと云ってもいい。己を拾ってくれた、異腹の兄には感謝している。だが、肉親である父に殺されかけた、田文は人を信用することをやめていた。血の繋がりがある、父親ですらつまらない迷信を盲信して、我が身可愛さに子を殺そうとするのだ。母の違う兄弟や赤の他人など信用できるはずもない。
田文の心には常に巨大な洞が横たわっていた。孤独と云う名の洞だ。本来ならば、心の洞を満たすのは、両親の愛情であり、友との友情と云った、人と人との絆のようなものだろう。だが、田文には無い。母は生き別れた後、癩病を患い死んだ。
兄は田文を守る為に、あえて館の外から出ることを許さなかった。田文は兄の館に移ってからの十年間、一歩たりとも館の外へ出たことはない。鬱々とした日々を慰めてくれたのは、館の書庫にある典籍であった。兄の書庫には典籍が堆く積まれており、田文は兵法書を好んで選び読み漁った。一度目を通せば、内容は簡単に諳んじることができた。
やがて、田文の大才は、兄を通して、父の目に止まり、田文に自身が培ってきた経験、智恵を授け、兵法、武芸に通暁した師を、田文の為に招聘した。武術に於いても、田文ののみこみは早かった。一年で父が招聘した師を越えた。万事器用にこなすことが出来るが故に、肚の底から沸き上がるような熱を感じたことはなかった。常に冷めている部分があり、この世界をまるで自身の目ではなく、他者の目を介して俯瞰しているように生きてきた。
己という人間を拗ねた人間へと変えたのは、やはり父であろう。父は大国の宰相として、栄耀栄華を極め、広大な封地、多数の食客と妾を囲っているが、田文自身は父が立身栄達の果てに掴んだものを何一つ欲しいとは思わない。父が政界を退けば、父が所有する全てのものが己のものとなる。己を捨て、殺そうとした父を越える名声を手に入れることが出来れば、この心の洞は満たされるはずと信じていた。
だが、名声を手に入れるより早く、横たわっていた洞が光輝で満たされ始めている。心の洞を照らしているのは、大きな背中をした男だ。
「おい。もうへばったのか。田文」
姫平は綽綽と木剣の背で肩を叩き、木剣を支えに立ち上がろうと藻掻く、田文を睥睨する。
「このぉ」
田文からは飾ったような、穏やかな表情は消えている。荒々しい野獣の如く爪牙を剥き出し、呻吟の末、立ち上がる。
「一度でも俺に掠り傷くらいつけてみせろ」
ははと姫平は煽るように豪快に笑った。
沸き上がる憤怒が閾値を越え、田文は咆哮を上げた。裂帛の気魄を以って、姫平に撃ちかかる。
間断のない攻めを、あえて姫平は皮一枚の所で躱してみせる。
「感情に呑まれて過ぎだ。莫迦が」
突きくる。躱せない。水月を剣尖が捉える。
全身に電撃が走ったような痛みが走った。視界が眩々とし、吐き気をもよおす。膝から崩れ落ち、その場に嘔吐した。吐瀉物に顔から突っ込み、倒れ込む。視界は狭窄し、やがて黒の帳が降りた。
田文は生まれすぐ、誕生した月日が不吉で、何れ家に災いを齎すと告げられて、実の父に殺されそうになった。
誕生日は五月五日。五月は季節の変わり目であり、古来から三月と同様に、悪月であると信じられている。五月五日生まれの子は、門戸の高さまで成長する親を殺すという俗信がある。
母の愛情と機転により、窮地を逃れ、母の知人の元、異腹の兄の元で細々と生きてきた。実の父の目から逃れる日々。気が休まる日などなく、ずっと巨大な父の影に怯えていた。
辛酸を舐め続けてきたと云ってもいい。己を拾ってくれた、異腹の兄には感謝している。だが、肉親である父に殺されかけた、田文は人を信用することをやめていた。血の繋がりがある、父親ですらつまらない迷信を盲信して、我が身可愛さに子を殺そうとするのだ。母の違う兄弟や赤の他人など信用できるはずもない。
田文の心には常に巨大な洞が横たわっていた。孤独と云う名の洞だ。本来ならば、心の洞を満たすのは、両親の愛情であり、友との友情と云った、人と人との絆のようなものだろう。だが、田文には無い。母は生き別れた後、癩病を患い死んだ。
兄は田文を守る為に、あえて館の外から出ることを許さなかった。田文は兄の館に移ってからの十年間、一歩たりとも館の外へ出たことはない。鬱々とした日々を慰めてくれたのは、館の書庫にある典籍であった。兄の書庫には典籍が堆く積まれており、田文は兵法書を好んで選び読み漁った。一度目を通せば、内容は簡単に諳んじることができた。
やがて、田文の大才は、兄を通して、父の目に止まり、田文に自身が培ってきた経験、智恵を授け、兵法、武芸に通暁した師を、田文の為に招聘した。武術に於いても、田文ののみこみは早かった。一年で父が招聘した師を越えた。万事器用にこなすことが出来るが故に、肚の底から沸き上がるような熱を感じたことはなかった。常に冷めている部分があり、この世界をまるで自身の目ではなく、他者の目を介して俯瞰しているように生きてきた。
己という人間を拗ねた人間へと変えたのは、やはり父であろう。父は大国の宰相として、栄耀栄華を極め、広大な封地、多数の食客と妾を囲っているが、田文自身は父が立身栄達の果てに掴んだものを何一つ欲しいとは思わない。父が政界を退けば、父が所有する全てのものが己のものとなる。己を捨て、殺そうとした父を越える名声を手に入れることが出来れば、この心の洞は満たされるはずと信じていた。
だが、名声を手に入れるより早く、横たわっていた洞が光輝で満たされ始めている。心の洞を照らしているのは、大きな背中をした男だ。
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