瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦

文字の大きさ
上 下
21 / 47
負海の国

しおりを挟む
 北斗七星の意匠が施された扉が、音を立てて開く。
 
 余りの眩さに、姫平は袂で眼を覆った。
 荘厳であった。紅の毛氈もうせんきざはし―。そして、その先にある玉座まで続き、左右には百官が控えている。大広間の天井を支える支柱は、全て金であり、その一本一本が強烈な光を放っている。
 
 銅鑼の音が鳴る。

 田文が先を行く。続く姫平達。文官達は陰火をちらつかせた眼を向け、口許を隠した袖の裏で、呪詛を吐いている。
 
 階の前で止まる。田文が脇に控え、階の上にいる男に目礼した。

(なるほど。この男が宰相田嬰か)
 ひと目で分かった。父子であるが故に、田文には田嬰の面影がある。
 
 だが根本が違う。

(この男は人でない)
 咄嗟にそう思った。
 
 大国の宰相として王を輔弼ほひつし続けてきた、田嬰はー。国、王、ひいては己の権威を守る為、あらゆる障害を闇の力で祓ってきている。必要とあらば、千を超える嬰児えいじであろうと無感動に殺すだろう。子之が易々と手玉にとられたのも納得できる。そもそも踏んできた場数が違い過ぎる。

子之を指嗾しそうし、物流を支配した男だ。田嬰の大猷たいゆうを看破したのは、姫平である。知ってか知らずか、田嬰は舐めるように姫平を見ている。既に髪も白くなり額の後退してきている老人に気圧される。
 
 老獪―。そんな生易しいものではない。恐らくこの男に善悪の那辺は存在しない。権力の権化と云ってもいい。田嬰が纏う気配は、剣山のように鋭く、隙がない。この男の領域に踏み込めばなますに刻まれる。そう想起させる圧力が、田嬰にはある。
 
 姫平は固唾を飲んだ。

(之が斉という国の柱石か)
 ならば、宣王は一体どれほどの男なのだろうか。
 
 三人は膝を折る。やがて、警蹕けいひつの声がし、再び銅鑼が鳴った。国の君主である王に許可なく直視、直言することは許されない。姫平は礼法に則って目線を伏せる。

「面を上げよ」
 肚の底が震える、威圧感のある低い声が轟いた。百官達の呪詛がみ、静寂しじまが訪れる。
 
 竜がいた。
 天子の顔を時にー。天顔りょうがん竜顔りゅうがんと云う。勿論、玉座にいる男は天子ではない。だが、正しく目の前の男は竜のかんばせをしていた。

 最早、心中で軽口を叩く余裕すらない。宰相田嬰が権力の権化ならば、斉王は人間じんかんではない。
 
 喉が詰まる。総身に痛痒が走る。津波のように何かが己をのみ込もうと押し寄せてくる。之を王の気魄とでも云うのだろうか。

(俺は臆しているのか)
 姫平は怖じる己を自嘲した。

「ほう、不敵な眼をしておるな。燕の人柱ひとばしらよ」
 宣王の唇が動く。躰が燃えるように熱くなる。宣王から漏れる吐息が火焔に映る。

「俺は人柱ではない。戦争を止める為に来た」
 許可なく立ち上がり、向き合う。両足がおこりを起こしたかのように震えていた。
 文官達が姫平の無礼に対して、罵詈雑言を浴びせる。

「鎮まれ」の宣王の一言で、場は静まり返る。

「数多存在する庶子如きが、真に講和の材料の一つとなると思っているのか」
 宣王の声に抑揚はない。

 心の臓が痛む。まるで竜の鉤爪が、心の臓を抉り出そうとしているかのような鋭い痛みがある。濃く太い眉の下の竜眼が、額ずく蘇兄弟を見遣った。

「ぬけぬけとよくも斉に戻って来られたものだ。のう、蘇秦の愚弟達よ。加えて燕の使者としてとは。どうやら蘇一族の眼には、孤は相当な愚かな為政者として映っているようだな。小生意気な庶子と共に、狗の餌にしてやっても良いのだぞ」
 額ずく蘇兄弟は蒼白で、汗が滲み襟に染みを作っている。

「ふん。臆して使者としての務めも果たせぬか。その肝の小ささで説客を自称とするとは片腹痛いわ。では、人柱に訊こう。如何に産土うぶすなの命運を手繰り寄せる」
 試されていると感じた。そして、宣王の意図に沿うこと以外の答えを導き出せば、宣王は躊躇なく己達を斬り殺すだろう。 

「大王様。懼れながら私共はー」
 面を上げた蘇代が乾いた声で言を発そうとした。

「お前は黙っていろ!」
 姫平の喝が大広間に轟く。
 へつらうのではなく、この王にはもっと違うものを見せなければならないという確信がある。覇気を放つ姫平に、興味を喚起したのか、僅かながら宣王が前のめりになる。

「祖国は東方より蝗害の甚大な被害を蒙り、食糧は尽き、国の柱となる蒼生そうせいは困窮の極みになる。更に王である我が父には、哀しき哉、為政者としての素養はなく、宮中には阿諛迎合あゆげいごう瀰漫びまんし、宰相である子之が政を聾断している。加えて狡吏かつり子之は、斉の宰相である田嬰殿と謀って、物流の動きを支配し、国内に混乱を齎した」
 一瞥した田嬰。動揺もなく、怜悧な姿勢を貫いている。

「燕国内は未曾有の危機にある。斉の大軍勢を前に、今の燕では成す術ない。しかし、斉王よ。国を導く立場にある公族や高官達が愚かでも、燕の蒼生は、お前が想像しているより遥かに逞しく、不羈である。たとえ燕の社稷しゃしょくが断たれようが、彼等は決して、侵略者にはぬかずきはしない」
 大国の王に対しての不遜な言い様に、辺りがざわめいた。
 
 宣王の太い白眉が僅かに動く。

「つまり、には燕の蒼生は御せぬと」

「そうだ。彼等が胸に抱く独立不羈の心は光そのもの。闇が蠱毒こどくの如く、押し寄せたとしても、何れ闇は光に祓われる」

「我が国を闇とは。仮に燕の蒼生が、貴様の申す通り、御し難い不羈の輩であったとする。だが、貴様は先ほど燕の宮中は王を含め、愚か者の巣窟だと申した。蒼生には導き手となるものが必要だ。光を一つに束ねる者が」

「俺がいる」
 再びざわめき。

「庶子の貴様が。笑わせる。貴様には此処で果てるか、生涯虜囚として生を終えるかの選択肢しか残されてはいない」
 田嬰が顎で合図を送ると、数人の近衛が駆け付け、姫平の周囲を取り囲んだ。
 
 抜刀の音。向けられた剣が頸動脈に触れている。

「俺は必ず燕に帰る」
 迷いなく、決然と答えた。
 
 静謐せいひつ
 
 宣王の目容もくように見える、僅かな機微の変化。百官達は静寂を守り、宣王から下される決断の時を待っている。

「大王」
 静寂を破ったのは、意外にも宰相田嬰であった。
 
 抑揚のない錆を纏った声。田嬰は催顔さいがんを向けた。
 
 老いた兄弟は、暫しの間、見つめ合う。
 唇歯輔車しんしほしゃの間柄の二人には、言葉を交わすことなく伝わるものがあるのだろう。

「面白い」
 不意に宣王が破顔してみせた。

「庶子平。燕には護国の剣と呼ばれる、宝剣が存在するようだな」
 姫平は質問の意図が掴めず、眼を細めた。

「欲深い斉王は、我が国の宝剣を欲しているのか?だが、残念だな。俺の手許にはない」

「口の減らぬ小僧だな。孤が真に宝剣を欲しているのなら、早々に燕を滅ぼし、掌中におさめているわ」
 決して大袈裟な言ではない。事実、宣王には言を現実にできるだけの力がある。

「宝剣にまつわる伝説は知っておる。そして、庶子平。貴様が嫡流から外れた賤しい子にも関わらず、祖父の易王から宝剣を下賜されたこともな」

「随分と耳聡いではないか。あの売国奴から仕入れた情報か?斉の宰相殿」
 最大限の皮肉をこめて田嬰に放つ。
 
 徹頭徹尾てっとうてつび、田嬰は怜悧であった。まるで居ないもののように無視をきめこむ。

「本来、燕王に託されるものが貴様のもとに渡った。万に一つありえぬが、宝剣にまつわる伝説が真ならば、貴様は天の加護を受けた稀有な男となる」
 百官のせせら笑う声が聞こえてくる。

「天の加護ねぇ。そんなものがあるのなら、俺はここにいないね」
 姫平は首を竦めてみせる。
 
 不遜なうつけ者を装ってはいるが、頭の中では凄まじい速さで思惟を巡らせていた。

(斉王の狙いは何だ?何故、此処で宝剣を引き合いに出す)

「孤は天の意志などという不確かなものは信じん。孤が信じるものは、この双眼で捉えることができるもののみよ」
 突然、かっと宣王は両眼を見開いた。
 
 瞬間、総毛が立った。一人の男が放つ気魄とは思えない。万の兵士にさえ匹敵する、圧倒的な王の気配。

「何が言いたい」
 情けのないことだが、声は小刻みに震えていた。

「天の意志などと云うものが存在するのなら、何があろうと天は貴様を生かすはずだ」

「なるほど。そういうことか」
 宣王は七旒しちりゅうの冠を揺らして、呵々と嗤った。
 
 徐に田嬰が手を叩いた。
 
 紅の毛氈の先にある扉が開いた。具足を纏った一枚肋いちまいあばらの男が入ってきた。
 
 猛禽の如き眼光と巨躯から、兵法者であることが分かる。

養由基ようゆうきまでとは言えませんが、私の食客の中では隋一の弓の名手で御座います。腕前は一箭双雕いっせんそうひょう。この田嬰が保障致します」
 田嬰が恭しく告げる。
 
 養由基とは春秋時代の楚の人である。弓の名手で百歩の距離から柳葉を射てみせ、七本重ねて甲冑を一本の矢で射貫くほどの神懸かった腕前を持っていた。正に神箭手しんせんしゅと呼ぶに相応しく、弓の心得のある者に知らぬ者はいない。

 男に弓と一本の矢が手渡された。遠目でも強弓であると分かる。少なく見積もっても三人張りの弓。並の者では、引くことすらままならない代物だろう。

「庶子平に剣を」
 宣王がのたまう。

 文官がかけつけてきて、抜き身の剣を差し出した。

「兄弟揃って良い趣味をしているではないか」
 宣王と田嬰を交互に睨み付ける。

「臆したか、庶子平」
 心なしか言った宣王の声は弾んでいるような気がした。

「約束しろ。矢を防いでみせれば、我が国と講和を結ぶと」
 姫平は剣を正眼で構えた。

「無論、躱すことは許されない。飛矢を真正面で弾いてみせよ」
 と簡潔に田嬰が告げる。
 
 田嬰は矢を弾けるはずなどないと高を括っている。横目で近衛に取り押さえられている蘇兄弟を見遣る。今にも泣き出しそうな顔で、成り行きを見守っている。

「庶子平。天をおろしてみせよ」
 声高に宣王が言った。
 さっと流れ矢を恐れた百官達が身を引いていく。
 
 銅鑼が鳴る。
 
 射手が弦に流麗な所作で矢を番える。気が収斂しゅうれんしていく。
 
 なるほど。田嬰が全幅の信頼を置くのが分かる。この射手は絶対に狙いを外さない。眉間にひりひりと痛痒が走る。練り上げられた気は、一筋の光線となって、己の眉間を捉えている。
 
二人の間には三十歩の距離。並の射手が放った矢ならば、この距離でも斬り払ってみせる自信がある。だがー。この射手の矢を斬り払っている自分の姿を想像することができない。

額からとめどなく汗が噴き出してくる。田嬰は此処で確実に、己を仕留めるつもりでいる。あえて回りくどいやり方をするのは、己を辱める為らしい。無表情を貫いている田嬰であるが、心中ではほくそ笑んでいることだろう。

 弓が撓る音が広間に伝わる。対峙する姫平は、剣把を握り締める。

(来い!)
 気を放った。
 空を裂く音が鳴る。

(来る)
 肉眼で矢を追うことはできない。だが、肌が命の危険を知らせる。
 感覚に従った。剣を払う。
 乾いた金属音。鏃に刃が触れた。

(払える)
 勢いのまま剣を薙いだ。
 
 全身を巡る血の躍動を感じるまでに、神経は研ぎ澄まされていた。
 眼前に迫る矢。叩き斬る。
 瞬間。鏃と触れた刃が木端微塵に砕けた。星屑のように宙を舞う、剣の欠片。
 死の淵で理解した。

(田嬰。謀ったな)
 祖国に置いてきた者達の顔が脳裡に過る。
 
 此処で使命を果たせなければ、祖国は灰燼と帰し、愛した者達の命は消えていく。瞋恚しんにが満身を満たす。

(死んでたまるか)
 緩慢と進む時の中で、姫平は迫る弓を掴もうと手を伸ばした。だが、神速の矢を捉えることは叶わない。

(くそ)
 刮目する。己を殺す矢を。
 
 刹那。ありえないことが起きた。今にも眉間を貫く勢いであった矢が逸れた。
 
 勁風けいふうが頬を打った。
 
 広間にどよめきが走る。

「何だ。これは?」
 姫平は果実のような甘い香りのする旋毛風つむじかぜの中にいた。

 田文は瞬いた。
 閉め切った広間の中に、突如、旋毛風が起った。しかも、旋毛風は姫平の足許から起こり、彼を守るようにして逆巻いている。当の本人も何が起きているか分からない様子で、呆然と立ち尽くしている。
 
 田文は父を見た。父の鉄仮面が剥がれていた。瞠目し口をあんぐりと開いている。次の玉座の叔父を見る。叔父は前のめりになり、まなじりを裂けんばかりに見開いている。

「大、大王…これは」
 父の狼狽ぶりが可笑しく、小気味よい。
 叔父からは一言も出ない。

「天、天意で御座います!大王様!」
 蘇代が叫び、近衛を振りほどき、大仰に風に包まれる姫平に額ずいてみせた。

「おぉ。やはり、燕の伝説の通り。王子は天に選ばれた御方」
 蘇厲が続く。
 
 田文は舌を巻いた。説客を名乗るだけあって機転は利く。
 跪拝きはいする蘇兄弟に続いて、霊験あらたかなものを目撃した百官達は、恐懼し狼狽えている。
 
 旋毛風が熄んだ。

 渦の中心にいた姫平は、刃が砕けた剣を投げ捨て、叔父に向き直った。

「約束通り天をおろしてみせたぞ。次は貴様が約束を守る番だ」
 と敢然と告げた。

(肝の太い庶子だ)と感心する。
 恐らく本人ですら、何が起こったのか理解できていない。
 
 だが、蘇兄弟の意図をすぐさま理解し、平然と構えて見せている。天の加護の有無はともかく、万が一にでも、この庶子が燕の王座につくようなことになれば、斉にとって巨大な敵になる。
 
 叔父は前のめりになった上半身を玉座に戻し、暫く天井を見上げていた。
 
 そして、嘆息の後。

「うむ。約束は果たそう」

「大王!」
 さかさず父の田嬰が割って入る。年老いた父の顔には、焦燥の皺が走っている。
 田文の記憶の限り、これほど父が焦りを露わにしたことはない。

「嬰よ。お前も目の当りにしたであろう。奴は見事に、天をおろしてみせた」
 たいして叔父は落ち着き払っている。

「しかし!」

「くどい。孤があずかり知らぬことを良いことに、小細工を弄し、この男の覚悟に水を差した。この男を今、此処で殺せば、孤は天下の嗤い者となろう」
 玉座に座する叔父から、有無を言わせない凄味が放たれる。
 父は唇を噛み締め、反駁することをやめた。

「勝手な真似をしてしまいました。どうか御寛恕ごかんじょを」
 叔父が手を振り、下がるように命じた。
 そして、目線を階の下の姫平に向けた。

命冥加いのちみょうがな男よな、庶子平。此度はその首奪らずにおいてやる。せいぜい天に感謝することだ」

「此度は…か。約束は違えるなよ、斉王」
 叔父の白髯はくぜんが揺れた。

「真に口の利き方を知らぬ庶子よ」
 巨眼で一瞥すると、銅鑼が鳴った。

「また会おう。庶子平」
 告げて叔父は近習を従えて、広間から退出していく。最後尾に田文も続く。
 階の下にいる姫平を見遣った。彼は安堵の息を吐き、何を思うのか天井を一人見上げていた。
しおりを挟む

処理中です...