2 / 47
序章
甘棠の歌
しおりを挟む
甘棠の樹は満開の白き花を咲かせている。一陣の風が吹く。すると、花々は清涼の風に運ばれて、抜けるような蒼空へと舞い上がる。柔らかい風の音だけが満たす静謐な空間に、突然、朗々たる歌声が響き渡る。
蔽芾たる甘棠
翦る勿れ伐る勿れ
召伯のやどりし所 蔽芾たる甘棠
翦る勿れ敗る勿れ 召伯の憩ひし所
こんもりと茂った甘棠の木
枝が茂り過ぎ邪魔になるから、切り払ってしまおうか
いやいや、枝を剪らないでおくれ。幹を伐らないでおくれ
召伯様がやどられた思い出の木だから
その歌声は老若男女―。何十人もの声が乱れることなく重なっている。辺りを四顧しても、不思議なことに人の気配はない。まるで、天から歌声が降り注いでいるようである。
天を仰いでいた視線を、甘棠の樹へと戻す。すると、白き衣を纏った翁が、樹の下に立っていた。髪、髭、睫毛に至るまで銀色の翁は、手招きをする。訝しみながらも、招きに応じる。
翁の腕の中には、一振りの剣があった。漆黒の鞘に納められた剣の剣格には、表裏二つの玉が填っている。一つは深海の如く深い蒼の玉。そして、もう一つは一切の不純物を含まない黒色の玉。
翁は若き君主に、腕に抱いた剣を手渡した。若き君主は、困惑交じりに、剣を受け取った。
「蒼き玉は聖水玉と呼び、君主の慈愛の心を看破する」
翁が澱みのない声で告げると、蒼き玉が淡い光を放つ。
「黒き玉は神鉄玉と呼び、君主としての素養に必要な彊力を看破するであろう」
言葉を継ぐと、黒き玉の内に、赤い雷霆が走る。
翁は満足げに頷くと、若き君主に剣を抜くように命じる。
若き君主は神性にあてられながら、唯唯諾諾と剣を鞘から抜き放つ。刀身は錆を纏っていた。熟した李ですら、まともに斬れそうにはない。彼はつらつらと刀身を眺める。
翁の嘆息が聞こえた。
「ふむ。素養は充分であるが、大器ではないか」
翁の声音に落胆が滲む。
「護国の剣を子孫へと託し続けよ。国を護る要となろう。よいか、いつかお主の子孫に、この剣の真の力を引き出す英雄王たるものが顕現するであろう」
「この剣の本当の力ですか?」
若き君主が問うた。
「英雄王と護国の剣が巡り合った時、二玉は輝き、剣は本来の姿を取り戻す。だが、努々忘れるな。本来、護国の剣は英雄王の物。強き妖力が込められておる。姫姓の者は血筋ゆえ、耐性があるが、そうでない者には魔が囁く。決して、後胤の者以外に、この剣を与えてはならぬ。他者の手に渡れば、護国の剣の妖力は、国に明けぬことのない夜を呼ぶ」
翁は眦を見開いて、まるで幼子に言いつけるように、ゆっくりとー。そして、力の籠った声で言い含めた。
「承知致しました」
含みのない切れのよい返事を聞いて、老人は相好を崩した。
「ではー。その時まで、剣を託したぞ」
烈風が吹く。老人の白き衣の裾が翻る。白い花が雪のようにはらはらと舞う。
「お待ちを。貴方様は一体―」
とても眼を開けていられないほどの風が吹き荒れた。
果実のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。やがて風が熄み、瞼を開くと、其処には青々とした葉をつけた甘棠の樹があった。
だが、先ほどまで咲き誇っていた白き花はなく、樹の下に立っていた老人の姿もなかった。我が眼を疑い、若き君主は白昼夢でも見たのかと戸惑った。
しかし、手の中には、一振りの剣があった。呆然自失する若き君主。
天空から再び賛歌が降り注ぐ。
蔽芾たる甘棠
翦る勿れ伐る勿れ
召伯のやどりし所 蔽芾たる甘棠
翦る勿れ敗る勿れ 召伯の憩ひし所
蔽芾たる甘棠
翦る勿れ伐る勿れ
召伯のやどりし所 蔽芾たる甘棠
翦る勿れ敗る勿れ 召伯の憩ひし所
こんもりと茂った甘棠の木
枝が茂り過ぎ邪魔になるから、切り払ってしまおうか
いやいや、枝を剪らないでおくれ。幹を伐らないでおくれ
召伯様がやどられた思い出の木だから
その歌声は老若男女―。何十人もの声が乱れることなく重なっている。辺りを四顧しても、不思議なことに人の気配はない。まるで、天から歌声が降り注いでいるようである。
天を仰いでいた視線を、甘棠の樹へと戻す。すると、白き衣を纏った翁が、樹の下に立っていた。髪、髭、睫毛に至るまで銀色の翁は、手招きをする。訝しみながらも、招きに応じる。
翁の腕の中には、一振りの剣があった。漆黒の鞘に納められた剣の剣格には、表裏二つの玉が填っている。一つは深海の如く深い蒼の玉。そして、もう一つは一切の不純物を含まない黒色の玉。
翁は若き君主に、腕に抱いた剣を手渡した。若き君主は、困惑交じりに、剣を受け取った。
「蒼き玉は聖水玉と呼び、君主の慈愛の心を看破する」
翁が澱みのない声で告げると、蒼き玉が淡い光を放つ。
「黒き玉は神鉄玉と呼び、君主としての素養に必要な彊力を看破するであろう」
言葉を継ぐと、黒き玉の内に、赤い雷霆が走る。
翁は満足げに頷くと、若き君主に剣を抜くように命じる。
若き君主は神性にあてられながら、唯唯諾諾と剣を鞘から抜き放つ。刀身は錆を纏っていた。熟した李ですら、まともに斬れそうにはない。彼はつらつらと刀身を眺める。
翁の嘆息が聞こえた。
「ふむ。素養は充分であるが、大器ではないか」
翁の声音に落胆が滲む。
「護国の剣を子孫へと託し続けよ。国を護る要となろう。よいか、いつかお主の子孫に、この剣の真の力を引き出す英雄王たるものが顕現するであろう」
「この剣の本当の力ですか?」
若き君主が問うた。
「英雄王と護国の剣が巡り合った時、二玉は輝き、剣は本来の姿を取り戻す。だが、努々忘れるな。本来、護国の剣は英雄王の物。強き妖力が込められておる。姫姓の者は血筋ゆえ、耐性があるが、そうでない者には魔が囁く。決して、後胤の者以外に、この剣を与えてはならぬ。他者の手に渡れば、護国の剣の妖力は、国に明けぬことのない夜を呼ぶ」
翁は眦を見開いて、まるで幼子に言いつけるように、ゆっくりとー。そして、力の籠った声で言い含めた。
「承知致しました」
含みのない切れのよい返事を聞いて、老人は相好を崩した。
「ではー。その時まで、剣を託したぞ」
烈風が吹く。老人の白き衣の裾が翻る。白い花が雪のようにはらはらと舞う。
「お待ちを。貴方様は一体―」
とても眼を開けていられないほどの風が吹き荒れた。
果実のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。やがて風が熄み、瞼を開くと、其処には青々とした葉をつけた甘棠の樹があった。
だが、先ほどまで咲き誇っていた白き花はなく、樹の下に立っていた老人の姿もなかった。我が眼を疑い、若き君主は白昼夢でも見たのかと戸惑った。
しかし、手の中には、一振りの剣があった。呆然自失する若き君主。
天空から再び賛歌が降り注ぐ。
蔽芾たる甘棠
翦る勿れ伐る勿れ
召伯のやどりし所 蔽芾たる甘棠
翦る勿れ敗る勿れ 召伯の憩ひし所
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
白狼 白起伝
松井暁彦
歴史・時代
時は戦国時代。
秦・魏・韓・趙・斉・楚・燕の七国が幾星霜の戦乱を乗り越え、大国と化し、互いに喰らう混沌の世。
一条の光も地上に降り注がない戦乱の世に、一人の勇者が生まれ落ちる。
彼の名は白起《はくき》。後に趙との大戦ー。長平の戦いで二十四万もの人間を生き埋めにし、中国史上、非道の限りを尽くした称される男である。
しかし、天下の極悪人、白起には知られざる一面が隠されている。彼は秦の将として、誰よりも泰平の世を渇望した。史実では語られなかった、魔将白起の物語が紡がれる。
イラスト提供 mist様
女髪結い唄の恋物語
恵美須 一二三
歴史・時代
今は昔、江戸の時代。唄という女髪結いがおりました。
ある日、唄は自分に知らない間に実は許嫁がいたことを知ります。一体、唄の許嫁はどこの誰なのでしょう?
これは、女髪結いの唄にまつわる恋の物語です。
(実際の史実と多少異なる部分があっても、フィクションとしてお許し下さい)
【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる