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負海の国
二
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田文の案内で、一行は、無事に斉の都である臨淄へと辿り着いた。淄河という川の西に接するように作られた臨淄は、天下を争う七雄の中で最も栄えていると云っても過言ではない。
北方に渤海があり、漁業、製塩業が盛ん。之等で得られる利益は莫大で、国に殷富を齎す。
そして、領土は二千里四方あり、臨淄の城郭内でも七万戸を越え、男子だけでも二十一万を越える。即ち、有事の際には二十一万の男子が皆兵士と変わるのである。
また臨淄の殷賑ぶりは桁違いで、市民は皆、音楽や賭博を愉しみ、大通りでは車が犇めき合い、轂をぶつけ合う。人がそこかしこに溢れ、肩と肩をぶつけ合い、襟を連ねると帳かと疑われ、汗を飛ばすと雨かと疑われる。どの家々も、善政により富み、市民の生きる活力は天へ奔騰と立ち昇るほどであった。
臨淄の正門を抜けると、正門前に煌びやかに武装した百人余りの兵士達が待機していた。彼等が宮殿まで護衛してくれるという。
途絶えることのない人の波が、鈍銀の鎧を纏った兵士達に守られた使節団を認めて、さっと潮のように引いていく。脇に黒山を成す群衆は、燕の旌旗を掲げた一行に、好奇、あるいは蔑みの眼差しを注ぐ。山東の大国からすれば、北朔の国は、取るに足らない千乗の国なのである。
だが、鞍上の姫平は凛と前を睨んでいた。黒山から注がれる、蔑みの眼差しと言葉を意に返す素振りもない。胡服を纏い、異様な装いの貴人を男達は悪罵する。しかし、若い女子達は姫平の美貌に心を奪われていく。蛮骨であるが、口を閉ざしていれば、貴公子に相応しい品格がある。
二刻ほどで宮門へと辿りついた。宮門の先には、綺麗に整備された道が延々と続き、左右には槐の木が等間隔で植えられている。そして、遥か先には朱色の屋根が見える。衛士に誰何され、田文が答える。田文に宮門を潜るように促され、槐の木を眺めながら、宮道を進む。
一刻ほど歩いただろうか。突如、槐の木が途切れ、景色が拡がった。
「之が国力の差か」と姫平は乾いた声で呟いた。
臨淄の宮殿は規格外の大きさである。東西に朱色の屋根が視界におさまりきらないほど続き、壁に貼られた錦が眩いばかりに輝いている。臨淄の宮殿を初めて眼の当りにしたものは、まるで桃源郷に足を踏み入れた感覚に陥る。そして、姫平も例外ではない。
此方へと。
慣れた様子で、田文が先頭を行く。宮殿の柱は蘇芳のように赤く、木部の大分が漆を塗られている。また見上げれば屋根に用いられている、軒円瓦には千秋万歳、長生無極―。即ち国の繁栄を未来永劫と願う文字が刻まれている。
「お供の方は此処までです」
田文は胡服姿の供廻りに告げた。
「大王との謁見が控えていますので、別棟での待機をお願いしたい」
何か言いたそうな供廻り達を、姫平は眼で制する。
「控えていろ。大事にはならん」
「御意」
と渋々、供廻りを率いる長が頷いた。
「ご案内せよ」
田文が告げると、兵士の一人が彼等を導いていく。
姫平、蘇代、蘇厲が残った。
「姫平様。馬をお預かりします」と田文。
「師である秦開から譲り受けた、俺の相棒だ。粗略な扱いをすれば、お前の頸をねじ切ってやる」
姫平の愛馬は騊駼。つまり北方の駿馬であった。北方の馬は、南の馬より速く駆けることができ、胆力も優れている。
下馬し、馬の手綱に手をかけようとする、文官然とした男を睨み付けた。
「仰せのままに」
男は震える手で手綱を掴み、馬を曳いて行った。
「では、謁見の前に食事をご用意致しましょう」
有難かった。臨淄までの道中、味気ないものしか口にしていない。何より躰から異臭がする。早く着替えを済ませ、出来れば、湯で皮膚にこびりついた垢を落としたい。
「そんなことはいい。ささっと大王の面を拝ませろ」
姫平は此方の事情など斟酌せずに、ぶっきらぼうに告げる。応対する田文は和やかな表情のままだ。
「必ず明日、大王との謁見が叶いますよう取り計らい致します。ですから、今日の所は御躰を御休め下さい」
柔和な態度に、意気が削がれたのか「承知した」と姫平はあっさりと返した。
姫平の躰の頑健さは尋常ではない。旅の最中に分かったことだが、彼には鍛え抜かれた兵士以上の体力がある。
蘇代は安堵の息を漏らした。
三人は別々の客間をあてがわれ、それぞれに長旅で疲れた躰を癒した。
北方に渤海があり、漁業、製塩業が盛ん。之等で得られる利益は莫大で、国に殷富を齎す。
そして、領土は二千里四方あり、臨淄の城郭内でも七万戸を越え、男子だけでも二十一万を越える。即ち、有事の際には二十一万の男子が皆兵士と変わるのである。
また臨淄の殷賑ぶりは桁違いで、市民は皆、音楽や賭博を愉しみ、大通りでは車が犇めき合い、轂をぶつけ合う。人がそこかしこに溢れ、肩と肩をぶつけ合い、襟を連ねると帳かと疑われ、汗を飛ばすと雨かと疑われる。どの家々も、善政により富み、市民の生きる活力は天へ奔騰と立ち昇るほどであった。
臨淄の正門を抜けると、正門前に煌びやかに武装した百人余りの兵士達が待機していた。彼等が宮殿まで護衛してくれるという。
途絶えることのない人の波が、鈍銀の鎧を纏った兵士達に守られた使節団を認めて、さっと潮のように引いていく。脇に黒山を成す群衆は、燕の旌旗を掲げた一行に、好奇、あるいは蔑みの眼差しを注ぐ。山東の大国からすれば、北朔の国は、取るに足らない千乗の国なのである。
だが、鞍上の姫平は凛と前を睨んでいた。黒山から注がれる、蔑みの眼差しと言葉を意に返す素振りもない。胡服を纏い、異様な装いの貴人を男達は悪罵する。しかし、若い女子達は姫平の美貌に心を奪われていく。蛮骨であるが、口を閉ざしていれば、貴公子に相応しい品格がある。
二刻ほどで宮門へと辿りついた。宮門の先には、綺麗に整備された道が延々と続き、左右には槐の木が等間隔で植えられている。そして、遥か先には朱色の屋根が見える。衛士に誰何され、田文が答える。田文に宮門を潜るように促され、槐の木を眺めながら、宮道を進む。
一刻ほど歩いただろうか。突如、槐の木が途切れ、景色が拡がった。
「之が国力の差か」と姫平は乾いた声で呟いた。
臨淄の宮殿は規格外の大きさである。東西に朱色の屋根が視界におさまりきらないほど続き、壁に貼られた錦が眩いばかりに輝いている。臨淄の宮殿を初めて眼の当りにしたものは、まるで桃源郷に足を踏み入れた感覚に陥る。そして、姫平も例外ではない。
此方へと。
慣れた様子で、田文が先頭を行く。宮殿の柱は蘇芳のように赤く、木部の大分が漆を塗られている。また見上げれば屋根に用いられている、軒円瓦には千秋万歳、長生無極―。即ち国の繁栄を未来永劫と願う文字が刻まれている。
「お供の方は此処までです」
田文は胡服姿の供廻りに告げた。
「大王との謁見が控えていますので、別棟での待機をお願いしたい」
何か言いたそうな供廻り達を、姫平は眼で制する。
「控えていろ。大事にはならん」
「御意」
と渋々、供廻りを率いる長が頷いた。
「ご案内せよ」
田文が告げると、兵士の一人が彼等を導いていく。
姫平、蘇代、蘇厲が残った。
「姫平様。馬をお預かりします」と田文。
「師である秦開から譲り受けた、俺の相棒だ。粗略な扱いをすれば、お前の頸をねじ切ってやる」
姫平の愛馬は騊駼。つまり北方の駿馬であった。北方の馬は、南の馬より速く駆けることができ、胆力も優れている。
下馬し、馬の手綱に手をかけようとする、文官然とした男を睨み付けた。
「仰せのままに」
男は震える手で手綱を掴み、馬を曳いて行った。
「では、謁見の前に食事をご用意致しましょう」
有難かった。臨淄までの道中、味気ないものしか口にしていない。何より躰から異臭がする。早く着替えを済ませ、出来れば、湯で皮膚にこびりついた垢を落としたい。
「そんなことはいい。ささっと大王の面を拝ませろ」
姫平は此方の事情など斟酌せずに、ぶっきらぼうに告げる。応対する田文は和やかな表情のままだ。
「必ず明日、大王との謁見が叶いますよう取り計らい致します。ですから、今日の所は御躰を御休め下さい」
柔和な態度に、意気が削がれたのか「承知した」と姫平はあっさりと返した。
姫平の躰の頑健さは尋常ではない。旅の最中に分かったことだが、彼には鍛え抜かれた兵士以上の体力がある。
蘇代は安堵の息を漏らした。
三人は別々の客間をあてがわれ、それぞれに長旅で疲れた躰を癒した。
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