瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦

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災禍の音

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 父である燕王は斉の侵略に戦々兢々とし、講和を有利に進めることができる可能性を秘めた、世継ぎの姫職が質子となることを自ら名乗り出たことで、心底胸を撫で下ろした。

 姫職の母である后は、泣きついて燕王に再考を哀訴嘆願あいそたんがんしたが、姫職が質子として、斉に送られることは確実と思われていた。しかし、事態は急転直下の時を迎える。
 
 姫職が質子として斉への出発を控えた三日前、粛々と支度を整えていた一行の元に急報が入る。王命により、斉に人質として送るのは、姫職ではなく、庶子である姫平とするというものだった。報せを受けた姫平は激昂する。己の身可愛さからの怒りではない。裏で糸を引く男の思惑が、火焔の如き怒りを誘った。
子之は意趣返し、そして己の邪魔者を排撃する為に、世継ぎの姫職ではなく、庶子の姫平を手放すべきだと、燕王に諭したのだろう。
 
 しかし、何れは護国の剣を賜った、姫平を太子に冊立するようにとの先王の遺言がある。だが、燕王は父であった易王以上に、宰相として辣腕を振るう、子之を信頼している。彼が耳元で甘言を囁けば、瞬く間に篭絡される。

更に子之は斉との講和の立案者である、蘇代、蘇厲兄弟を、連日、饗応にてもてなし、誼を通じ信頼を勝ち取った。蘇代に至っては、子之が囲う妾を譲り受けるまでに、友誼を交わしていた。子之は人を惑乱させる、巧みな話術がある。悲しき哉、偉大な兄を持つ、蘇兄弟には人の淵源えんげんを視る力はなかった。

 子之の謀が功を奏し、己が国を去ることになれば、奴は益々増長し専横を極める。姫職は世継ぎとして、教育によって政治力を涵養かんようしてきた。しかし、病弱な故、子之と亘り合うだけの気力も体力もない。百官の大分も、今や子之の勢力に組み込まれている。本来、子之の専横を抑すべき、王は子之に酒池肉林を与えられ、飼い狗状態である。
 
 去った後の燕国がどのような末路を辿るのかー。想像に容易い。姫平は自身の房で、呆然と立ち尽くし、腰にある護国の剣に触れた。剣格に填る、蒼と黒の玉は沈んだ色を湛えている。うんともすんともいわない剣に苛立つ。

「何が英雄王の剣だ」
 己が本当にこの国を窮地から救う、英雄王ならば子之が如き狡吏の深謀遠慮に、容易く嵌められるはずなどない。
 子之は簒奪を目論んでいる。あの澄ました瞳の奥にあるのは、底無しの野心と奈落のように深い憎しみである。奴が何に対して、黒い感情を抱いているのかは分からない。だが、あの渦巻く憎しみは、この国に何れ災禍を齎す。

「若」

「秦殃か」
 そっと入ってきた、秦殃は視線を彷徨わせる。彼は言葉を探すように、暫しの間、沈黙する。

「秦殃。お前は燕に残れ」

「えっ?」

「弟をー。職を護って欲しい」

「父上より私は、若の身を護るようにと仰せつかりました」
 秦殃の声は、涙声であった。

「俺は自分の身くらいは守れる」

「なりません。若が向かわれるのは、あの斉なのですよ。講和だって、うまくまとまるかも分からないじゃないですか。斉王は狡猾な男だと聞いています。交渉の場で、若の命が危険に晒されることだって」

「それは愚かな蘇兄弟の舌峰次第って所だろうな」

「仮にうまくまとまったとして、若の身に待ち受けているのは、恐らく長く厳しい虜囚同然の生活です」
 堪えきれずに、秦殃が嗚咽を漏らした。
 
 本来、人質として他国に送られた庶子、公子に金銭面を援助するのは祖国である。だが、あの悪辣な子之のことだ。鼻から期待などできない。

「分かっているさ。だが、職の元には信用できる者を一人でも多く残してやりたい。これから子之は派手に動き出す。玉座を得る為に、次々と邪魔者を排除していくはずだ。それは、世継ぎである職も例外ではない」
 姫平は言葉を切り、曇りのない忠義を胸に抱く、若き将校に向き直った。

「宮中は猖獗しょうけつを極めている。秦殃…今は職を助けてやって欲しい」
 若。と滂沱の涙を流す、秦殃が漏らす。

「秦開には謫戍たくじゅの兵を率いて、北に逃れろと伝えてくれ。子之にとって、国そのものに忠義を尽くす、秦開は邪魔者だ。将兵からの人気がある、秦開に軍権を握らせていては、奴の心中も穏やかではないだろう。それと、もし万が一のことがあれば、市被将軍を頼るといい。朴訥とした男だが、きっと力になってくれる」
 姫平は決河の勢いで溢れてくる感情を、懸命に押しとどめ、幼少の頃から兄弟同然に育った、二つ年上の親友と抱擁を交わした。

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