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災禍の音
四
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易水を越えて、五十里ほど進んだ所に、軍営はあった。凡そ十万の兵が駐屯する軍営であり、今は斉の大軍勢に対しての最大の防衛線にあたる。
なだらかな丘隆地にある軍営からは、華北地方の大河―。㶟水を一望できる。普段は流れが穏やかな河川であるが、数日雨が降り続けると、瞬く間に氾濫する。洪水の度に流路が変わるので、地元の者達には無定と呼称されることが多い。
「紹介しよう。此方は市被将軍だ」
蘇兄弟が通されたのは、将校達が使う大幕舎であった。大幕舎の中で待っていたのは、十万の軍を率いる市被将軍。巌のような男で、表情の変化が乏しい、無骨な感じがする、軍人を絵に描いたような男だった。
「不愛想な男でな。それでも、軍人として腕は立つ」
と胡服姿の姫平は、軽く笑って見せる。大幕舎の中には、矩形の几があり、上には燕と斉の全土を描いた地図が広げられている。異装の庶子はまるで軍人の如く、殺伐とした軍営に馴染んでいる。
「あの王子」
蘇代はずっと抱いていた疑問を口にした。
「何故、王子が御自ら鎧を纏い、このような前線へ赴いておられるのでしょうか?」
視察という感じではない。何より、己達を助けてくれたのは、庶子が率いる騎馬隊だった。まさかとは思うがー。
「燕は深刻な人材不足でな。爺様が臥せってからと云うもの、佞臣共が勢力をつけ、有能な武官の多くを他所へと放逐しやがった。故に、庶子である俺が出張って来てるってわけ」
蘇代は言葉に窮した。兄が命を懸けて、尽くした国が、庶子を戦場に送り込まなければならないほどに危殆に瀕しているのか。しかし、眼の前の庶子は他の公室の者と毛色が違う。庶子と云うより、遊侠少年の観が強い。権を嵩に着ず、物言いも粗野であるものの居丈高ではない。何処か人の気持ちを憩わせる不思議な魅力がある。
「燕では秦開将軍が軍事を掌握されていると聞いておりましたが」
唐突に蘇厲が訊いた。
「ああ、その通り。だが、先も云った通り、燕は人材不足だ。そして、南から斉が攻めてきている今、北の情況も穏やかではない」
「林胡や楼煩ですか」
之等は北の夷狄を指す。
「ご名答」
蘇代の言に、地図の北側に小刀を突き差して、姫平が言った。
「秦開は北に釘付けになっている。奴は蛮族との戦に馴れている。北の戦に、奴以外の適任者はいない」
「正に万事休すですな」
「宰相田嬰の陥穽は見事だったよ。此方の百手先を読み、この日の為に虎視眈々と準備を整えていやがった。だが、敗ける訳にはいかない。此処で退けば、無辜の民が凌辱の限りを尽くされる」
蘇代は思惟を巡らせた。
かつて兄の蘇秦は、斉が文公の喪中に乗じて、燕の十余城を奪った時、自身の能力を認めさせる為に、斉王を説得して十余城を舌峰の鋭さだけで返還させて見せた。この功績により、兄は易王の信任を得たのだ。
残された蘇代、蘇厲兄弟は、まだ何一つとして、歴史に足跡を残せていない。何かを成すならば、今、この時ではないのかー。めまぐるしく思惟が廻る。救済の道は僅かしかない。だが、犠牲を払えば、無辜の民を救える道はある。相応の対価を支払うことにはなるがー。その対価とは。蘇代は姫平の精悍な横顔を見つめた。
「王子よ。燕を救える道があるやもしれませぬ」
なだらかな丘隆地にある軍営からは、華北地方の大河―。㶟水を一望できる。普段は流れが穏やかな河川であるが、数日雨が降り続けると、瞬く間に氾濫する。洪水の度に流路が変わるので、地元の者達には無定と呼称されることが多い。
「紹介しよう。此方は市被将軍だ」
蘇兄弟が通されたのは、将校達が使う大幕舎であった。大幕舎の中で待っていたのは、十万の軍を率いる市被将軍。巌のような男で、表情の変化が乏しい、無骨な感じがする、軍人を絵に描いたような男だった。
「不愛想な男でな。それでも、軍人として腕は立つ」
と胡服姿の姫平は、軽く笑って見せる。大幕舎の中には、矩形の几があり、上には燕と斉の全土を描いた地図が広げられている。異装の庶子はまるで軍人の如く、殺伐とした軍営に馴染んでいる。
「あの王子」
蘇代はずっと抱いていた疑問を口にした。
「何故、王子が御自ら鎧を纏い、このような前線へ赴いておられるのでしょうか?」
視察という感じではない。何より、己達を助けてくれたのは、庶子が率いる騎馬隊だった。まさかとは思うがー。
「燕は深刻な人材不足でな。爺様が臥せってからと云うもの、佞臣共が勢力をつけ、有能な武官の多くを他所へと放逐しやがった。故に、庶子である俺が出張って来てるってわけ」
蘇代は言葉に窮した。兄が命を懸けて、尽くした国が、庶子を戦場に送り込まなければならないほどに危殆に瀕しているのか。しかし、眼の前の庶子は他の公室の者と毛色が違う。庶子と云うより、遊侠少年の観が強い。権を嵩に着ず、物言いも粗野であるものの居丈高ではない。何処か人の気持ちを憩わせる不思議な魅力がある。
「燕では秦開将軍が軍事を掌握されていると聞いておりましたが」
唐突に蘇厲が訊いた。
「ああ、その通り。だが、先も云った通り、燕は人材不足だ。そして、南から斉が攻めてきている今、北の情況も穏やかではない」
「林胡や楼煩ですか」
之等は北の夷狄を指す。
「ご名答」
蘇代の言に、地図の北側に小刀を突き差して、姫平が言った。
「秦開は北に釘付けになっている。奴は蛮族との戦に馴れている。北の戦に、奴以外の適任者はいない」
「正に万事休すですな」
「宰相田嬰の陥穽は見事だったよ。此方の百手先を読み、この日の為に虎視眈々と準備を整えていやがった。だが、敗ける訳にはいかない。此処で退けば、無辜の民が凌辱の限りを尽くされる」
蘇代は思惟を巡らせた。
かつて兄の蘇秦は、斉が文公の喪中に乗じて、燕の十余城を奪った時、自身の能力を認めさせる為に、斉王を説得して十余城を舌峰の鋭さだけで返還させて見せた。この功績により、兄は易王の信任を得たのだ。
残された蘇代、蘇厲兄弟は、まだ何一つとして、歴史に足跡を残せていない。何かを成すならば、今、この時ではないのかー。めまぐるしく思惟が廻る。救済の道は僅かしかない。だが、犠牲を払えば、無辜の民を救える道はある。相応の対価を支払うことにはなるがー。その対価とは。蘇代は姫平の精悍な横顔を見つめた。
「王子よ。燕を救える道があるやもしれませぬ」
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