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災禍の音
九
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正門を抜ける一団。本来、講和の交渉材料の一つである質子を、斉に送り届ける為の使節団であるが、粛々とした様子はなく、まるで規律の行き届いた軍隊の如く、朔風吹きすさぶ中を歩んでいく。
「旦那!」
細い両の腕を振り乱して駆けて来る少年の姿がある。胡服を纏った兵士が、馬ごと姫平の前へ。その手は腰の短刀にある。
「さがれ」と短く命じると、兵士は敵愾心をおさめ、馬体を下げる。
「丁」
丁は小さな肩を震わしながら、馬上の姫平を仰ぎ見る。
「旦那。斉へ行くんだろ」
丁の声は震えている。鼻を啜り、懸命に溢れ出しそうなる涙を堪えている。
姫平は薄い笑みを刷く。
「薊一番の情報通は、流石、耳が早いな」
「旦那。殺されちまうのか?」
「さぁな。俺に天祐があれば、しつこく生き永らえることもできるだろうさ」
見上げた空は、墨を暈したように昏い。まるで、これから先起こるであろう、未来を暗示しているようにも見えた。
「負郭の皆も旦那のことを心配してる。おいら達に救いの手を差し伸べてくれたのは、旦那だけたから」
丁は落涙する。やがて抑えきれなくなり、憚らず滂沱の涙を流す。
「おいおい。まるで俺の正体が皆が気付いていたみたいじゃないか」
「そんなのとっくに、気付いているよ」
「もっと巧く立ち回るべきだったか」
かかっと姫平は短く笑う。
「旦那がめしや住める家を与えてくれたおかげで、何百人と死なずに済んだ。それに、旦那が悪さをする大人達を懲らしめてくれたおかげで、おいら達のような力のない子供達も、生きていられる」
利星と名を騙り、己が出来る限り、弱き者の味方であり続けた。だが、それ以上に、己を含めた公族、貴族達は、民から生きる糧を搾取し続けている。彼等に与えたのではない。その一端を返したに過ぎない。正義感からではない。己は庶子として、幼い頃から、周りの連中の奢侈を嫌というほど眼の当りにしてきた。
鯨飲馬食。奢侈淫楽。大人達の卑しい部分ばかりを目にしてきた。その中で、政務を放擲し、享楽に耽る愚か者達を諫めようとする者はいなかった。王である祖父でさえ、外戚や貴族達の濫費に眼を背けていた。
住まう宮中は蛆の巣窟に、姫平の眼には映った。だが、そのまま宮中の瘴気に呑まれていれば、いずれ己自身も嫌悪する、彼等のように成り下がっていただろう。だが、そうはならなかった。母と教育係である秦開が、姫平の淵源にある、澄明な心を守り続けた。秦開は不器用ながら、兵法に則って、己を厳しく律する力を姫平に授けた。また、母は他人を思いやる慈愛の心を授けた。
母の出自は卑しく、孤児で負郭窮巷の生まれであった。負郭では両親を早くに失った子供達が数え切れないほどいる。幼く活計を得ることが叶わない彼等は、徒党を組み、城郭に繰り出し、スリや空き巣などの悪事に手を染め、糊口を凌いでいる。時に器量の良い男女は、安い銭で色を売る。
そして、母も例外なく、生きる為に、色を売る貧しい子供の一人であった。欲に塗れた汚らわしい大人達に凌辱の限りを尽くされる、母の日々は辛く耐えがたいものだっただろう。しかし、母は心を殺すことなく、逞しく生き続けた。母を生かしたのは、生来からの芯の強さもあっただろう。だが、彼女が人としての心を保ち続けることができたのは、ひとえに仲間の存在であった。
負郭は世の爪弾き者の集まりである。だが、彼等には独自の太い絆で結ばれていた。共通の貧しさが彼等の鎹となっていたのである。まるで軍隊のような結束力があり、仲間の窮地には団結して、艱難を乗り越えていく。決して権謀術数渦巻く宮中では、得ることの叶わない人と人との繋がりが、負郭には存在した。
やがて母は、その頃、公子の一人に過ぎなかった、父の臣下の一人の眼に止まり、身請けされることになる。臣下は父に母をあてがい、寵を得た母は、父の数多くいる妾の一人となる。そして、数年後、母は男児を生む。其れが平である。
姫平が生まれる頃には、父の寵は別の妾に移っていた。母の美しさは子を産んでも、少しも損なわれていなかったが、病に臥せることが多くなった。母の躰は、薄汚い男達の精に穢され、内側はぼろぼろであった。
母は病臥にあっても毅然とし、息子に自身が公族として、生まれ落ちた意義を真剣に考えよと諭した。故に幼い頃から、母の言いつけ通り姫平は自問自答を繰り返してきた。
己の道が進むべき道が見えたのは、母が死んだ十歳の春だった。母の葬儀が執り行われたが、参列したのは、姫平、秦開、秦殃。母の身の周りの世話をしていた下女の計四人だけであった。妾として母を囲っていた、父でさえ参列せず、葬儀は粛々と質素に執り行われた。とても太子の妾である、葬儀とは思えないほど、侘しいものだった。
姫平は父を憎んだ。今もこうして、他の女にかまけているのだと思うと、殺してやりたくなった。母は負郭の一角に葬られることになった。母の願いであったらしい。葬儀の列を、負郭の者達は遠巻きで眺めていた。そして、母は小高い丘の上に葬られた。生前、母が仲間達とよく遊んでいた場所だと、秦開に教えられた。
「あの。このお墓は、利明のものでしょうか?」
一人の青年が恐る恐る近づいて、声を掛けてきた。歳の頃は丁度、母と同じくらい。裋褐を纏い、藁の沓を履き、見るからにみすぼらしい恰好の青年であった。
翣を掲げた下女は怯えて後ずさり、秦開が二人の子供達を守るようにして、剣把を掴む。
「そうだよ。利明は母上の名前だ」
秦開を押しのけて、姫平は臆することなく、青年と向き合う。
「叔父さん。母上と知り合い?」
真円の無垢な瞳が青年を見つめる。
「母上…つまり、君は利明の子か?」
頷く。
「あ…ああ」と突然、男が溜息を漏らした。そして、ゆっくりと崩れ落ちていく。
「そうか。君が利明の…。彼女は立派な男の子を授かったのだな」
「叔父さん?」
青年は姫平の手に縋りつき、随喜の涙を流した。
「俺は…君の母さんと友達だった。国のお偉いさんに身請けされてからは、疎遠になったけれど」
「じゃあ、あの人達も?」
丘の麓には、此方の様子を窺う数十人の男女の姿がある。
青年は「ああ。そうだよ」と声を震わせて答えた。不思議だった。母と子を成した父が葬儀に参列もしなかったのに、かつての母の友であった男が、頬を濡らしている。
「叔父さん。名前は?」
「季だよ」
「じゃあ、季さん。他の皆と一緒に、母上にお別れの挨拶をしてあげて」
「いいのかい」
季と名乗った青年は、眼を丸くした。かつて友であっても、今の母と季達の身分には、雲泥の差がある。だが、姫平には分かった。
母が望むことは。母はきっと、生き別れた友にずっと思慕の念を抱いていた。だからこそ、自身の墓を此処に選んだのだ。
季は額ずき、礼を述べ、仲間を呼んだ。総勢十五人の友が、母の墓の前で別れを告げる。彼等は一様に、こもごもと涙を流していた。声が枯れるまで泣き続けた。姫平は彼等の姿を醜いとは思わなかった。むしろ、清く美しいと思った。母は知っていた。
たとえ、太子に身請けされ、何不自由ない生活を送っていても、真の友愛は、あの狭い鳥籠の中では得られないのだと。そして、母は死して尚、きっと己に之を見せたかったのだと。
己が公族として生まれ落ちた意味―。今、眼の前の光景は七色に輝いて見える。之が人の本来あるべき姿なのかもしれない。人は分相応なものを手に入れば、醜い化け物になる。その巣窟が宮中である。だが、此処には何もない。だからこそ、人の本質が露わになっている。
人は本来、善い性質を抱いている。ならば、公族の己に出来ることは何かー。母が愛した街を守り、宮中を負郭の人々の如く変える。さすれば、この国はもっと良い国へと変わる。姫平は志を母の墓標に掲げた。
「丁!」
姫平は空高く声を張り上げた。その声は天空を裂く。
「あの邑には、俺の母の墓がある。俺が帰ってくるまで、俺の代わりに邑を守ってくれ」
莞爾と笑う。
すると、何百人という人々が駆けてきて、腕が千切れんばかりに振る。
「旦那!」
「必ず戻ってきてくれよ!」
「待ってるからな!」
目頭が熱くなる。ぐっと堪え、皓歯を見せる。
「旦那!約束するよ。おいら旦那の母ちゃんの墓と邑を守ってみせるよ」
稚い眼に涙を溜めた丁が、力瘤を叩く。
「ああ。任せた」
万雷の拍手が背を押した。彼等の声援が、どれだけ利星―。いや、姫平という男が愛されていたのかを証明していた。
(母上、必ず帰ってきます)
はらりと一粒の涙が零れる。姫平は袖で拭い、天へと祈りを捧げた。
「旦那!」
細い両の腕を振り乱して駆けて来る少年の姿がある。胡服を纏った兵士が、馬ごと姫平の前へ。その手は腰の短刀にある。
「さがれ」と短く命じると、兵士は敵愾心をおさめ、馬体を下げる。
「丁」
丁は小さな肩を震わしながら、馬上の姫平を仰ぎ見る。
「旦那。斉へ行くんだろ」
丁の声は震えている。鼻を啜り、懸命に溢れ出しそうなる涙を堪えている。
姫平は薄い笑みを刷く。
「薊一番の情報通は、流石、耳が早いな」
「旦那。殺されちまうのか?」
「さぁな。俺に天祐があれば、しつこく生き永らえることもできるだろうさ」
見上げた空は、墨を暈したように昏い。まるで、これから先起こるであろう、未来を暗示しているようにも見えた。
「負郭の皆も旦那のことを心配してる。おいら達に救いの手を差し伸べてくれたのは、旦那だけたから」
丁は落涙する。やがて抑えきれなくなり、憚らず滂沱の涙を流す。
「おいおい。まるで俺の正体が皆が気付いていたみたいじゃないか」
「そんなのとっくに、気付いているよ」
「もっと巧く立ち回るべきだったか」
かかっと姫平は短く笑う。
「旦那がめしや住める家を与えてくれたおかげで、何百人と死なずに済んだ。それに、旦那が悪さをする大人達を懲らしめてくれたおかげで、おいら達のような力のない子供達も、生きていられる」
利星と名を騙り、己が出来る限り、弱き者の味方であり続けた。だが、それ以上に、己を含めた公族、貴族達は、民から生きる糧を搾取し続けている。彼等に与えたのではない。その一端を返したに過ぎない。正義感からではない。己は庶子として、幼い頃から、周りの連中の奢侈を嫌というほど眼の当りにしてきた。
鯨飲馬食。奢侈淫楽。大人達の卑しい部分ばかりを目にしてきた。その中で、政務を放擲し、享楽に耽る愚か者達を諫めようとする者はいなかった。王である祖父でさえ、外戚や貴族達の濫費に眼を背けていた。
住まう宮中は蛆の巣窟に、姫平の眼には映った。だが、そのまま宮中の瘴気に呑まれていれば、いずれ己自身も嫌悪する、彼等のように成り下がっていただろう。だが、そうはならなかった。母と教育係である秦開が、姫平の淵源にある、澄明な心を守り続けた。秦開は不器用ながら、兵法に則って、己を厳しく律する力を姫平に授けた。また、母は他人を思いやる慈愛の心を授けた。
母の出自は卑しく、孤児で負郭窮巷の生まれであった。負郭では両親を早くに失った子供達が数え切れないほどいる。幼く活計を得ることが叶わない彼等は、徒党を組み、城郭に繰り出し、スリや空き巣などの悪事に手を染め、糊口を凌いでいる。時に器量の良い男女は、安い銭で色を売る。
そして、母も例外なく、生きる為に、色を売る貧しい子供の一人であった。欲に塗れた汚らわしい大人達に凌辱の限りを尽くされる、母の日々は辛く耐えがたいものだっただろう。しかし、母は心を殺すことなく、逞しく生き続けた。母を生かしたのは、生来からの芯の強さもあっただろう。だが、彼女が人としての心を保ち続けることができたのは、ひとえに仲間の存在であった。
負郭は世の爪弾き者の集まりである。だが、彼等には独自の太い絆で結ばれていた。共通の貧しさが彼等の鎹となっていたのである。まるで軍隊のような結束力があり、仲間の窮地には団結して、艱難を乗り越えていく。決して権謀術数渦巻く宮中では、得ることの叶わない人と人との繋がりが、負郭には存在した。
やがて母は、その頃、公子の一人に過ぎなかった、父の臣下の一人の眼に止まり、身請けされることになる。臣下は父に母をあてがい、寵を得た母は、父の数多くいる妾の一人となる。そして、数年後、母は男児を生む。其れが平である。
姫平が生まれる頃には、父の寵は別の妾に移っていた。母の美しさは子を産んでも、少しも損なわれていなかったが、病に臥せることが多くなった。母の躰は、薄汚い男達の精に穢され、内側はぼろぼろであった。
母は病臥にあっても毅然とし、息子に自身が公族として、生まれ落ちた意義を真剣に考えよと諭した。故に幼い頃から、母の言いつけ通り姫平は自問自答を繰り返してきた。
己の道が進むべき道が見えたのは、母が死んだ十歳の春だった。母の葬儀が執り行われたが、参列したのは、姫平、秦開、秦殃。母の身の周りの世話をしていた下女の計四人だけであった。妾として母を囲っていた、父でさえ参列せず、葬儀は粛々と質素に執り行われた。とても太子の妾である、葬儀とは思えないほど、侘しいものだった。
姫平は父を憎んだ。今もこうして、他の女にかまけているのだと思うと、殺してやりたくなった。母は負郭の一角に葬られることになった。母の願いであったらしい。葬儀の列を、負郭の者達は遠巻きで眺めていた。そして、母は小高い丘の上に葬られた。生前、母が仲間達とよく遊んでいた場所だと、秦開に教えられた。
「あの。このお墓は、利明のものでしょうか?」
一人の青年が恐る恐る近づいて、声を掛けてきた。歳の頃は丁度、母と同じくらい。裋褐を纏い、藁の沓を履き、見るからにみすぼらしい恰好の青年であった。
翣を掲げた下女は怯えて後ずさり、秦開が二人の子供達を守るようにして、剣把を掴む。
「そうだよ。利明は母上の名前だ」
秦開を押しのけて、姫平は臆することなく、青年と向き合う。
「叔父さん。母上と知り合い?」
真円の無垢な瞳が青年を見つめる。
「母上…つまり、君は利明の子か?」
頷く。
「あ…ああ」と突然、男が溜息を漏らした。そして、ゆっくりと崩れ落ちていく。
「そうか。君が利明の…。彼女は立派な男の子を授かったのだな」
「叔父さん?」
青年は姫平の手に縋りつき、随喜の涙を流した。
「俺は…君の母さんと友達だった。国のお偉いさんに身請けされてからは、疎遠になったけれど」
「じゃあ、あの人達も?」
丘の麓には、此方の様子を窺う数十人の男女の姿がある。
青年は「ああ。そうだよ」と声を震わせて答えた。不思議だった。母と子を成した父が葬儀に参列もしなかったのに、かつての母の友であった男が、頬を濡らしている。
「叔父さん。名前は?」
「季だよ」
「じゃあ、季さん。他の皆と一緒に、母上にお別れの挨拶をしてあげて」
「いいのかい」
季と名乗った青年は、眼を丸くした。かつて友であっても、今の母と季達の身分には、雲泥の差がある。だが、姫平には分かった。
母が望むことは。母はきっと、生き別れた友にずっと思慕の念を抱いていた。だからこそ、自身の墓を此処に選んだのだ。
季は額ずき、礼を述べ、仲間を呼んだ。総勢十五人の友が、母の墓の前で別れを告げる。彼等は一様に、こもごもと涙を流していた。声が枯れるまで泣き続けた。姫平は彼等の姿を醜いとは思わなかった。むしろ、清く美しいと思った。母は知っていた。
たとえ、太子に身請けされ、何不自由ない生活を送っていても、真の友愛は、あの狭い鳥籠の中では得られないのだと。そして、母は死して尚、きっと己に之を見せたかったのだと。
己が公族として生まれ落ちた意味―。今、眼の前の光景は七色に輝いて見える。之が人の本来あるべき姿なのかもしれない。人は分相応なものを手に入れば、醜い化け物になる。その巣窟が宮中である。だが、此処には何もない。だからこそ、人の本質が露わになっている。
人は本来、善い性質を抱いている。ならば、公族の己に出来ることは何かー。母が愛した街を守り、宮中を負郭の人々の如く変える。さすれば、この国はもっと良い国へと変わる。姫平は志を母の墓標に掲げた。
「丁!」
姫平は空高く声を張り上げた。その声は天空を裂く。
「あの邑には、俺の母の墓がある。俺が帰ってくるまで、俺の代わりに邑を守ってくれ」
莞爾と笑う。
すると、何百人という人々が駆けてきて、腕が千切れんばかりに振る。
「旦那!」
「必ず戻ってきてくれよ!」
「待ってるからな!」
目頭が熱くなる。ぐっと堪え、皓歯を見せる。
「旦那!約束するよ。おいら旦那の母ちゃんの墓と邑を守ってみせるよ」
稚い眼に涙を溜めた丁が、力瘤を叩く。
「ああ。任せた」
万雷の拍手が背を押した。彼等の声援が、どれだけ利星―。いや、姫平という男が愛されていたのかを証明していた。
(母上、必ず帰ってきます)
はらりと一粒の涙が零れる。姫平は袖で拭い、天へと祈りを捧げた。
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