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序章
甘棠の歌
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甘棠の樹は満開の白き花を咲かせている。一陣の風が吹く。すると、花々は清涼の風に運ばれて、抜けるような蒼空へと舞い上がる。柔らかい風の音だけが満たす静謐な空間に、突然、朗々たる歌声が響き渡る。
蔽芾たる甘棠
翦る勿れ伐る勿れ
召伯のやどりし所 蔽芾たる甘棠
翦る勿れ敗る勿れ 召伯の憩ひし所
こんもりと茂った甘棠の木
枝が茂り過ぎ邪魔になるから、切り払ってしまおうか
いやいや、枝を剪らないでおくれ。幹を伐らないでおくれ
召伯様がやどられた思い出の木だから
その歌声は老若男女―。何十人もの声が乱れることなく重なっている。辺りを四顧しても、不思議なことに人の気配はない。まるで、天から歌声が降り注いでいるようである。
天を仰いでいた視線を、甘棠の樹へと戻す。すると、白き衣を纏った翁が、樹の下に立っていた。髪、髭、睫毛に至るまで銀色の翁は、手招きをする。訝しみながらも、招きに応じる。
翁の腕の中には、一振りの剣があった。漆黒の鞘に納められた剣の剣格には、表裏二つの玉が填っている。一つは深海の如く深い蒼の玉。そして、もう一つは一切の不純物を含まない黒色の玉。
翁は若き君主に、腕に抱いた剣を手渡した。若き君主は、困惑交じりに、剣を受け取った。
「蒼き玉は聖水玉と呼び、君主の慈愛の心を看破する」
翁が澱みのない声で告げると、蒼き玉が淡い光を放つ。
「黒き玉は神鉄玉と呼び、君主としての素養に必要な彊力を看破するであろう」
言葉を継ぐと、黒き玉の内に、赤い雷霆が走る。
翁は満足げに頷くと、若き君主に剣を抜くように命じる。
若き君主は神性にあてられながら、唯唯諾諾と剣を鞘から抜き放つ。刀身は錆を纏っていた。熟した李ですら、まともに斬れそうにはない。彼はつらつらと刀身を眺める。
翁の嘆息が聞こえた。
「ふむ。素養は充分であるが、大器ではないか」
翁の声音に落胆が滲む。
「護国の剣を子孫へと託し続けよ。国を護る要となろう。よいか、いつかお主の子孫に、この剣の真の力を引き出す英雄王たるものが顕現するであろう」
「この剣の本当の力ですか?」
若き君主が問うた。
「英雄王と護国の剣が巡り合った時、二玉は輝き、剣は本来の姿を取り戻す。だが、努々忘れるな。本来、護国の剣は英雄王の物。強き妖力が込められておる。姫姓の者は血筋ゆえ、耐性があるが、そうでない者には魔が囁く。決して、後胤の者以外に、この剣を与えてはならぬ。他者の手に渡れば、護国の剣の妖力は、国に明けぬことのない夜を呼ぶ」
翁は眦を見開いて、まるで幼子に言いつけるように、ゆっくりとー。そして、力の籠った声で言い含めた。
「承知致しました」
含みのない切れのよい返事を聞いて、老人は相好を崩した。
「ではー。その時まで、剣を託したぞ」
烈風が吹く。老人の白き衣の裾が翻る。白い花が雪のようにはらはらと舞う。
「お待ちを。貴方様は一体―」
とても眼を開けていられないほどの風が吹き荒れた。
果実のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。やがて風が熄み、瞼を開くと、其処には青々とした葉をつけた甘棠の樹があった。
だが、先ほどまで咲き誇っていた白き花はなく、樹の下に立っていた老人の姿もなかった。我が眼を疑い、若き君主は白昼夢でも見たのかと戸惑った。
しかし、手の中には、一振りの剣があった。呆然自失する若き君主。
天空から再び賛歌が降り注ぐ。
蔽芾たる甘棠
翦る勿れ伐る勿れ
召伯のやどりし所 蔽芾たる甘棠
翦る勿れ敗る勿れ 召伯の憩ひし所
蔽芾たる甘棠
翦る勿れ伐る勿れ
召伯のやどりし所 蔽芾たる甘棠
翦る勿れ敗る勿れ 召伯の憩ひし所
こんもりと茂った甘棠の木
枝が茂り過ぎ邪魔になるから、切り払ってしまおうか
いやいや、枝を剪らないでおくれ。幹を伐らないでおくれ
召伯様がやどられた思い出の木だから
その歌声は老若男女―。何十人もの声が乱れることなく重なっている。辺りを四顧しても、不思議なことに人の気配はない。まるで、天から歌声が降り注いでいるようである。
天を仰いでいた視線を、甘棠の樹へと戻す。すると、白き衣を纏った翁が、樹の下に立っていた。髪、髭、睫毛に至るまで銀色の翁は、手招きをする。訝しみながらも、招きに応じる。
翁の腕の中には、一振りの剣があった。漆黒の鞘に納められた剣の剣格には、表裏二つの玉が填っている。一つは深海の如く深い蒼の玉。そして、もう一つは一切の不純物を含まない黒色の玉。
翁は若き君主に、腕に抱いた剣を手渡した。若き君主は、困惑交じりに、剣を受け取った。
「蒼き玉は聖水玉と呼び、君主の慈愛の心を看破する」
翁が澱みのない声で告げると、蒼き玉が淡い光を放つ。
「黒き玉は神鉄玉と呼び、君主としての素養に必要な彊力を看破するであろう」
言葉を継ぐと、黒き玉の内に、赤い雷霆が走る。
翁は満足げに頷くと、若き君主に剣を抜くように命じる。
若き君主は神性にあてられながら、唯唯諾諾と剣を鞘から抜き放つ。刀身は錆を纏っていた。熟した李ですら、まともに斬れそうにはない。彼はつらつらと刀身を眺める。
翁の嘆息が聞こえた。
「ふむ。素養は充分であるが、大器ではないか」
翁の声音に落胆が滲む。
「護国の剣を子孫へと託し続けよ。国を護る要となろう。よいか、いつかお主の子孫に、この剣の真の力を引き出す英雄王たるものが顕現するであろう」
「この剣の本当の力ですか?」
若き君主が問うた。
「英雄王と護国の剣が巡り合った時、二玉は輝き、剣は本来の姿を取り戻す。だが、努々忘れるな。本来、護国の剣は英雄王の物。強き妖力が込められておる。姫姓の者は血筋ゆえ、耐性があるが、そうでない者には魔が囁く。決して、後胤の者以外に、この剣を与えてはならぬ。他者の手に渡れば、護国の剣の妖力は、国に明けぬことのない夜を呼ぶ」
翁は眦を見開いて、まるで幼子に言いつけるように、ゆっくりとー。そして、力の籠った声で言い含めた。
「承知致しました」
含みのない切れのよい返事を聞いて、老人は相好を崩した。
「ではー。その時まで、剣を託したぞ」
烈風が吹く。老人の白き衣の裾が翻る。白い花が雪のようにはらはらと舞う。
「お待ちを。貴方様は一体―」
とても眼を開けていられないほどの風が吹き荒れた。
果実のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。やがて風が熄み、瞼を開くと、其処には青々とした葉をつけた甘棠の樹があった。
だが、先ほどまで咲き誇っていた白き花はなく、樹の下に立っていた老人の姿もなかった。我が眼を疑い、若き君主は白昼夢でも見たのかと戸惑った。
しかし、手の中には、一振りの剣があった。呆然自失する若き君主。
天空から再び賛歌が降り注ぐ。
蔽芾たる甘棠
翦る勿れ伐る勿れ
召伯のやどりし所 蔽芾たる甘棠
翦る勿れ敗る勿れ 召伯の憩ひし所
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