瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦

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負海の国

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 田文の案内で、一行は、無事に斉の都である臨淄へと辿り着いた。淄河しがという川の西に接するように作られた臨淄は、天下を争う七雄の中で最も栄えていると云っても過言ではない。

北方に渤海ぼっかいがあり、漁業、製塩業が盛ん。之等で得られる利益は莫大で、国に殷富いんぷを齎す。

そして、領土は二千里四方あり、臨淄の城郭内でも七万戸を越え、男子だけでも二十一万を越える。即ち、有事の際には二十一万の男子が皆兵士と変わるのである。

また臨淄の殷賑いんしんぶりは桁違いで、市民は皆、音楽や賭博を愉しみ、大通りでは車が犇めき合い、こしきをぶつけ合う。人がそこかしこに溢れ、肩と肩をぶつけ合い、襟を連ねると帳かと疑われ、汗を飛ばすと雨かと疑われる。どの家々も、善政により富み、市民の生きる活力は天へ奔騰ほうとうと立ち昇るほどであった。

 臨淄の正門を抜けると、正門前に煌びやかに武装した百人余りの兵士達が待機していた。彼等が宮殿まで護衛してくれるという。
途絶えることのない人の波が、鈍銀の鎧を纏った兵士達に守られた使節団を認めて、さっと潮のように引いていく。脇に黒山こくざんを成す群衆は、燕の旌旗を掲げた一行に、好奇、あるいは蔑みの眼差しを注ぐ。山東の大国からすれば、北朔ほくさくの国は、取るに足らない千乗の国なのである。

 だが、鞍上の姫平は凛と前を睨んでいた。黒山から注がれる、蔑みの眼差しと言葉を意に返す素振りもない。胡服を纏い、異様な装いの貴人を男達は悪罵する。しかし、若い女子達は姫平の美貌に心を奪われていく。蛮骨ばんこつであるが、口を閉ざしていれば、貴公子に相応しい品格がある。
 
 二刻ほどで宮門へと辿りついた。宮門の先には、綺麗に整備された道が延々と続き、左右にはえんじゅの木が等間隔で植えられている。そして、遥か先には朱色の屋根が見える。衛士に誰何され、田文が答える。田文に宮門を潜るように促され、槐の木を眺めながら、宮道を進む。
 
 一刻ほど歩いただろうか。突如、槐の木が途切れ、景色が拡がった。

「之が国力の差か」と姫平は乾いた声で呟いた。
 臨淄の宮殿は規格外の大きさである。東西に朱色の屋根が視界におさまりきらないほど続き、壁に貼られたにしきが眩いばかりに輝いている。臨淄の宮殿を初めて眼の当りにしたものは、まるで桃源郷に足を踏み入れた感覚に陥る。そして、姫平も例外ではない。

 此方へと。
 慣れた様子で、田文が先頭を行く。宮殿の柱は蘇芳すおうのように赤く、木部の大分が漆を塗られている。また見上げれば屋根に用いられている、軒円瓦には千秋万歳せんしゅうばんざい長生無極ちょうせいむきょく―。即ち国の繁栄を未来永劫と願う文字が刻まれている。

「お供の方は此処までです」
 田文は胡服姿の供廻りに告げた。

「大王との謁見が控えていますので、別棟での待機をお願いしたい」
 何か言いたそうな供廻り達を、姫平は眼で制する。

「控えていろ。大事にはならん」

「御意」
 と渋々、供廻りを率いる長が頷いた。

「ご案内せよ」
 田文が告げると、兵士の一人が彼等を導いていく。
 姫平、蘇代、蘇厲が残った。

「姫平様。馬をお預かりします」と田文。

「師である秦開から譲り受けた、俺の相棒だ。粗略な扱いをすれば、お前の頸をねじ切ってやる」
 姫平の愛馬は騊駼とうよ。つまり北方の駿馬であった。北方の馬は、南の馬より速く駆けることができ、胆力も優れている。
 
 下馬し、馬の手綱に手をかけようとする、文官然とした男を睨み付けた。

「仰せのままに」
 男は震える手で手綱を掴み、馬を曳いて行った。

「では、謁見の前に食事をご用意致しましょう」
 有難かった。臨淄までの道中、味気ないものしか口にしていない。何より躰から異臭がする。早く着替えを済ませ、出来れば、湯で皮膚にこびりついた垢を落としたい。

「そんなことはいい。ささっと大王の面を拝ませろ」
 姫平は此方の事情など斟酌しんしゃくせずに、ぶっきらぼうに告げる。応対する田文は和やかな表情のままだ。

「必ず明日、大王との謁見が叶いますよう取り計らい致します。ですから、今日の所は御躰を御休め下さい」
 柔和な態度に、意気が削がれたのか「承知した」と姫平はあっさりと返した。
 
 姫平の躰の頑健さは尋常ではない。旅の最中に分かったことだが、彼には鍛え抜かれた兵士以上の体力がある。
 
 蘇代は安堵の息を漏らした。
 
 三人は別々の客間をあてがわれ、それぞれに長旅で疲れた躰を癒した。

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