瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦

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災禍の音

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 正門を抜ける一団。本来、講和の交渉材料の一つである質子を、斉に送り届ける為の使節団であるが、粛々とした様子はなく、まるで規律の行き届いた軍隊の如く、朔風さくふう吹きすさぶ中を歩んでいく。

「旦那!」
 細い両の腕を振り乱して駆けて来る少年の姿がある。胡服を纏った兵士が、馬ごと姫平の前へ。その手は腰の短刀にある。

「さがれ」と短く命じると、兵士は敵愾心をおさめ、馬体を下げる。

てい
 丁は小さな肩を震わしながら、馬上の姫平を仰ぎ見る。

「旦那。斉へ行くんだろ」
 丁の声は震えている。鼻を啜り、懸命に溢れ出しそうなる涙を堪えている。
 
 姫平は薄い笑みを刷く。

けい一番の情報通は、流石、耳が早いな」

「旦那。殺されちまうのか?」

「さぁな。俺に天祐があれば、しつこく生き永らえることもできるだろうさ」
 見上げた空は、墨を暈したように昏い。まるで、これから先起こるであろう、未来を暗示しているようにも見えた。

「負郭の皆も旦那のことを心配してる。おいら達に救いの手を差し伸べてくれたのは、旦那だけたから」
 丁は落涙する。やがて抑えきれなくなり、憚らず滂沱の涙を流す。

「おいおい。まるで俺の正体が皆が気付いていたみたいじゃないか」

「そんなのとっくに、気付いているよ」

「もっと巧く立ち回るべきだったか」
 かかっと姫平は短く笑う。

「旦那がめしや住める家を与えてくれたおかげで、何百人と死なずに済んだ。それに、旦那が悪さをする大人達を懲らしめてくれたおかげで、おいら達のような力のない子供達も、生きていられる」
 利星りせきと名を騙り、己が出来る限り、弱き者の味方であり続けた。だが、それ以上に、己を含めた公族、貴族達は、民から生きる糧を搾取し続けている。彼等に与えたのではない。その一端を返したに過ぎない。正義感からではない。己は庶子として、幼い頃から、周りの連中の奢侈を嫌というほど眼の当りにしてきた。

鯨飲馬食げいいんばしょく。奢侈淫楽。大人達の卑しい部分ばかりを目にしてきた。その中で、政務を放擲し、享楽に耽る愚か者達を諫めようとする者はいなかった。王である祖父でさえ、外戚や貴族達の濫費らんぴに眼を背けていた。

住まう宮中は蛆の巣窟に、姫平の眼には映った。だが、そのまま宮中の瘴気に呑まれていれば、いずれ己自身も嫌悪する、彼等のように成り下がっていただろう。だが、そうはならなかった。母と教育係である秦開が、姫平の淵源にある、澄明な心を守り続けた。秦開は不器用ながら、兵法に則って、己を厳しく律する力を姫平に授けた。また、母は他人を思いやる慈愛の心を授けた。
 
 母の出自は卑しく、孤児で負郭窮巷ふかくきゅうこうの生まれであった。負郭では両親を早くに失った子供達が数え切れないほどいる。幼く活計たっきを得ることが叶わない彼等は、徒党を組み、城郭に繰り出し、スリや空き巣などの悪事に手を染め、糊口ここうを凌いでいる。時に器量の良い男女は、安い銭で色を売る。

 そして、母も例外なく、生きる為に、色を売る貧しい子供の一人であった。欲に塗れた汚らわしい大人達に凌辱の限りを尽くされる、母の日々は辛く耐えがたいものだっただろう。しかし、母は心を殺すことなく、逞しく生き続けた。母を生かしたのは、生来からの芯の強さもあっただろう。だが、彼女が人としての心を保ち続けることができたのは、ひとえに仲間の存在であった。

 負郭は世の爪弾き者の集まりである。だが、彼等には独自の太い絆で結ばれていた。共通の貧しさが彼等の鎹となっていたのである。まるで軍隊のような結束力があり、仲間の窮地には団結して、艱難を乗り越えていく。決して権謀術数渦巻く宮中では、得ることの叶わない人と人との繋がりが、負郭には存在した。
 
 やがて母は、その頃、公子の一人に過ぎなかった、父の臣下の一人の眼に止まり、身請けされることになる。臣下は父に母をあてがい、寵を得た母は、父の数多くいる妾の一人となる。そして、数年後、母は男児を生む。其れが平である。
 
 姫平が生まれる頃には、父の寵は別の妾に移っていた。母の美しさは子を産んでも、少しも損なわれていなかったが、病に臥せることが多くなった。母の躰は、薄汚い男達の精に穢され、内側はぼろぼろであった。
 
 母は病臥にあっても毅然とし、息子に自身が公族として、生まれ落ちた意義を真剣に考えよと諭した。故に幼い頃から、母の言いつけ通り姫平は自問自答を繰り返してきた。
 
 己の道が進むべき道が見えたのは、母が死んだ十歳の春だった。母の葬儀が執り行われたが、参列したのは、姫平、秦開、秦殃。母の身の周りの世話をしていた下女の計四人だけであった。妾として母を囲っていた、父でさえ参列せず、葬儀は粛々と質素に執り行われた。とても太子の妾である、葬儀とは思えないほど、侘しいものだった。

姫平は父を憎んだ。今もこうして、他の女にかまけているのだと思うと、殺してやりたくなった。母は負郭の一角に葬られることになった。母の願いであったらしい。葬儀の列を、負郭の者達は遠巻きで眺めていた。そして、母は小高い丘の上に葬られた。生前、母が仲間達とよく遊んでいた場所だと、秦開に教えられた。

「あの。このお墓は、利明りめいのものでしょうか?」
 一人の青年が恐る恐る近づいて、声を掛けてきた。歳の頃は丁度、母と同じくらい。裋褐じゅかつを纏い、藁の沓を履き、見るからにみすぼらしい恰好の青年であった。

 そうを掲げた下女は怯えて後ずさり、秦開が二人の子供達を守るようにして、剣把を掴む。

「そうだよ。利明は母上の名前だ」
 秦開を押しのけて、姫平は臆することなく、青年と向き合う。

「叔父さん。母上と知り合い?」
 真円の無垢な瞳が青年を見つめる。

「母上…つまり、君は利明の子か?」
 頷く。

「あ…ああ」と突然、男が溜息を漏らした。そして、ゆっくりと崩れ落ちていく。

「そうか。君が利明の…。彼女は立派な男の子を授かったのだな」

「叔父さん?」
 青年は姫平の手に縋りつき、随喜の涙を流した。

「俺は…君の母さんと友達だった。国のお偉いさんに身請けされてからは、疎遠になったけれど」

「じゃあ、あの人達も?」
 丘の麓には、此方の様子を窺う数十人の男女の姿がある。

 青年は「ああ。そうだよ」と声を震わせて答えた。不思議だった。母と子を成した父が葬儀に参列もしなかったのに、かつての母の友であった男が、頬を濡らしている。

「叔父さん。名前は?」

だよ」

「じゃあ、季さん。他の皆と一緒に、母上にお別れの挨拶をしてあげて」

「いいのかい」
 季と名乗った青年は、眼を丸くした。かつて友であっても、今の母と季達の身分には、雲泥の差がある。だが、姫平には分かった。

母が望むことは。母はきっと、生き別れた友にずっと思慕の念を抱いていた。だからこそ、自身の墓を此処に選んだのだ。

 季は額ずき、礼を述べ、仲間を呼んだ。総勢十五人の友が、母の墓の前で別れを告げる。彼等は一様に、こもごもと涙を流していた。声が枯れるまで泣き続けた。姫平は彼等の姿を醜いとは思わなかった。むしろ、清く美しいと思った。母は知っていた。

 たとえ、太子に身請けされ、何不自由ない生活を送っていても、真の友愛は、あの狭い鳥籠の中では得られないのだと。そして、母は死して尚、きっと己に之を見せたかったのだと。

 己が公族として生まれ落ちた意味―。今、眼の前の光景は七色に輝いて見える。之が人の本来あるべき姿なのかもしれない。人は分相応なものを手に入れば、醜い化け物になる。その巣窟が宮中である。だが、此処には何もない。だからこそ、人の本質が露わになっている。

 人は本来、善い性質を抱いている。ならば、公族の己に出来ることは何かー。母が愛した街を守り、宮中を負郭の人々の如く変える。さすれば、この国はもっと良い国へと変わる。姫平は志を母の墓標に掲げた。

「丁!」
 姫平は空高く声を張り上げた。その声は天空を裂く。

「あの邑には、俺の母の墓がある。俺が帰ってくるまで、俺の代わりに邑を守ってくれ」
 莞爾と笑う。
 すると、何百人という人々が駆けてきて、腕が千切れんばかりに振る。

「旦那!」

「必ず戻ってきてくれよ!」

「待ってるからな!」
 目頭が熱くなる。ぐっと堪え、皓歯こうしを見せる。

「旦那!約束するよ。おいら旦那の母ちゃんの墓と邑を守ってみせるよ」
 稚い眼に涙を溜めた丁が、力瘤を叩く。

「ああ。任せた」
 万雷の拍手が背を押した。彼等の声援が、どれだけ利星―。いや、姫平という男が愛されていたのかを証明していた。

(母上、必ず帰ってきます)
 はらりと一粒の涙が零れる。姫平は袖で拭い、天へと祈りを捧げた。


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