瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦

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庶子平

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 憤懣ふんまんやるかたないとは、このことか。秦開は怒りで逆上そうになりながら、観音開き鉄扉の前で、気息を整えた。
大仰な深呼吸に房を警護する、二人の衛士が、「将軍、大丈夫ですか?」と声を掛けてくる始末。秦開はぎこちない作り笑いを浮かべ、「何てことはない」と返す。

「秦開将軍がお見えでございます」
 衛士が高らかに、扉の奥にまで聞こえるように告げた。
 
 わざとらしい空咳が鳴る。

「通せ」
 よく透る声でのたまう。
 
 扉が重低音を響かせて開いた。房に満ちていた香の馥郁ふくいくとした香りが押し寄せてくる。

「どうした、秦開?今日は一段と顔が険しいぞ」
 蒼裙そうくんの裾をはだけるほどに股を開き、脇息きょうそくに凭れかかる姫平きへいはあっけらかんと告げる。

「白々しいですぞ。若」
 秦開の岩を想起させる顔が、憤懣で更に角ばっていく。

「さて。何のことか」
 あろうことか姫平は、此方の神経を逆撫でするように、鼻の孔をほじり、欠伸までし出す始末。見る見る内に、陽に焼けた秦開の肌が赤黒く変色していく。

「貴方様は未だご自身の御立場を理解されていない」
 また始まったと。姫平は嘆息し、斜を向く。

「貴方様は偉大なる燕王の御令孫であらせられるのですぞ。何度も申し上げますが、為政者としての教育を受けるのは、貴方様の義務なのです。それなのに、貴方は黄元殿の講義を抜け出し、裋褐じゅかつ(粗末な服)を纏い、高貴な身分を貶め、負郭の娼館で女色に耽溺する始末」
 庶子平の教育係を任されている、秦開にとって、これほど情けのないことはない。
 
 秦開は四十半ば。妻との間に、一人の息子をもうけはいるが、本心はこの馬鹿王子も実の子供同然に愛くるしい。だからこそ、余計に情けなく虚しくなってくる。いつしか怒りは消え、秦開は滂沱ぼうだの涙を流していた。

「やめろ。泣くな、秦開。お前こそ、この燕国の大司馬だいしば(軍の総帥)なのだぞ。人前で涙など流すな。みっともない」
 具足の内から布切れを取り出し、きーんと鼻をかむ。

「軽挙妄動は控えて頂きたい」
 嗚咽を堪え、秦開は震える声で言った。

「歳をくうと、それほどに人は涙脆くなるものなのか」
 姫平はやれやれと立ち上がり、秦開の丸くなった背を優しくさすり、ながいすの上に座らせてやる。

「なぁ、秦開。俺のことで神経質になるな。所詮、俺は庶子の一人に過ぎん。俺は好きなように生きたいのさ」
 姫平は席次の低いー。いわゆる賤妾せんしょうの子だった。彼の父―。太子かいは色狂いとして有名で、十代前半の頃から、女体に耽溺し、三十人を超える子を成している。席次の低い妾の子に、王位継承権はない。嫡流から外れた彼等を庶子と呼ぶ。

 一般的に庶子は公宮において、白眼視されることが多い。王位継承権を持つ公子達は、賤しい女の子として蔑み、憚らず穀潰しなどと悪罵する。秦開してみれば、公子達もそうは変わらない。ただ偶然、席次の高い妃妾の子として生まれただけで、働きもせず、搾り取った民の膏血こうけつ安逸あんいつを貪っている者が殆どである。
 
 背をさする手をとめ、姫平は嗚咽を漏らす、秦開の隣に腰を下ろした。

「お忘れか。大王様は太子である、貴方の父君でなく、庶子の一人に過ぎない、貴方様に護国の剣を下賜されたのですよ」
 秦開は涙の滲む充血した眼で、衝立の傍で無造作に立て掛けてある、剣格に二つの宝玉が填った剣を見た。
 
 この燕国には、歴代君主に受け継がれる三つの神器なるものがある。一つめは白虎裘びゃっこきゅう、二つめは烏号うごうと呼ばれる神弓。この二つは、周の武王が始祖召公奭に下賜したものである。特に烏号は、神代の黄帝こうていが愛用し、神竜に乗って天へと昇る際、別れを惜しむ地上の人々に残した弓と伝わっている。
 
そして、最後は現燕王が庶子平に託した護国の剣。この剣についての仔細は、歴代の君主の座についたものにしか語られていない。先の二物と違い、明確な伝承は残されていない。

だが、白虎裘と烏号が、宮殿の天地を祀る祭殿に保管されているのに対して、護国の剣は歴代の君主が受け継いでいくことになっている。つまり、先君より護国の剣を託されたものこそ、次の君主となる。病床にある燕王が、庶子に過ぎない孫の姫平に護国の剣を託した。本来、剣を託すのならば、太子噲が至当というものだ。

燕王は太子を廃嫡し、孫の姫平を新たに太子へと冊立するつもりなのだろうか。だが、臥せる燕王は何も語らず、太子噲への廃嫡の動きもない。今、燕の都である薊の宮中は、気味が悪いほどに森閑としている。新たな王に付き、既得権益を保持したい佞臣ねいしん共が、息を潜めて趨勢すうせいを静観している。

 太子噲は狂宴濫行きょうえんらんぎょうを好む、凡愚であるが、君主の座にあまり興味を喚起していない。息子の姫平も同様に護国の剣を託されたことで、自身が正統な後継者だと主張することもない。本来ならば、骨肉相食む政争が繰り広げられていたことだろうが、両者とも幸い君主の座に関しては、恬淡ていたんであった。

 一度、冊立された太子が廃されることになれば、国は多いにみだるる。だが、燕王は分別がある為政者である。後継者争いによる騒擾そうじょうで滅びた国は幾つも存在する。其れを知らぬ燕王ではない。何故、己の命が風前の灯である時、太子に託すべき護国の剣を、一庶子である姫平に託したのか。この所、秦開の胸中には獏とした不安ばかりが拡がっていた。
 
 姫平は護国の剣を執り、装飾のない黒鞘から刃を抜き放った。錆を纏った刀身が露わになる。彼は剣格に嵌った蒼と黒の玉をつらつらと眺める。
 
 秦開は榻から飛びのき、床に額ずく。軍人が軽々しく直視して良いものではない。王の分身とも呼べる、霊験あらたかなものだ。なのに、当の持ち主ときたらー。

「こんな鈍らに何の価値があるというのか。女の柳腰すら斬れるか怪しいものだ。爺様は、何故、このようなものを俺に託したのか」
 と悪態をつき、まるで玩具のような扱いで空を斬ってみせる。驚きのあまり秦開は、言葉に窮した。霊験あらたかな、古の為政者達の魂が宿った宝剣を、これほどに雑に扱う愚か者は存在しただろうか。

「これのせいでつまらぬ揣摩憶測しまおくそくが宮中で流れている。迷惑も甚だしい。俺に王など務まるはずはないのだ。爺様も職のような勤勉な孫に託せば良いものを」
 姫平は憤懣をぶつけるように、荒々しく剣を鞘へと戻した。秦開は眩暈を覚え、気が遠くなるのを感じた。視界が暗転していく。
 
 その時、扉が開く音がした。傾いた秦開の躰を、優しく受け止めてくれる者がいる。

子之しし殿」
 玲瓏な女子のような顔が眼の前にあった。陶器のような白い肌に、桃色の唇。艶のある美髯。切れのある眼が和らいでいる。

「お気を確かに。秦開将軍」
 己を受け止めた美青年に、頬が赤らむのを感じた、秦開は慌てて立ち上がり拱手する。流麗な動きで、子之は拱手を返した。

「父上の薬篭中物お気に入りが何の用だ?」
 強い口調で姫平は尋ねる。声音は険を含んでいる。
 
 子之という青年官吏は、太子噲の唾壺係から成り上がってきた者であった。その素性は明らかではないが、今や太子噲は子之をまるで愛妾のように片時も離さない。
太子噲は鶏姦だんしょくの気がある。彼の出世には、端麗な容姿が多いに活躍したのかもしれない。だが、彼は容貌だけで成り上がってきた男ではない。頭脳明晰かつ機略雄大。そして、太子噲を通して、人脈を拡げ、今では宮中一に顔が広い。人脈を侮るなかれ。時に強い後ろ盾を得る者は、王以上の権を持つ。飛ぶ鳥を落とす勢いで力をつけた子之であるが、きな臭い噂は聞かない。清廉潔白―。其れを体現したような男が子之である。

「大王様が御呼びで御座います」
 蒲柳ほりゅうを窺わせる青年が、拝を重ね、長揖ちょうゆうする。姫平は何も返さない。己に向けられる敵愾心を意に返すこともなく、子之は眼許に笑みを刻む。

「何故、父の側近であるお前が、それを?」

「大王様の謁見を済ませたばかりなのです。下の者を遣わせれば、煩雑な手間が多い。故に不肖子之が参ったしだいで御座います」

「ほう、ご苦労なことだ。遂には、その美貌で爺様を篭絡ろうらくしたか」
 姫平が笑語する。

「大王様を篭絡など。有り得ませぬ。下賤の身である私は、大王様のご尊顔を拝するだけで、おこりを起こしたような躰が震えてしまうのです。篭絡などとても」
 子之は目尻を下げ、今にも泣きだしそうな顔になる。なんと蠱惑的こわくてきな相貌だろうか。彼の悄然しょうぜんとした姿を眼の当りにすれば、市中の女子は競うように、彼を慰めることだろう。

「ちっ、気勢が削がれた。もういい、去ね」
 姫平は背を向け、独座どくざに向かう。その手には護国の剣がある。

「では。之にて失礼致します」
 再び長揖する子之。持ち上げて重ねた両手。垂れ下がる朝服の袖の隙間から、鋭い刃の如き眼が光ったような気がした。そして、その視線の先にはー。護国の剣がある。まるでその眼つきは、豺狼さいろうのように卑しい。まさかと思い、瞬くと、子之の眼はいつもの穏やかなものに戻っていた。

 一礼し去る子之に、秦開は老練の軍人らしく、固い拱手で返す。

「若。何故、あれほどに子之殿に冷たくあたられるのです?」
 脇息に凭れかかる姫平は、不満顔で、

「奴からは狡猾な獣の匂いがする」
 と言った。

「獣の匂いですか」
 首を傾げる。子之は燻した香草のかぐわしい匂いを纏ってはいた。だが、不意に思い出す。袖の隙間から覗かせた、子之の異様な眼つきを。

「お前は千軍万馬せんぐんまんばの猛将だが、人の本質を見抜く炯眼を持ち合わせていない」
 秦開は軽く吐いた、若き庶子の言葉に気色ばむ。

「何を申されるか。私が見込み鍛え上げた兵士達は、一様に戦場で赫赫かくかくたる功績を挙げております」
 認めたくはないが、姫平も、己が見込んだ一人であった。常に飄々と振る舞い、宮中ではうつけとものと評される姫平には、瞠目に値するほどの軍才が宿っている。

体術、剣術、弓術、馬術―。その全て既に絶技の域にある。彼が王の血を引くものではなく、武門の子としてこの世に生まれ落ちたのなら、戦国七雄随一の軍人になれる可能性を秘めている。不羈奔放ふきほんぽうな庶子に翻弄されながらも、秦開は赤心から、姫平に愛情と忠義を抱いている。

「文官と武官は同じ生き物と考えぬことだ。例外もあるが、往々にして奴等は、仁義の心を持たず、小利に誘われて、翩々へんぺんと尽くす相手を変えるような輩だ。だが、自己韜晦じことうかいは武官より遥かに巧い」

「子之殿がそうだと」
 姫平は上体を起こし、秦開と向き直った。飄然とした表情は消え、真一文字に唇を結ぶ。秦開の肌が粟立った。

(この顔だ。時折、見せるこの真剣な表情からは偉器を感じる)
 収斂されていく気配。この若き庶子は、万を超える白刃を潜り抜けてきた、宿将秦開でさえ竦みあがる気魄を時に放つ。

「宮中でのし上がってきた者に、手を汚していない者などいない。誰でも探りを入れれば、黒いものは浮き上がってくる。しかし、あの優男にそれはない。俺の目が曇り、本当に奴が神の如き清廉潔白な男なのか。そうでなければー」
 言葉を切った姫平は、膝を強く叩く。

「秦開。東の情勢を調べて欲しい」

「東―。つまり、斉ですか?」
 斉は燕の南東に位置する、山東地方の大国である。六十万を越える精兵を有し、領土は包囲二千里を超える。西の秦と東の斉―。この二国が七雄で頭一つ飛び抜けた国力を有している。

「斉に胡乱な動きがあると?」
 燕と斉はいつ戦争状態に突入しておかしくない状態にあった。燕の領土は朝鮮にまで至り、長大な領土を有している。斉は虎視眈々と、燕が有する肥沃な大地を掠め奪ろうと狙っているのだ。

 斉は常に燕を不庸国ふようこくの如く見下し、高圧的な外交を仕掛けてくる。いわば、燕にとって斉は不俱戴天の敵に等しい。

 だが、実際斉と燕には大きな国力の差がある。しかし、斉がそう簡単に軍を出師すいしできないでいるのは、燕が秦の女婿じょせいの国であるからである。燕王が妻として、秦の公女を娶ることで、両国は同盟関係となった。無論、之には秦の思惑がある。燕と結ぶことで、斉の西進を抑えこもうと云うのだ。
 
 この頃、周の天子の神威は、尾羽打ち枯らしている。諸侯達は落魄らくはくした天子に取って変わり、中原を得ようと躍起になっている。その機運は、西の秦と東の斉が最も顕著である。

「いや。軍の動きではない。調べて欲しいのは物の流れだ」

「物の流れですか?」

「不穏なのは東の斉ではなく、薊の市中よ」
 時に姫平は、驚くほどの嗅覚の鋭さを発揮する。そして、阿呆に見えてそうではない。頭の切れは尋常ではなく、秦開が手を伸ばしても届かぬほどに気宇広大きうこうだいなのである。
 己の理解を越える範疇で、姫平は思惟を巡らせている。故に、秦開は諾と答えた。

「では頼む」
 姫平は相好を崩すと、従者を呼び、燕王の元へ向かう、支度を整えた。
 
 短く挨拶を済ませ、房を後にする。

「胡乱なのは東の斉ではなく、薊の市中か」
 扉を背にして、姫平の言葉を反芻する。総身を這うような悪寒が走った。

「不吉なことが起らねば良いが」
 秦開は独りごちり、その場を後にした。
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