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好きなのは…
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藤倉商事の最上階である十一階の、社長室に隣接する応接間で、弘貴は目の前に座る二人の男女に厳しい表情を向けていた。
女の方は松井といい、遥香を突き飛ばした派遣社員、高梨を担当していた派遣会社の営業で、男の方はその派遣会社の支店長らしく、鈴木と名乗った。
広々とした応接間――、座り心地のいい革張りのソファに、ヨーロッパの有名メーカーが手掛けた品のいいローテーブル。社長秘書が持って来た珈琲の香りも最高級だとわかる。
そんな室内で、弘貴の目の前に座る松井と鈴木は真っ青な顔をして恐縮していた。
弘貴の隣には営業二課の課長が、同じく額に汗を浮かべて、何とも言えない困った表情を浮かべている。
弘貴の斜め左の、一人がけのソファには藤倉商事の社長その人が腰を下ろしていた。
遥香が事故にあってから、一週間がすぎた。
高梨はもちろん、翌週の月曜日から仕事に来なくなったが、直接謝罪に訪れたわけではない。
派遣会社を通して謝罪の電話があったのち、日を改めてお詫びと、今後のことについて話し合いたいと言われ――、社長の都合も合わせて、その場が本日設けられたのだ。
相変わらず遥香の体の中身はリリーのまま。リリーを一人にしておくことは、最初は不安だったが、おとなしい彼女はマンションの部屋の中で本を読んだりテレビを見たりして静かに過ごしてくれているので、弘貴も安心して仕事に向かうことができていた。
高梨が所属する派遣会社の二人は、今回の件について示談交渉を行いたいという意志だった。
遥香をはねたタクシーがつけていたドライブレコーダーには、高梨が遥香を突き飛ばした映像が残っていたが、遥香を事故に合わせようという意志は高梨本人にはなく、衝動的な行動が引き起こした不運な事故だった――というのが派遣会社側の言い分である。
謝罪の意思すら見せず、よくもそんなことが言えるものだと思うが――、この怒りを派遣会社の二人に向けても仕方がないだろう。
もちろん、タクシードライバーが遥香をはねたのちにすぐに警察と救急車の手配をしてくれたから、この件については警察も認知しているし動いている。
遥香へも事情聴取を行いたいと連絡が入ったが、それについては、事故により事故前の記憶を失っていると、医師の診察記録もつけて弘貴が断りを入れていた。
もちろん、高梨に対しては任意の事情聴取が行われたと思われるが、警察から報告が来るわけではないのでわからない。
弘貴にも、一時的な感情に流されて裁判まで起こしてしまった結果、会社にどれほどの迷惑がかかるのかも理解していたし――、遥香の性格上、それを望まないだろうことも想像できていた。
「不幸中の幸いというか、秋月さんの怪我も軽症ですんだことだし、本件については現段階で訴訟の意思はない――ということでいいかな、八城係長」
居心地の悪い沈黙が落ちたまま、なかなか話が先に進みそうにないさそうなので、社長が静かに口を開く。
恐縮しすぎてただ黙っていることしかできない課長は正直全く役に立たない。今回の事件について、遥香のかわりに弘貴が対応する必要性があったため、課長には遥香と交際していることと、あわせて自分が藤倉商事の会長の孫であることを打ち明けていた。そのせいで弘貴への扱いが、まるで腫れ物に触るかのようになってしまったことは少々失敗だったが――。
弘貴はため息をつくと、小さく頷いた。これ以上社長の時間も割けないだろう。
「ええ。交渉についてはこちらも弁護士を立てますので、弁護士を通して進めてください」
すると、派遣会社の二人はあからさまにホッとした表情を浮かべて、深く頭を下げる。
そののち、そそくさと彼らが退席すると、そのあとを追うように課長も部屋を出て行った。
応接間に社長と二人残された弘貴は、天井を見上げて、はーっと息を吐く。
「お前がそこまで怒るのを見たのは久しぶりだな。まあ、事情はわかるが」
社長に話しかけられて、弘貴は肩をすくめた。
「ご迷惑をおかけしてすみません、義昭さん」
社長を名前で呼んだ弘貴は、ぬるくなった珈琲に手を伸ばす。
社長である大槻義明は、弘貴とは実際の血のつながりはないが、関係がないわけでもない。
会長の長男であり弘貴の父親である孝信は、会社を継ぐ意思がなかった。会長には孝信しか子供はおらず、考えた末に、会長の親友の息子であり、アメリカの会社で経営コンサルタントとして働いていた彼を引き抜き、社長に据えたのだ。
義昭と孝信も友人同士であったため、弘貴は幼いことから義昭のことを知っていたし、よく遊んでもらったことも覚えている。
子供のいない義昭は弘貴を実の息子のように可愛がってくれていた。
「別にいいよ。その遥香ちゃんには会ってみたいけどなぁ」
「まだ体調がよくないので……、そのうちに」
弘貴は小さく笑ってごまかす。
遥香を思い出すたびに、弘貴の心はズキズキと痛んだ。
もしも遥香が戻ってこなければ――
そう考えて、弱気になって、遥香のかわりにリリーと……、と思ってしまったが、やはり遥香が恋しい。
どうしても遥香に会いたいのに――、滅多に夢を見なくなった弘貴は、夢の中でも彼女に会うことはできなかった。
弘貴はぬるくなった珈琲をちびりちびりと飲みながら、カップの底も見えない珈琲のように、自分が先の見えない闇の中にいるような気がしてならなかった。
女の方は松井といい、遥香を突き飛ばした派遣社員、高梨を担当していた派遣会社の営業で、男の方はその派遣会社の支店長らしく、鈴木と名乗った。
広々とした応接間――、座り心地のいい革張りのソファに、ヨーロッパの有名メーカーが手掛けた品のいいローテーブル。社長秘書が持って来た珈琲の香りも最高級だとわかる。
そんな室内で、弘貴の目の前に座る松井と鈴木は真っ青な顔をして恐縮していた。
弘貴の隣には営業二課の課長が、同じく額に汗を浮かべて、何とも言えない困った表情を浮かべている。
弘貴の斜め左の、一人がけのソファには藤倉商事の社長その人が腰を下ろしていた。
遥香が事故にあってから、一週間がすぎた。
高梨はもちろん、翌週の月曜日から仕事に来なくなったが、直接謝罪に訪れたわけではない。
派遣会社を通して謝罪の電話があったのち、日を改めてお詫びと、今後のことについて話し合いたいと言われ――、社長の都合も合わせて、その場が本日設けられたのだ。
相変わらず遥香の体の中身はリリーのまま。リリーを一人にしておくことは、最初は不安だったが、おとなしい彼女はマンションの部屋の中で本を読んだりテレビを見たりして静かに過ごしてくれているので、弘貴も安心して仕事に向かうことができていた。
高梨が所属する派遣会社の二人は、今回の件について示談交渉を行いたいという意志だった。
遥香をはねたタクシーがつけていたドライブレコーダーには、高梨が遥香を突き飛ばした映像が残っていたが、遥香を事故に合わせようという意志は高梨本人にはなく、衝動的な行動が引き起こした不運な事故だった――というのが派遣会社側の言い分である。
謝罪の意思すら見せず、よくもそんなことが言えるものだと思うが――、この怒りを派遣会社の二人に向けても仕方がないだろう。
もちろん、タクシードライバーが遥香をはねたのちにすぐに警察と救急車の手配をしてくれたから、この件については警察も認知しているし動いている。
遥香へも事情聴取を行いたいと連絡が入ったが、それについては、事故により事故前の記憶を失っていると、医師の診察記録もつけて弘貴が断りを入れていた。
もちろん、高梨に対しては任意の事情聴取が行われたと思われるが、警察から報告が来るわけではないのでわからない。
弘貴にも、一時的な感情に流されて裁判まで起こしてしまった結果、会社にどれほどの迷惑がかかるのかも理解していたし――、遥香の性格上、それを望まないだろうことも想像できていた。
「不幸中の幸いというか、秋月さんの怪我も軽症ですんだことだし、本件については現段階で訴訟の意思はない――ということでいいかな、八城係長」
居心地の悪い沈黙が落ちたまま、なかなか話が先に進みそうにないさそうなので、社長が静かに口を開く。
恐縮しすぎてただ黙っていることしかできない課長は正直全く役に立たない。今回の事件について、遥香のかわりに弘貴が対応する必要性があったため、課長には遥香と交際していることと、あわせて自分が藤倉商事の会長の孫であることを打ち明けていた。そのせいで弘貴への扱いが、まるで腫れ物に触るかのようになってしまったことは少々失敗だったが――。
弘貴はため息をつくと、小さく頷いた。これ以上社長の時間も割けないだろう。
「ええ。交渉についてはこちらも弁護士を立てますので、弁護士を通して進めてください」
すると、派遣会社の二人はあからさまにホッとした表情を浮かべて、深く頭を下げる。
そののち、そそくさと彼らが退席すると、そのあとを追うように課長も部屋を出て行った。
応接間に社長と二人残された弘貴は、天井を見上げて、はーっと息を吐く。
「お前がそこまで怒るのを見たのは久しぶりだな。まあ、事情はわかるが」
社長に話しかけられて、弘貴は肩をすくめた。
「ご迷惑をおかけしてすみません、義昭さん」
社長を名前で呼んだ弘貴は、ぬるくなった珈琲に手を伸ばす。
社長である大槻義明は、弘貴とは実際の血のつながりはないが、関係がないわけでもない。
会長の長男であり弘貴の父親である孝信は、会社を継ぐ意思がなかった。会長には孝信しか子供はおらず、考えた末に、会長の親友の息子であり、アメリカの会社で経営コンサルタントとして働いていた彼を引き抜き、社長に据えたのだ。
義昭と孝信も友人同士であったため、弘貴は幼いことから義昭のことを知っていたし、よく遊んでもらったことも覚えている。
子供のいない義昭は弘貴を実の息子のように可愛がってくれていた。
「別にいいよ。その遥香ちゃんには会ってみたいけどなぁ」
「まだ体調がよくないので……、そのうちに」
弘貴は小さく笑ってごまかす。
遥香を思い出すたびに、弘貴の心はズキズキと痛んだ。
もしも遥香が戻ってこなければ――
そう考えて、弱気になって、遥香のかわりにリリーと……、と思ってしまったが、やはり遥香が恋しい。
どうしても遥香に会いたいのに――、滅多に夢を見なくなった弘貴は、夢の中でも彼女に会うことはできなかった。
弘貴はぬるくなった珈琲をちびりちびりと飲みながら、カップの底も見えない珈琲のように、自分が先の見えない闇の中にいるような気がしてならなかった。
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