瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦

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庶子平

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 利星と名乗る少年が、屈強に二十人あまりの男達を引き連れ、負郭に突如現れたのは二年前のことだ。負郭窮巷ふかくきゅうこうと呼ばれる貧民街はけい、という都市の中で、最も貧しい暮らしをおくる者達の住処である。

 城郭内にも閭左りょさと呼ばれる貧民街はある。しかし、負郭に住まう人々の方が遥かに貧しい。彼等の大分を占めているのが、流民、癩病患者らいびょうかんじゃ、戦争孤児、障がい者、未亡人である。彼は酷薄な世から弾き出された彼等は、城郭内に住まうことを許されず、郭の外壁近くで蝟集いしゅうするように暮らしている。ようは世の爪弾き者達の巣窟と云っていい。

糞尿の臭いが邑を覆い、その日食う者にもありつけない者達が至る所に屯しいているような陰鬱な邑である。貴族はおろか、平民もあえて近づこうとしない。

だが、負郭には格安で娼婦を買える娼館がある。当然、娼館で働く女達も負郭の出であるから、孤児であった女が多い。早いものでは十になる頃には、色を売っている。この貧しい邑で女が生きて行く上では、色を売るしか道はないのだ。だが、操を捧げたとて得られる銭は雀の涙ほど。

負郭に度々訪れる城郭内から訪れる男達は、女を性のはけ口としてみていない無頼漢ばかり。雀の涙ほどの銭をちらつかせて、安値の女だからと乱暴を働く者。また、腕っ節の強さにものをいわせて、銭を払わない者も多い。だが、貧民達に抗う力も気力もない。ただ唯々諾々と理不尽に耐えることしかできない。

無頼漢達に言わせれば、貧しいことを理由に、納税を免除されている貧民達に人権などない。たとえ官衙かんがに無頼漢達の狼藉を訴えた所で、士吏しり(警察官)は動かない。士吏を束ねる司冦しこう(警察長官)でさえも、無頼漢達と同じことを告げる。爪弾き者である貧民達には、世界はあまりにも酷薄であった。

 しかし、利星という一人の少年が、この小さな世界の有り様を変えた。衣服こそ質素なものを纏っていたが、娼館の主人である石鵲せきじゃくには、彼が由緒正しい良家の者であると分かった。薄汚れた銭を握り締め、傲岸不遜に構える、無頼漢達と明らかに纏う気配が違うのだ。

歳にして十六ほどであったが、気配は清冽な湧水の如く澄んでいた。それでいて、威風堂々としており、鋼の双眼の奥には烈しい炎が揺らめいていた。

 随分と長い間、朽ちかけた娼館を営んでいた。人を視る眼は、自然と養われてきた。突如、負郭に現れた少年は、石鵲が見てきた、どの男よりも勁い侠気を放っていた。
 
 貧民達は少年と屈強な男達に、胡乱な視線を送る。だが、少年は意に返すことなく、

「おい。あんた」
 と物影から眺めていた、石鵲を手招きした。

「わ、わたしですか?」
 自然と二回りは下の少年に遜っていた。彼の後ろに控える男達が怖かったわけではない。少年には慇懃いんぎんに接したくなる、凄味のようなものがあった。
 
 少年は爽やかな笑貌を浮かべた。肺腑が掴まれたような衝撃が走った。貧民は皆、一様に卑屈である。環境と生まれのせいか、皆一様に己に対する、劣等感のようなものを抱いている。だが、少年のさつとした笑貌には、卑屈なものは一切感じなかった。

「城郭内から下ってきた、無頼漢共が娼館の女子達に狼藉を働いていると聞いた」

「えっ?さ、左様でございます」

「士吏共は?」
 風が吹き、少年の耳翼にある、軟玉製の充耳みみかざりが揺れる。

「訴えた所で相手にはしてもらえません」
 少年は舌を打った。

「やはりか」
 髭のない顎先を少年はさする。何やら思案しているようで、鋼色の瞳は宙を見つめている。

「相分かった。問題はこの利星が全て解決してやろう」
 利星は莞爾かんじとして笑う。
 
 胡乱な集団を遠巻きで眺めている、貧民達は警戒心を剥き出しにしている。すると、角にある娼館から怒鳴り声が聞こえてきた。

「おっ。さっそくか」

 利星は供に、「ここで待て」と告げ、喜色を顔に浮かべ、怒声がする娼館の中へと入っていた。

 一刻後。娼館の玄関口から、半裸の男が転がり出てきた。

「何しやがる!」
 慌てて立ち上がった男は、このあたりでは面倒な客として有名であった。気に入らないことがあれば娼婦に手をあげ、他の客にあてがうことができないほどに、顔に傷をつけられた娼婦もいる。後を追うように娼館から出てきた、利星は拳を鳴らし、巌のような無頼漢を見上げる。
 
利星は小躯ではない。恰幅は良いほうだが、所詮はまだ成長途上にある子供の躰である。たいして、無頼漢は傲慢な態度に相応の魁偉である。胸板は悪金の楯の如く硬そうで、二の腕は丸太のようだ。

 利星は怖じることなく、決然と無頼漢を睨み付ける。

「お前か、ここらで好き放題やってるって奴は?」
 先ほどまでの飄然とした印象は一転。利星は炎雷の如き、気魄を放った。

「何なんだよ。おめぇは!?」
 無頼漢の額に脂汗が滲む。自身の胸の辺りまでの上背しかない、少年の気魄にのまれているのは、一目瞭然であった。

「今日から此処を仕切る利星だ」

「わけのわからないことをごたごたと!」
 無頼漢が勇を鼓して、拳を振り上げた。
 
 利星は嗤っていた。大腕から繰り出される一撃を悠々と躱す。
 
 一息で懐へ。利星は腰を沈めた。乾いた音が一度だけ響いた。無頼漢の体躯がくの字に曲がる。
 
 何が起きたのか分からなかった。ただ気が付いた時には、無頼漢は地に臥し、嘔吐していた。

「おい。お前」
 涙目の無頼漢の髪を掴み、無理矢理に面を上げる。

「いてぇだろ?でも、お前のやってきたことと、この程度の痛みじゃ釣り合いはとれねぇぞ」
 恐ろしいほどに利星の声は冷淡であった。

「俺は今からお前をこれでもかっていうほどに痛めつける。死にたくなるくらいにな。いいか、お前は見せしめだ。俺が仕切るシマで、お前のような破落戸ごろつき共が馬鹿できないようにな」

「ゆ、ゆるしてください」
 傍若無人に振舞っていた無頼漢が、人目を憚らず涙をこもごもと流す。
 
「利星は相好を崩した。

「駄目だ、言ったはずだ。お前は見せしめだと」
 そこからは凄惨であった。無頼漢は一回り以上歳下の少年に半殺しになるまで痛めつけられた。
 
 利星は返り血に塗れた頬を拭い、

「この破落戸を仲間のもとへ連れていけ。仔細はこの男自らが仲間に語り、一罰百戒いちばつひゃっかいとなるだろう」と供に告げた。数人の供が、唯々諾々と少年に従い、虫の息である無頼漢を運ぶ。
 
 争闘の気配が去ると、一帯は森閑としていた。誰もが利星の一挙手一投足に注眼している。ある者はあまりにも苛烈な少年に怯え、またある者は羨望の眼差しを向けている。
 
 利星は拳を濡らす血潮を払い、喧噪をききつけ集まった人々に向き直った。

「今日から此処は俺が仕切る!」
 利星の声は不思議とよく透った。心そのものに訴えかけてくるような響きがある。信じ難いことだが、誰も素性も分からない少年の放った言葉に、異を唱えることはしなかった。怖じる心はあったのかもしれない。だが、誰もが利星に万事委ねれば、この邑から鬱々とした闇を払ってくれると直感した。

「俺は恐怖で縛りつけるようなことはしない。約束しよう。俺が此処の顔役となる以上、お前達を苦しめ続けてきた不条理から解放してやる」
 声高に宣言した利星は、その日から、負郭窮巷の顔役となった。
 
 利星が負郭を差配するようになって、貧民達の暮らし向きは大きく変わった。五日に二度の炊き出しが行われ、餓えた者達は僅かな間でも腹を満たすことができる。また仕事を望む者には、利星が賤しい仕事ではあるが斡旋してくれる。気位の高い庶民が手をつけたくない仕事はごまんとある。

また癩病患者達の為の療養所が建てられた。簡素な造りではあるが、路傍で孤独に死を待つしかない病人達は、一時ではあるが安息の地を与えられたのである。炊き出し、仕事の斡旋、療養所の建造は、全て無償であった。勿論、出資しているのは全て利星である。

利星は何一つ、見返りを求めなかった。だが、一つだけ彼が望んだものがある。それは情報である。負郭の者の中には、城郭内に入り、物乞いをする者もいる。往々にして物乞いをする者は、働く体力のない老人や、幼い孤児達が多い。路傍の隅で物乞いをする者達は、世間からまるでいない者のように扱われる。つまり、彼等の前では、政に関する胡乱な会話が行わることも多々あるのである。
 
彼等が屯する城門前や市街の路地などでは、様々な身分の者達が往来する。路地では、兵士達が人前では憚れることを口にすることもある。益のある情報を齎した者に、利星は相応の銭を与える。彼が娼館に出入りする理由も、娼婦を抱く為ではない。
 
 以前まで、わい無頼漢共しか相手にしてこなかったが、利星の手によって秩序が生まれ、城郭内の色街とはまではいかないまでも、譲歩できるまでの額で客をとることができるようになった。当然、値が上がると客層も幾らかましになる。時には宮廷に仕える、非番の兵士などが足を運ぶようにもなった。娼婦の前では、男は開放的になってしまうきらいがある。まぐわいの後、ぽろっと余計なことを漏らしてしまうことも少なくはない。
 
 利星は娼婦からも、情報を買った。ほうぼうから金子をはたいて、情報を買い集め、彼が何をしようとしているのか、誰も分からない。風来坊は決して、自身の素性について語ろうとはしない。

 彼が負郭に現れて二年―。石鵲が彼に関して得た情報と云えば、彼の母が負郭出身であることくらいである。
誰もが彼を「若旦那」と呼び、愛している。彼の素性について、憶測は飛び交っている。豪商の息子、名のある血筋の公孫こうそんではないのかなど。そうでもないとあの経済力は説明がつかないのである。石鵲は薄々気付いている。いや、己だけではない。彼と最も親しくている鐘鴻なども気づいている。幾ら偽名を使い、質素な衣を纏った所で隠せない品格が、利星にはある。

 石鵲は利星が消えた窓の方を見遣り、

「旦那に抱かれることがお前の夢ならば、燕王の血を継ぐ、あの御方の夢は一体どんなものなのだろうな」と呟いた。
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