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災禍の音
六
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土埃を被った胡服姿のまま、姫平は弟の房を訪ねた。近習の者がせめて装いを正すように窘めてくるが、お構いなしに房に入る。
「戻ったぞ」
「兄上!」
病臥にある姫職は、黄塵に塗れた兄の顔を認めると、花が咲いたように笑った。立ち上がり出迎えようとした、姫職を手で制する。
「兄上、無事で良かった」
姫職は蒼白い手を重ね、拱手する。杏仁型の眼からは、今にも涙が溢れ出しそうだ。
「そう簡単に俺がくたばると思うか」
と屈託のない笑顔で尋ねる。
「兄上ならば、たとえ竜が相手でも、首を奪って帰ってくるでしょう」
呵々と笑う兄につられて、鈴を転がしたような音の笑い声を姫職はあげる。
「私は兄上が心底羨ましい。誰よりも不羈であり、強靭で、人の目など気にしない心の強さがある」
姫職は咳き込み、長い睫毛を伏せた。
「国が危急の時であると云うのに、私は病に臥せ、人の手を煩わせている。私にも頑健な躰があれば、兄上と共に戦場へ赴くことができたのでしょうが」
握りしめた拳が徐々に赤くなっていく。
姫平は傍で控えている、秦殃を見た。彼には弟の傍に控えているように命じてあった。秦殃は苦々しい面持ちで此方を見る。姫職は床に臥せている間、相当に思い詰めていたようだ。
「人にはそれぞれ役割というものがある。俺は、生まれつき躰だけは頑丈だから、剣を執り戦える。だが、俺にはお前ほどの利口さはない。俺が知る限り、お前は誰よりも聡明な男だよ」
姫職が苦笑を浮かべる。
「幾ら勉学が出来ようとも、臣下達は誰も私の意見などに耳を傾けません。歳も若く、この病弱な躰です。皆が私を侮っているのです。だから、私は己が出来ることを成します」
伏せていた面を上げた、姫職の顔は、何処か吹っ切れたような明るさがあった。
「どういう意味だ?」
「私が質子となり、斉へ行きます」
言葉に窮する。見遣った秦殃は、頭を振っている。
蘇代と蘇厲は、斉の侵攻を止める手立てとして、質子と土地の割譲を条件に、講和に踏み切ろうとしている。庶子、公子は幾らでもいる。中には安逸を貪るだけのろくでなしもいる。ならば、そのような連中をせめて質子として活用すべきである。確かに世継ぎである姫職が質子として、交渉の材料の一つとなれば、講和は有利に進めることができる。
「駄目だ」
姫平は断ち斬るように言った。
「何故です」
「順序で言えば、正室の子である、お前が次の太子だ。妾の子である、俺達とは立場の重みが違う」
「お忘れですか。御爺様は私ではなく、兄上に護国の剣を託されました。それだけではない。遺言で父上に時宜を見極め、兄上を太子に冊立するように言い残されている」
姫職の真っ直ぐな眼には、嫉みのようなものはない。ただ一心に、この国の未来を按じ、己が成せる務めを果たそうとしている。
「だが」
逡巡する兄の手に、冷えた弟の手が重ねられる。
「兄上、覚悟を決めて下さい。貴方は古より燕国を護り続けてきた護国の剣―。そして、祖霊に選ばれたのです。私はこの躰ゆえ、傍観者に徹してきました。だから、よく視えるのです。この国の腐敗がー。嘆かわしいことですが、父上に腐敗を止めることはできない。むしろ、父上の代で腐敗は、更に瀰漫することでしょう。ですが、兄上。貴方なら毒に侵された、この国を浄化することができる」
姫職の言葉の節々に力が籠る。
「私は兄上を心から尊敬しているのです。他の庶子、公子と違い、権勢を誇ることはない。自らの名を貶めてまで、貧しき者達に寄り添い、常に味方であろうとする。私には断言できます。兄上が王となれば、この国はー。いや、千々に乱れた天下は匡されると」
(天下だと)
この俺が、莫迦な。負郭の子供達が、餓えで死んでいく様が脳裏を過る。ごつごつとした掌を見遣る。これまでどれほど、この掌から命が零れ落ちてきたことか。
「よしてくれ。俺はー」
「兄上。私の大好きなこの国を、貴方が護って下さい」
姫職が莞爾として笑った。
もう彼の覚悟は決まっている。この躰では、斉に行くまでの道中も苦しいものになる。更に、向こうでは自由を制約された暮らしが待っている。悪ければ虜囚に近い扱いを受けるだろう。恐らく長くは耐えられない。姫職は己の命を犠牲にして、講和を実現させようとしている。この無力な兄に未来を託す為にー。
何方が王になろうと、兄弟二人で、この国を支えることが出来たなら、二人で一つの真面の王となれただろう。まるで翼が捥がれたかのように苦しい。だが、弟の不退転の覚悟は充分に伝わった。
「約束する。俺がこの国をー。民を護り抜くと」
姫職の眼が彩へと変わり、涙が頬を伝う。
きっと今生の別れになる。だが、志は一つ。胸の志が宿り続ける限り、最愛の弟はいつも傍にいる。
「戻ったぞ」
「兄上!」
病臥にある姫職は、黄塵に塗れた兄の顔を認めると、花が咲いたように笑った。立ち上がり出迎えようとした、姫職を手で制する。
「兄上、無事で良かった」
姫職は蒼白い手を重ね、拱手する。杏仁型の眼からは、今にも涙が溢れ出しそうだ。
「そう簡単に俺がくたばると思うか」
と屈託のない笑顔で尋ねる。
「兄上ならば、たとえ竜が相手でも、首を奪って帰ってくるでしょう」
呵々と笑う兄につられて、鈴を転がしたような音の笑い声を姫職はあげる。
「私は兄上が心底羨ましい。誰よりも不羈であり、強靭で、人の目など気にしない心の強さがある」
姫職は咳き込み、長い睫毛を伏せた。
「国が危急の時であると云うのに、私は病に臥せ、人の手を煩わせている。私にも頑健な躰があれば、兄上と共に戦場へ赴くことができたのでしょうが」
握りしめた拳が徐々に赤くなっていく。
姫平は傍で控えている、秦殃を見た。彼には弟の傍に控えているように命じてあった。秦殃は苦々しい面持ちで此方を見る。姫職は床に臥せている間、相当に思い詰めていたようだ。
「人にはそれぞれ役割というものがある。俺は、生まれつき躰だけは頑丈だから、剣を執り戦える。だが、俺にはお前ほどの利口さはない。俺が知る限り、お前は誰よりも聡明な男だよ」
姫職が苦笑を浮かべる。
「幾ら勉学が出来ようとも、臣下達は誰も私の意見などに耳を傾けません。歳も若く、この病弱な躰です。皆が私を侮っているのです。だから、私は己が出来ることを成します」
伏せていた面を上げた、姫職の顔は、何処か吹っ切れたような明るさがあった。
「どういう意味だ?」
「私が質子となり、斉へ行きます」
言葉に窮する。見遣った秦殃は、頭を振っている。
蘇代と蘇厲は、斉の侵攻を止める手立てとして、質子と土地の割譲を条件に、講和に踏み切ろうとしている。庶子、公子は幾らでもいる。中には安逸を貪るだけのろくでなしもいる。ならば、そのような連中をせめて質子として活用すべきである。確かに世継ぎである姫職が質子として、交渉の材料の一つとなれば、講和は有利に進めることができる。
「駄目だ」
姫平は断ち斬るように言った。
「何故です」
「順序で言えば、正室の子である、お前が次の太子だ。妾の子である、俺達とは立場の重みが違う」
「お忘れですか。御爺様は私ではなく、兄上に護国の剣を託されました。それだけではない。遺言で父上に時宜を見極め、兄上を太子に冊立するように言い残されている」
姫職の真っ直ぐな眼には、嫉みのようなものはない。ただ一心に、この国の未来を按じ、己が成せる務めを果たそうとしている。
「だが」
逡巡する兄の手に、冷えた弟の手が重ねられる。
「兄上、覚悟を決めて下さい。貴方は古より燕国を護り続けてきた護国の剣―。そして、祖霊に選ばれたのです。私はこの躰ゆえ、傍観者に徹してきました。だから、よく視えるのです。この国の腐敗がー。嘆かわしいことですが、父上に腐敗を止めることはできない。むしろ、父上の代で腐敗は、更に瀰漫することでしょう。ですが、兄上。貴方なら毒に侵された、この国を浄化することができる」
姫職の言葉の節々に力が籠る。
「私は兄上を心から尊敬しているのです。他の庶子、公子と違い、権勢を誇ることはない。自らの名を貶めてまで、貧しき者達に寄り添い、常に味方であろうとする。私には断言できます。兄上が王となれば、この国はー。いや、千々に乱れた天下は匡されると」
(天下だと)
この俺が、莫迦な。負郭の子供達が、餓えで死んでいく様が脳裏を過る。ごつごつとした掌を見遣る。これまでどれほど、この掌から命が零れ落ちてきたことか。
「よしてくれ。俺はー」
「兄上。私の大好きなこの国を、貴方が護って下さい」
姫職が莞爾として笑った。
もう彼の覚悟は決まっている。この躰では、斉に行くまでの道中も苦しいものになる。更に、向こうでは自由を制約された暮らしが待っている。悪ければ虜囚に近い扱いを受けるだろう。恐らく長くは耐えられない。姫職は己の命を犠牲にして、講和を実現させようとしている。この無力な兄に未来を託す為にー。
何方が王になろうと、兄弟二人で、この国を支えることが出来たなら、二人で一つの真面の王となれただろう。まるで翼が捥がれたかのように苦しい。だが、弟の不退転の覚悟は充分に伝わった。
「約束する。俺がこの国をー。民を護り抜くと」
姫職の眼が彩へと変わり、涙が頬を伝う。
きっと今生の別れになる。だが、志は一つ。胸の志が宿り続ける限り、最愛の弟はいつも傍にいる。
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